私たちの信仰はときに、「建前」のようなドグマに支配され、本音を言えなくなってしまうことがないでしょうか。かつての太平洋戦争を導いた東條英機首相は、「戦争が終わるということは……われわれが勝つということだ……天皇陛下は神であって、天皇陛下に帰一していれば、国体の輝くこの国は負けるわけがない。戦っていまだかつて負けたことのない国なのだから」と語っていたとのことです。
同じようにかつてバビロン帝国の攻撃の可能性を見ていたエルサレムの指導者は、主 (ヤハウェ) の宮は創造主の御住いだから決して負けることはないと豪語していました。それに対し預言者エレミヤは、バビロン帝国に早く降参することが神のみこころであると、当時の人々には理解しがたいことを言っていました。そして、私たちに主イエスご自身も、エルサレム神殿は跡形もなく崩されると預言しておられました。
神のみこころは負けを受け入れることだなどとは、信仰の建前に真っ向から反するように思えます。イスカリオテのユダも、イエスを信じられなくなっても、エルサレム神殿には希望を託していたようです。それが彼の悲劇の理由とも言えます。
私たちは、本音で神との対話に生き、預言もそのような視点から解釈する必要があるのではないでしょうか。
1.「私は無実の血 (innocent blood) を売って罪を犯しました」
27章1節では、「さて夜が明けると、すべての祭司長たちと民の長老たちは、イエスに対する協議の時をもった、それは彼を死刑にするためであった」と記されています。「死刑」という結論を目指しての正式な最高法院の会議を開いたという意味です。
26章59–66節では、非公式の深夜の集まりがもたれ、全員一致でイエスを、神を冒涜した者として死刑にするという結論を出していました。しかし、最高法院が夜に開かれて結論を出すということは律法違反と見なされていましたから、彼らは形式を整えるために一休みをして、夜が明けるとともに正式な会議を召集して、イエスを死刑に定めたという意味です。
なお、イエスはそのときご自分こそがダニエル書7章13、14節に預言された「人の子」であり、神の「右の座に着いて」(詩篇110:1)、ご自身に「主権と栄誉と国が与えられ」、「諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな」ご自分に「仕える」ことになると言われたのです。
今、弟子たちに逃げられ、たった一人の無力な姿で最高法院のさばきを受けている者が、全世界の「王」であるというのですから、冒涜罪を宣告されるのも無理がないとも言えます。
しかも、多くのエルサレムの民衆は、つい五日前に、このイエスに向かって「ホサナ、ダビデの子に」と叫んで、自分たちをローマ帝国から解放する指導者として迎えたという事実があります (21:9)。ですから、ローマ帝国の攻撃を危惧する神殿の支配者たちが、イエスを死刑にしたいと考えるのも極めて冷静な政治的な判断と言えましょう。イエスはそのように彼らを動かしたとも言えます。
その後の行動が、「そして彼らはイエスを縛って連れ出した。そして彼を総督ピラトに引き渡した」(27:2) と記されます。このときのローマ帝国では、ユダヤに一定の自治権を与えてはいましたが、人を死刑に定める権威だけは、ローマ総督のもとに置かれていました。
ユダヤの長老たちは、総督ピラトが公式に死刑判決を下すことができるように、ありとあらゆる手段を尽くそうとしていました。彼らはイエスをローマ帝国の権威を否定する反逆者として示そうと必死でしたが、イエスは彼らにその口実を与えるようなことばをダニエル7章から引用して、ご自分こそが神によって立てられた全世界の王であると紹介していました。
そこで不思議な展開が、この福音書の固有の記事として描かれ、「そのとき、イエスを引き渡したユダは、イエスが罪に定められたことを見て、後悔し、銀貨三十枚を祭司著、長老たちに返した」と記されます。
祭司長、長老たちは、イエスが群衆から支持されていることを恐れて、夜陰にまみれてイエスを捕まえることを願っていましたが、その導きをしたのが弟子の集団の会計係としている「イスカリオテのユダ」でした。そのことが26章14、15節では、「十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長のたちのところに行って、こう言った、『何を私に与えたいと願われるか、この私が彼をあなたがたに引き渡します』 すると彼らは銀貨三十枚を彼に支払った」と記されていました。
