聖書にある神のみわざの最も画期的なことは、人が「神のかたち」として、「神の似姿」に創造されたということではないでしょうか (創世記1:26-28)。ところが人は、「自分を神」としてしまい、そこから「力ある者」が弱者を支配するという構造が生まれました。
ときには、弱者を援助するという慈善事業を通してさえ「力ある者」が「神のかたち」に創造された人を支配するという構図が生まれます。それは人を「捕らわれ人」とすることです。
イエスは故郷のナザレの会堂での最初の宣教をイザヤ書61章の朗読から始め、ご自身が主に油注がれた救い主として「捕らわれ人」の解放を告げました (ルカ4:16-20)。それは当時の人々には、ローマ帝国からの政治的な独立運動を起こすかのように響いたことでしょう。
しかし、イエスがもたらしたのは、ローマ帝国による剣の支配を無力化し、彼らが権力者の脅しに屈する必要を無くすことでした。そしてそのことの意味は、若干のことば使いの違いはあってもこの詩篇146篇により明確に記されています。
1.「ほめたたえよ 主 (ヤハ) を……力ある者 (君主) たちを頼りにするな」
この詩篇は150篇まで続くハレルヤ詩篇の最初のものですが、七十人訳では「ハガイとゼカリヤによる」という標題がついています。
時代背景からするとこの詩篇は、バビロン捕囚から解放されたユダヤ人たちが、それを現実的にもたらしてくれたペルシャ帝国の支配者に屈することなく、すべての権力者を立てたり、滅ぼしたりすることができる創造主に信頼するようにと訴える趣旨で記されたとも解釈できましょう。
「ほめたたえよ」はヘブル語の発音ではハルルーで、そこにヤハウェの「ヤハ」をつけると「ハレルヤ」になります。それを敢えて「ほめたたえよ」と訳すと、この動詞が三回続いていることが印象付けられます。
そこでは、「ほめたたえよ 主 (ヤハ) を。ほめたたえよ わがたましいは 主 (ヤハウェ) を。 私は ほめたたえる 主 (ヤハウェ) を 生きている限り。 私の神に賛美を歌おう いのちのある限り」(1,2節) と記されます。
創世記3章には、最初の人間のアダムとエバが蛇の誘惑の声に負けて善悪の知識の木から取って食べたようすが描かれています。そこで女は、蛇が「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」と言ったことばに惑わされ、そこで「女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた」と描かれます (3:5,6)。
蛇の背後にはサタンがいましたが、そのことばは全くの嘘ではありませんでした。神ご自身がその後、「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった」と言われ、「いのちの木への道」を塞がれたからです (22節)。つまり、人は善悪の知識の木の実を取って食べたことで「神のようになった」のです。
ただ、「神のかたち」に創造された者が、神を「ほめたたえる」代わりに自分を神とし、神の命令を軽蔑したとき、そこに「神々の争い」が始まりました。アダムはエバを非難し、その争いから生まれた最初の子のカインは弟のアベルを殺してしまいます。そしてアダムから七代目のレメクは、「カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍」という恐怖政治によって支配権を握ろうとします (4:24)。
つまり、人間の堕落とは、人が何か欠陥を持つ存在になることではなく、自分が全能者になったかのようにふるまうことなのです。
ユヴァル・ノア・ハラリというユダヤ人歴史学者は、人類は20世紀に至るまで「飢餓と疫病と戦争」に繰り返し苦しみ、不条理に愛する人々の命を失ってきた歴史を振り返りながら、21世紀以降の人間は、前例のない水準の「繁栄と健康と平和」を達成したことを誇り、自分をホモ・サピエンスからホモ・デウス (神) にアップグレードすることを目指すだろうと述べます。
そこで人は、不死と幸福と神性を目標にしながら、人工知能 (AI) を活用して課題を処理する能力を尊重し、一握りのエリート層が、自らデウス (神) になったかのように振舞い、無用者階級を支配したり、切り捨てたりして生き残りを図るかもしれないというのです。
