50年前の日本と現在の違いは、「夢」にあるのかもしれません。当時の夢は愚かしいものだったかもしれませんが、アウシュビッツ収容所を生き延びたユダヤ人精神科医のフランクルは、「ひとつの未来を信じることができなかった人間は収容所で滅亡していった。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落した」と語っています。
そして、「繊細な性質の人間がしばしば、頑丈な身体の人間よりも、収容所の生活をよりよく耐え得たと……なぜなら、彼らにとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである」とも語っています。
どのような夢であれ、心の中にいつも夢を持っている人は、逆境の中でも自分を保つことができます。ユダヤ人の何よりのたくましさは、イザヤ書などを通して、時代が絶望的に見えるほど、かえって神の救いが近いことを確信できたことにあります。
二年余り前に上映された映画「杉原千畝」では、ユダヤ人がシベリア鉄道、日本経由で他国に亡命するための命のビザの発行が描かれていました。そこで印象的だったのは、彼らが福井県の敦賀湾を前に、「ハティクバ(希望)」という歌を合唱している姿でした。
ユダヤ人たちはナチスの強制収容所の中でさえこれを歌っていました。歌詞は、「心の中に、その中に、ユダヤの魂が恋い焦がれる限り、前に、東の果てに、まなざしはシオンに注がれる。私たちの希望は今も失われることはない、二千年の希望が。私たちの地において、シオンの地とエルサレムにおいて、自由な民となることに」というものです。
これは現代のイスラエル国歌になっています。目の前の状況がどれほど悲惨でも、失望に変わることのない、永遠の夢を持ち続けることができる人は何と幸いでしょう。
1.「ひとりのみどり子が、私たちのために生まれ……永遠の父、平和の君』と呼ばれる」
暗闇の中で神の救いを待ち望む預言者イザヤは、「私は主(ヤハウェ)を待ち望む。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みを置く」(8:17)と告白します。それは、主が今、イスラエルにわざわいをもたらそうとしていることを知っていながら、なお、この方に望みをかけるという意味です。
私たちも、主が「御顔を隠しておられる」としか思えないような苦しみと孤独の中でも、なお、「この方に望みをかける」ことができます。そして、そのような信仰者の歩みの後には、なお多くの神の子たちが従うようになります。
つまり、キリストにあっては、絶望が望みに、孤独が交わりに、苦しみが喜びに変えられるのです。それは幻想ではなく、キリスト者の確信です。私たちの「救い」は、「望み」として現わされます。
そのような中で、8章21節から9章1節は一つのまとまりで、紀元前七百数十年頃のアッシリア帝国によってもたらされる苦しみの時代を指すと解釈できます。そこで、「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には……栄誉を受ける」(9:1)と記されます。
これはイズレエル平原からガリラヤ湖西岸に広がる肥沃な地、後にガリラヤ地方と呼ばれ、アッシリアによって異邦人の地とされてしまった絶望の地さえも、「栄誉を受ける」という約束です。つまり、救い主は自業自得で絶望に陥った人々に光を見させてくださるのです。
そしてそのことが、クリスマスによく引用される、「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見る」(9:2)という美しい預言として表現されます。さらにそれが、「あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる……」(9:3)と描かれます。繁栄の時代の到来が当時の人々の感覚で記されるのです。
それを実現する救い主の出現が、「ひとりのみどり子が、私たちのために生まれる」(9:6)と預言されます。これは7章14節の「インマヌエル」の誕生を指します。両者に共通するのは、救い主は赤ちゃんとして生まれるので、救いの実現には時間がかかるということです。当時の人々は、救い主の登場と共にすべての問題が解決すると期待しましたが、神のご計画はそうではありません。
そして救い主が、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」と記されます。「永遠の父」と呼ばれるのは、この方が信頼できる権威者であるという意味です。
また何よりもこの方が、「平和の君」と呼ばれるのは、イエスこそがこの世界に最終的な平和をもたらすという意味です。そのことがイザヤ書11章に記されます。
その神の国の成長の様子が、「その主権は増し加わり、その平和は限りなく」(9:7)と描かれます。そして、それをもたらす救い主は、「ダビデの王座に就いて」と描かれ、今滅亡しようとしているダビデ王国が立て直されることとして表現されます。