しかし、少数の人々が「自分を神」として、大多数の人々を支配するという構図は、すでに創世記3章に記されている罪の基本であり、カインの子孫のレメクが実行したことでもあります。
この詩篇ではそこで、「力ある者(君主)たちを頼みとするな」と警告されています (3節)。ここで「力ある者(君主)」と訳されたヘブル語には、「自分自身の意志で分配できる人」という基本的な意味があります。そこには高貴で寛容な人格者という意味さえあります。民主主義社会の指導者にはそれが期待されますが、どれほど高貴な「力ある者(君主)」であっても、そのような人を「頼みとする」ことは危険だというのです。
それは所詮、彼らも「アダムの子ら」に過ぎず、永続的な意味での「救い」をもたらすことはできないからです。その理由は、「霊が出て行くと アダムは」その源であった「土 (アダマー) に帰る」からです。ヘブル語で「人」を意味する「アダム」は、「土」を意味する「アダマ―」から生まれ、アダマ―に帰ると言われます (創世記2:5,3:19)。
その現実は、どれほど科学技術が発展し、遺伝子操作が進歩しても、変わりはしません。どれほど尊敬されている人格者であっても、人 (アダム) が土 (アダマー) に帰るやいなや、その日のうちに、「彼の計画は滅び失せる」という現実があります。どれほど忠実な後継者がいても、前任者の計画が絶対化される時点で、時代の変化に対応できなくなり、皮肉にもその組織の滅亡が決まってしまうからです。
多くの人には、しばしば、正解を出してくれる人や、問題を解決してくれる「力ある者」に依存したいという思いがあります。それは、自分で悩み、自分で決断し、自分で責任を取ることが恐ろしいからです。国際的な援助活動に関わってきた方が、「キリスト教団体が行ってきた援助は、『人や共同体の回復』という点では、ほとんど失敗だったと思います」とさえ言っています。それは、援助によって不健全な依存関係が生まれ、貧しい国々の自立を妨げてきたという反省です。彼女はブラジルの教育者パウロ・フレイレのことばを「学校に行く機会がないまま大人になった人も、生まれながらの能力や人生で得た経験がたくさんある。答えを示すのではなく、能力や蓄積された経験を統合した答えを見出せるように質問する、彼らを尊重する関わりこそが教育であるはず」と引用し……それを聖書の見方で言えば、「あなたは貴く造られた存在で、あなたが解決を見出せるように神が働かれることを信じます。あなたの回復と成長に伴走します。私も成長できますから」ということではないかと解説しています。それは、純粋な愛の動機から始まる働きも、依存関係を生み出した時点で、失敗に終わるということです。アダムは、本当の意味でアダムを助けられないという自覚が必要です。援助者となったアダムが、無意識のうちに自分を神としてしまうからです。 マザーテレサの「神の愛の宣教者会」では、それを踏まえて、次のような祈りが大切にされています。「イエス様。私たちがどこに行こうとも、あなたの香を広めることができるよう、助けてください……あなたご自身が、私たちを通して輝き、私たちに触れるすべての魂が、私たちの心の中にあなたの存在を感じることができますように。 人々が、私たちではなく、イエス様、あなただけを見ますように! ……私たちの行ないを喜ぶ人々によって励まされた私たちの心が、ただ、あなたのところに導かれますように。」
2.「幸いなことよ ヤコブの神を助けとし 望みをその神 主 (ヤハウェ) に置く人」
5節は「幸いなことよ ヤコブの神を助けとし 望みをその神 主 (ヤハウェ) に置く人」ということばから始まります。「望み」とは「希望」とも訳せますが、私たちの日々の生活の中心にあるべきものです。それは物事が自分の期待通りに進まない中で、その解決をアダムにではなく、主 (ヤハウェ) に期待し、「主を待つ」という生き方です。
自分を神としたアダムの子孫は、人を依存させ、隷属させる傾向がありますが、「ヤコブの神を助け」とする者は、「神のかたち」としての生き方を回復できます。それは、「その方が天と地を造られた 海とその中のすべてのものをも」(6節) とあるように、世界と私たち自身の創造主を「頼み」とするからです。