そして最後に、「万軍の主(ヤハウェ)の熱心がこれを成し遂げる」と、それが父なる神の断固たる意思であることが改めて強調されます。救いはこの地に実現します。
私たちの世界は今、平和の完成の途上にあります。ですから私たちはいつでもどこでもそれを意識しながら生きる必要があります。人生には、神が御顔を隠しておられるようにしか思えないことがあります。しかし、それはイエスご自身が歩まれた道であり、すべての時代のキリスト者が体験してきたことでした。
御顔を隠していると思われる主に、なお信頼し続けていることがキリスト者の不思議です。それは一人ひとりが預言者イザヤのように、神にとらえられ、そこで生きる意味と喜びを見出し続けているからです。
2.アッシリアへのさばき(10:5-19)と、イスラエルの残りの者の回復(10:20-34)
アッシリアは、神の道具としての「怒りのむち」「憤りの杖」(10:5)に過ぎないと記されます。それを具体的に神ご自身が、「わたしは、これを神を敬わない民に送り……民を襲えと、これに命じる……分捕らせ……奪わせ……踏みにじらせる」と言わると描かれます(10:6)。まるで神が広域暴力団を動かしたかのようです。
それに対し、「しかし、彼自身は……そうとは思わず、彼の心もそうとは考えない。彼の心にあるのは滅ぼすこと……断ち滅ぼすことだ」(10:7)とあるように、アッシリア自身は破壊自体を喜んでいるというのです。
それに対して、主は偶像礼拝を行うエルサレムをさばくためにアッシリアを用いた後になって初めて、「その高ぶる目の輝きを罰せられる」(10:12)というのです。それは彼が、「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった……全能者のように住民をおとしめた」(10:13)と、自分を神の立場に置いているからです。
それに対して、主ご自身が今度はその当のアッシリア自体を「滅ぼし尽くす」と言われます(10:18)。
そして、「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は……イスラエルの聖なる方、主(ヤハウェ)に真実をもって頼る。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る」(10:20、21)と記されます。
残念ながら、彼らは国を失って初めて、自分の愚かさを反省し、神に立ち返るのです。ただし、「たとえ……イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る」(10:22)と、主は、海辺の砂のように増え広がったアブラハムの子孫の、ごく一部しか救われないと語っておられます。
しかも、「すでに定められた全滅を……」(10:23)とは、神のさばきの計画は翻る可能性のない所まで来ており、「残りの者」の救いも、神のさばきが全うされた後に、初めて起こるというのです。
ただし、そのことの故にかえって、「シオンに住むわたしの民よ。アッシリアを恐れるな」(10:24)と語られます。それは歴史を動かしているのが超大国ではなく、イスラエルの神ご自身であるからです。
「もうほんの少しでわたしの憤りは終わり、わたしの怒りは彼らを滅ぼしてしまうからだ」(10:25)とは、主がアッシリアを用いてご自身の憤りを表した後には、その道具として用いられたアッシリア自身が滅ぼされるという意味です。
つまり、エルサレムにとって、滅びが迫っているとしか見えない状況は、救いが近づいているしるしに他ならないというのです。目の前の危機が、神のさばきによるものならば、それが全うされることによって初めて、新しい時代が出現するからです。
イエスの十字架は、私たちの罪に対する神の厳しいさばきでしたが、それを通して、死の力が打ち破られ、「新しい創造」が始まったのです。たとえ自業自得で苦しむとしても、そこで主を見上げるならすべてが変わります。
パウロは、「夜は深まり、昼は近づいて来ました」(ローマ13:12)と言いました。暗闇が増し加わると見えることは、光が近づいているしるしなのです。
3.救い主が実現する平和(シャローム) (11章)
11章では、クリスマス預言と新天新地の預言がセットになっています。つまり、二千年前のキリストの降誕は、全世界が新しくされることの保証なのです。
「エッサイの根株から新芽が生え」とありますが、エッサイはダビデの父です。ダビデの根株ではなく、「エッサイの根株」と呼ぶ中に、救い主の誕生の貧しさが示唆されています。ダビデ王家は堕落の一途をたどりバビロン捕囚で断絶したように見えましたが、その家系は守られ、ダビデに劣ることのない理想の王が、その同じ根元から生まれるというのです。
救い主は、人々の注目を集めずひっそりと生まれますが、「その上に主(ヤハウェ)の霊がとどまる」というのです。そしてそれは、イエスがヨルダン川でバプテスマを受けたとき、「聖霊が、鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた」(ルカ3:22)ことで成就しました。
そして主は公の働きを、ユダヤ人の会堂で、「主の霊がわたしの上にある」(ルカ4:18)とイザヤ61章1節を引用して宣言することから始められました。
ここでは、その御霊が理想的な王としての働きを三つの観点から可能にすると描かれます(11:2)。「知恵と悟りの霊」とは、3,4節にあるような、正しいさばき、公正な判決を下すためのものです。
また、「思慮と力の霊」とは、4節にあるように、外の敵と、内側の敵に適正に対処する計画力と実行力を意味します。口先だけの約束ではなく、その口から出ることばが必ず結果を生み出すような王となるのです。
三番目は「主を恐れる、知識の霊」と記されますが、これは理想の王が、日々主との豊かな交わりのうちに生きながら、その生涯を通して父なる神のみこころに従順であり続ける姿を示します。
そして、この理想の王は、「正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる」(11:5)とあるように、帯をしっかりとしめて働きをまっとうし、正義と真実で世界を治め、この地に理想の世界をもたらすというのです。
ところで神は、エデンの園という理想的な環境を造り、その管理をアダムに任せましたが、彼は神に従う代わりに自分を神とし、この地に荒廃をもたらしました。そしてアブラハムの子孫たちも「乳と蜜の流れる」豊かな約束の地を治めることに失敗しました。
そこで神である方ご自身が人となり、自らこの地に平和をもたらしてくださるのです。神の救いのご計画は、すべての造られたものを対象としています。
第一のダビデはアダムの子孫としての弱さを持っていたため、自らの失敗でエルサレムの平和を壊したばかりか、彼の子孫はますます堕落し、エルサレムに混乱をもたらします。
しかし6節からは、第二のダビデの手によって、第一のダビデの実現できなかった平和が全世界にもたらされると語られます。
「狼は小羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて」(11:6)とは、食べる側と食べられる側の関係が変わることです。新しい世界においては弱肉強食がなくなりすべての動物が平和のうちに生活できるというのです。
「小さい子供がこれを追って行く(導く)」とは、エデンの園で人がすべての動物に名をつけたように、人が「すべての生き物を支配」(創世記1:28)するという関係が回復されることです。
そして、「雌牛と熊は草をはみ、その子らはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う」(11:7)とあるのも、エデンの園の平和の回復です。かつての園には、すべての栄養を満たした植物が育っていました。しかし、アダムの罪によって地が呪われたものとなり、肉食が生まれたのです。
それに対し、神が遣わしてくださる救い主は、原初の平和(シャローム)を永遠に回復してくださるというのです。
「乳飲み子」や「乳離れした子」が、コブラやまむしのような毒蛇と遊ぶことができるというのは(11:8)、「女の子孫」と「蛇の子孫」との間の敵意(創世記3:15)が取り去られ、「蛇」がサタンの手先になる以前の状態に回復することです。
「わたしの聖なる山」(11:9)とは、エルサレム神殿のあるシオンの山を指しますが、そこが、栄光に満ちた理想の王が全世界を治めることの「平和」(シャローム)の象徴になるというのです。
現在のエルサレムが民族どうしの争いの象徴になったのは、それぞれが異なった神のイメージを作り上げてしまった結果です。しかし、完成の日には、「主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地に満ちる」ので、宗教戦争はなくなります。
預言者エレミヤは、この終わりの日のことを、神がご自身の律法を人々の心の中に書き記し、もはや「主を知れ」と互いに教える必要もなくなると預言しています(エレミヤ31:33、34)。ペンテコステの日に御霊が下って、諸言語の人が一致できたのはこの預言の成就です。
そして、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼の憩う所は栄光に輝く」(11:10)とは、このような神の平和(シャローム)は、イエスが世界中で「全地の王」、「主」としてあがめられることによって実現するという意味です。
私たちは既にその世界に一歩足を踏み入れています。
私たちに対しては今、「約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」(エペソ1:13,14)と語られています。今、何と私たちのうちに、キリストご自身を導いたと同じ聖霊ご自身が住んでおられます。これこそが最大の奇跡です。
それゆえ、キリストが王であられたと同じように、私たち一人ひとりも、小さなキリストとしてこの世に平和を実現するために労することができます。