現代は「待つ」ことが非常に難しい時代です。たとえば、待機児童ゼロとか幼児教育の無償化が政治の大きなテーマになると、驚くべきスピードで現場の保育士たちは対応を迫られ、悲鳴を上げざるを得ません。
この世のシステムでは、一つの問題解決が、必ず、別の新しい問題を生み出します。主 (ヤハウェ) の解決は多くの場合、時間をかけなければ見えてこないことに目を向ける忍耐から生まれると言えましょう。
そして、主 (ヤハウェ) のご性質とみわざが、「その方はとこしえまでも真実を守り 虐げられている者たちのためにさばきを行い 飢えている者にパンを与えられる」(6,7節) と描かれます。「真実」とはアーメンと同じ語源のことばで、主がご自身の約束を守り通してくださることを意味します。
その核心には、アブラハムの信仰に倣う者が世界の「祝福の基となる」(創世記12:2聖書協会共同訳) という約束があります。この世では、自分の主張をはっきりと述べ、場を支配できる人、つまり、自分を神とする弁舌や能力に長けている者が優位に立ち、甥のロトに良い土地を選ばせたアブラハムの子孫のような者が損をすることがあります。
ときには、自分の立場を失い、「虐げられ」「飢える」苦しみを味わうことさえあるかもしれません。しかし、聖書の神は、「虐げられている者たちのためにさばきを行い 飢えている者にパンを与えられる方」です。
先の援助のあり方について述べましたが、自然災害や内乱で、苦しみ、飢えている人に対する緊急援助は絶対に必要なことです。
しかし同時に、長期的には、内乱や飢えの真の原因は、その国の政治的な未熟さにあるということも決して忘れてはなりません。その意味で依存関係を生む支援は危険なのです。
7節の3行目から、5回に渡って「主 (ヤハウェ) は」という書き出しから始まる表現が続きます。その最初の「主 (ヤハウェ) は捕らわれ人を解放される」とは、直接的にはバビロン帝国がペルシャ帝国によって滅ぼされ、捕囚とされていたユダヤ人たちがエルサレムに帰還し、神殿を再建することができたことを指すとも言えましょう。
それは、イザヤ書45章に具体的な名前まで記されているペルシャの王「油注がれた者キュロス」の力によって実現したことですが、その背後には、ヤハウェという御名の語源、「わたしは『わたしはある』という者である」(出3:14) と言われる主のみわざがありました。
イザヤ書では、主 (ヤハウェ) がキュロスの「右の手を握り」、動かしたと記されます (45:1)。つまり、キュロスの働きは、主 (ヤハウェ) のみわざなのです。その意味で、「捕らわれ人を解放」するのは、この世の「力ある者 (君主) たち」ではなく、主ご自身なのです。
そして、「主 (ヤハウェ) は見えない者たちの目を開き」(8節) とは、そのような霊的な事実に目が開かれることを指すとも言えます。
確かにイエスは、「見えない者の目」を何度も実際に開かれました。しかしパリサイ人に向かっては、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたに罪は残ります」と言われました (ヨハネ9:41)。そこで主は、「私たちは見える」と言い張っている彼らこそが、神の前に盲目な者であると言われたのです。
それに続いて、「主 (ヤハウェ) はかがんでいる者を起き上がらせる」と記されますが、「起き上がらせる」とは、「復活」を示唆することばでもあります。それは先にあったように「虐げられている者のためにさばき」が行われた結果でもあります。
イエスの救いのみわざに関して、ヘブル書2章14,15節では、「死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためであった」と記されています。
イエスが私たちと同じ血と肉を持つ身体となって、十字架で殺されたのは、逆に、悪魔の力を無力化するという意味があったと解説されているのです。
イエスの時代の多くのユダヤ人たちは、ローマ帝国に服従して平和を保つか、武力闘争によって独立を勝ち取るかで大きな対立がありました。そのどちらも「アダムの子ら」に過ぎない「力ある者(君主)たちを頼みとする」ということでは同じです。