1963年8月にマルティン・ルーサー・キングは、「I have a dream!」という有名な演説を行いました。そこで彼は、白人と黒人との平和を、「狼は子羊とともに……」のレトリックを用いて、
「私には夢がある。それはいつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルにつくことができることである……
私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い4人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである……
私には夢がある。それは悪意に満ちた民主主義者に牛耳られているアラバマ州で、いつの日か幼い黒人の男の子と女の子が白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである……」と。
そして、その夢がアメリカ人を動かし、その45年後に黒人と白人の間に生まれた人が、米国の大統領に就任したのです。ここに聖書の夢が歴史を動かす現実が見られます。
4.「見よ。わたしは新しい天と新しい地を創造する」
12章は1章以降の結論部分で、礼拝の頌栄の部分に相当します。1-11章には、神がイスラエルに下そうとした恐ろしいさばきと、それを通して実現する神の平和が繰り返し預言されています。
「その日」(1節)とは、11章の神の救いが完成する日です。そして主の救いは、「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から」と表現されます(12:3)。エルサレムは山の上にあり、城壁の中に泉がなかったからです。
たとえば後の時代に、仮庵の祭りの最中、祭司たちは七日間の間、毎日、シロアムの池から水を汲み、約1㎞の道を上り、神殿の祭壇に水を注ぎましたが、その際、このイザヤ書12章が全会衆によって朗誦されました。
マイム・マイムという有名なフォークダンスがありますが、これは3節のヘブル語をそのまま歌ったもので、「ウシャブテム(あなたがたは汲む)マイム(水を)ベッサソン(喜びながら)ミマアーネイ(泉から)ハイェシュア(救い:ヨシュア:イエスの)、マイム マイム マイム マイム(水)、ホマイム(その水)ベッサソン(喜びながら)」と歌われます。
このフォークダンスは、不思議に、日本の戦後の教育に取り入れられました。私たちは、この歌が表す希望を世に証しする責任があります。
5節では、主の救いのみわざを覚え、「歌え!主(ヤハウェ)を。主がなさったすばらしいことが全世界で知られるように」(私訳)と命じられているからです。
そしてイエスは、その仮庵の祭りの最終日になって、神殿の真ん中に立って大声で、「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」(ヨハネ7:37、38)と驚くべきことを言われたのです。
イエスを信じるすべての人の心の奥底には、既にこの「生ける水の川」の「泉」が与えられています。私たちはしばしば、この世的な恐れに囚われ、またこの世的な発想に縛られて、この泉に自分で蓋をして、流れ出ないようにしてはいないでしょうか。
心を開きさえしたら「生ける水の川」が流れ出るのです。
そのような中で主は、イザヤ65章17節以降で、「見よ。わたしは新しい天と新しい地を創造する」と宣言されながら「わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」と言われ、新しい世界のことが「狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ」(65:25)という平和の実現として約束されています。
しかも、そこではそれに先立って、「彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる……彼らは無駄に労することもなく……彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちにわたしは聞く」(65:21-24)と、地上の生活における祝福が約束されています。
私たちはエデンの園のような世界で生ける神との生きた交わりを喜ぶことができるのです。そして、私たちはそのような「新しい天と新しい地」の民に既にされていることの喜びを今から味わいながら、この地に遣わされて行くのです。
預言者イザヤは、アッシリア帝国の最盛期に、エルサレムが存亡の危機に晒されるただ中で、神の救いの御計画が進んでいると語りました。目の前には闇しかありませんが、そこでなお「希望」を抱くことの勧めでした。
同じように私たちの時代に実現したキリスト預言も、目の前の「暗闇」をすぐに無くすことではなく、闇のただ中に神の救いの光を見るという希望にあります。希望の確実さこそ救いの本質です。