しかし、イエスが「死の力を持つ者を滅ぼして」くださったことを知って、「死の恐怖」の「奴隷」状態から解放された人々は、屈服することも、反抗することもなく、無抵抗の姿勢で、「剣の脅し」に勝利しました。彼らは既に、永遠のいのちにあずかっていましたから、死ぬことは一時的な痛みに過ぎないこと、その後に、驚くべき祝福の世界があることを見ていたのです。
そして、彼らの殉教の姿を見た者たちは、かえって、そのような心の平安 (シャローム) を与えてくれるイエスに心が惹かれるようになって行きました。まさに、殉教者の血は、福音の種になって行ったのです。そして、最後には、「力ある者」の究極の立場を持つ、ローマ皇帝すら、キリストの前にひざまずかざるを得なくなりました。
3.「主 (ヤハウェ) はとこしえに統べ治めておられる」
「主 (ヤハウェ) は正しい者たちを愛され」(9節)とありますが、詩篇に繰り返される「正しい者」とは、「主にすがり、主に信頼する」人に他なりません。しかも、そのような人々は、しばしば、自分の力に頼ることができない社会的弱者の場合があります。それがここでの「寄留者」や、「みなしご」と「やもめ」です。
そして、「主 (ヤハウェ) は」彼らを「支えられる」とは、「助け起こされる」とも訳される「復活」を示唆することばでもあります。私たちはもちろん、最終的な、死人の中からの「復活」を信じていますが、同時に、今ここで体験できる「心の復活」という「主 (ヤハウェ) のみわざ」を見ることができるのです。それが、目の前が絶望的で、どうしてよいかわからないという気持ちでうずくまっている人が、自分の足で立って、前に進むこととして現わされます。
それとの対比で、「しかし悪しき者の道は、主が曲げられる」と記されます。それは自分の力を誇り、自分を神とする者たちに、自分が「土 (アダマー)」から取られた「人 (アダム)」に過ぎないことを思い知らせるためです。そこには、主が彼らを謙遜にして、ご自分のもとに帰らせようとする「愛」が隠されています。
最後の10節で「主 (ヤハウェ) はとこしえに統べ治めておられる。 シオンよ あなたの神は代々に」と記されます。「統べ治める」と訳されることばの語源は「王」と同じで、「主は王であられる」とも訳すことができます。
つまり、ペルシャの王やギリシャの王、ローマ帝国の皇帝の上に、真の「王」がおられるというのが、聖書のメッセージの核心なのです。ですから、私たちはこの世の王に屈服する必要も、反抗する必要もありません。ただ、王たちの王であられるヤハウェの眼差しを意識して、真の王を恐れて生きるのです。
最後にこの詩の最初のことば「ほめたたえよ 主 (ヤハ) を」が繰り返されます。それをヘブル語で発音すると「ハレルヤ」になります。そして、日々、ハレルヤの意味を味わう者は「神のかたち」に生きる者です。
ルカ24章には、「神のかたち」としての生き方を回復させたイエスのみわざが描かれます。主の弟子たちのうちの二人が、エルサレムを後にして「エマオという村に向かって」いました。彼らはイエスの十字架や女たちから主の復活の知らせを聞いたことを語り合っていました。彼らは「墓が空であった」ことは知りながら、復活を信じられず、暗い顔になっていました。
そこに復活のイエスが近づいてきて、彼らとともに歩き始めます。主はご自分を明かさないまま、彼らの話に耳を傾けます。そしてそれを聞き終わった後で、聖書全体から、「キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから栄光に入るはずだったではありませんか」と解き明かされました (26節)。
彼らはその間、みことばを解き明かす人が、イエスご自身であるということは知りませんでした。ただ、主に自分たちの宿に泊まるようにと強く勧め、主がそれに従って食卓に着き、主がパンを裂いたときになって初めて、「彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」と描かれます (31節)。
ここで不思議なのは、主が最初から二人の弟子たちにご自分のことを明かさず、彼らの絶望的な話をじっくり聞き、その上で、聖書全体から彼らの誤解を正し、彼らがみことばの解釈に納得したのを見て、ご自身を明らかにしたということです。
それは、私たちも自分でみことばを読み、主の復活を信じられるようになるためとも言えましょう。人は、超自然的な神秘を求めがちですが、みことばが主の復活を示します。
それは、私たちが「神のかたち」として創造され、与えられている知恵と理解力を生かすことができるためです。イエスは、ご自分の弟子たちを神秘や奇跡の奴隷とせず、彼ら自身の足で歩けるように「心の復活」を与えてくださいました。まさに、「主 (ヤハウェ) は」、絶望感に打ちひしがれた「捕らわれ人を解放」してくださいました。
また、真理を見られない弟子たちを前に、「主 (ヤハウェ) は見えない者たちの目を開き 主 (ヤハウェ) はかがんでいる者を起き上がらせ」てくださったのです。それは、真理を疑いながらも、それから目を背けようとしなかった者を「正しい者」と見て、彼らを「助け起こされる」という神のみわざとも言えます。
イエスの宣教のみわざは、ナザレの会堂でイザヤ書を開き、「主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目が開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げ知らせるために」と言われたことから始まります (ルカ4:18,19)。新改訳の脚注参照箇所にもあるように、イエスのことばにはイザヤというより、詩篇146篇との親和性が見られます。
イエスのもとに罪深い女が来て、泣きながらイエスの足を涙でぬらし、香油を塗った後に、イエスは彼女に「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言われました (ルカ7:36-50)。
また十二年間の間、長血を患って、イエスの衣の房に触れて、癒された女に向かっても、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言われました (8:43-48)。それはまるで、「救い」の原因がイエスご自身ではなくて、彼女たち自身の内側にあったかのような表現です。
つまり、イエスですら、ご自身を「アダムの子」の立場に置き、彼女たちの目を「ヤコブの神」に向け、「望みを主 (ヤハウェ) に置く」ことができるようにされたのです。
そしてルカの復活の記事でも、イエスは、エマオ途上の弟子たちが自分で聖書を理解できるように助け、彼らが「ただちに立ち上がり、エルサレムに戻った」(33節) という動きを生み出しました。
イエスの癒しのみわざは、多くの場合、彼らを「立ち上がらせ」「生きる勇気を与える」という方向で起こされています。それらはすべて詩篇146篇のテーマであり、そこにはイエスが、打ちひしがれている人の身体と心を復活させるというみわざが見られます。
イエスの十字架は死の力に対する勝利の現れでした。それは私たちを内側から復活させる力として働きます。主の復活は私たちの復活の始まりなのです。
詩篇146篇(交読文) ほめたたえよ、主(ヤハ)を (ハレルヤ) (1) ほめたたえよ わがたましいは 主(ヤハウェ)を 私は ほめたたえる 主(ヤハウェ)を 生きている限り (2) 私の神に賛美を歌おう いのちのある限り 力ある者(君主)たちを頼みとするな (3) 救いをもたらさないアダム(人間)の子らを 霊が出て行くと アダムはその土(アダマー)に帰り (4) その日のうちに 彼の計画は滅び失せる 幸いなことよ ヤコブの神を助けとし (5) 望みをその神 主(ヤハウェ)に置く人 その方が天と地を造られた (6) 海とその中のすべてのものをも その方はとこしえまでも真実を守り 虐げられている者たちのためにさばきを行い (7) 飢えている者にパンを与えられる 主(ヤハウェ)は捕らわれ人を解放される 主(ヤハウェ)は見えない者たちの目を開き (8) 主(ヤハウェ)はかがんでいる者を起き上がらせる 主(ヤハウェ)は正しい者たちを愛され 主(ヤハウェ)は寄留者を守られ (9) みなしごとやもめを支えられる(助け起こされる) しかし悪しき者の道は、主が曲げられる 主(ヤハウェ)はとこしえに統べ治めておられる (10) シオンよ あなたの神は代々に ほめたたえよ 主(ヤハ)を (ハレルヤ)