「銀貨三十枚」とは、奴隷が牛に突かれて死んだ場合の賠償金で (出エジ21:32)、当時の約四か月分の労賃でした(現代の50万円程度?)。
ここで、ユダが「後悔した」と記されたことは、彼はイエスが死刑に定められるなどとは思ってもいなかったことを示唆します。そして彼がお金を返した理由が、「私は無実の血 (innocent blood) を売って罪を犯しました」と描かれます (27:4)。これは、イエスは罪に定められるようなことは何もしていないということを彼が確信していたことを示すものです。
祭司長たちはイエスを、神を冒涜した罪で死刑と宣告しましたが、ユダは、イエスが日々、父なる神を恐れ、神に祈りながら生きていたことを目撃し続けていました。すべての点でイエスには罪がないことを彼は確信していました。
興味深いのは、ユダは、イエスが当時の祭司長たちの偽善を厳しく非難していたことを見ていたにも関わらず、ここでは祭司長たちに自分の罪を告白して、赦しを願っているということです。これはまさに、ユダが神殿を中心とした当時のイスラエルの体制を大切に見ていたことを示すとも言えましょう。
ところが、それに対し、祭司長たちは、「それが私たちにとって何だというのか(われわれの知ったことか)。あなたが自分で見るのだ(自分で始末することだ)」(27:4) とユダの訴えに耳を傾けようともしませんでした。祭司長たちにとってユダは、かけがえのない協力者としての働きをしてくれたはずなのに、彼の罪の告白を聞いて、神に立てられた祭司としての働きをしようともしていません。自分の罪の問題を自分で始末できるなら、どこに神殿と祭司の存在の意味があるのでしょう。
彼らはユダを使い捨てにし、追い出したことによって、神殿の機能を自分で否定してしまったのです。
2.「ユダは……銀貨を神殿に投げ込み……出て行って首をつった」
その後のユダのことが、「そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、出て行って首をつった」(27:5) と描かれます。彼は、祭司長たちから受け取った裏切りの代金を、祭司長たちが支配する神殿に投げ込むとともに、自分で自分を殺すことによって「始末」をつけてしまいました。
この姿を見ると、当時の人々は、ダビデを裏切ったアヒトフェルの最後を思い起こします。彼は「ダビデの助言者」(Ⅱサムエル15:12) として用いられていましたが、ダビデの息子のアブサロムが反乱を起こしたときに、彼の側についてしまいました。それはダビデにとって「私の親友」と呼ぶほどの人の裏切りで、そのときの深い悲しみと死の恐怖が詩篇55篇に描かれていると思われます (12–15節)。
ダビデは、「主 (ヤハウェ) よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(Ⅱサムエル15:31) と真剣に祈り、自分が信頼するアルキ人フシャイをアブサロムのもとに送り込んで、彼の判断力を混乱させ、アヒトフェルの助言が退けられるように仕向けました。
アヒトフェルは「自分の助言が実行されないのを見ると、ろばに鞍を置いて自分の町に帰り、家を整理して首をくくって死んだ」(同17:23) と描かれます。自分の主人に失望して裏切りを決めながら、自分の期待と異なった展開を見たときに「首をくくって死ぬ」という点では、アヒトフェルとユダは全く同じです。
アヒトフェルはダビデが家族の問題を解決できない姿に失望して、ダビデを見限ったのでしょう。またユダはイエスが、ローマ帝国と戦う気がないばかりか、十字架の死に向かうという話を聞いて、その流れをどうにか変えたと思いながら、結局、自分がイエスの十字架の道を開いてしまったことを深く後悔したのかもしれません。
そして、二人とも自分の主人を裏切っても、それが自分の期待と反する方向に自体が展開するのを見て、その悲劇的な結末を見ることを避けるために、首をくくって死んでしまいました。
ダビデはアヒトフェルの裏切りを深く悲しみましたが、「ダビデの子」のイエスもユダの裏切りを深く悲しまれました。ダビデに起きたことが、「ダビデの子」にも同じように起きたという意味で、これを預言の成就と見ることができましょう。
ユダの最後については、使徒の働き1章15–20節にも描かれます。そこではユダに代わる使徒を立てる必要があるという話し合いでしたが、そこでペテロは、「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした」(16節) とまず述べました。
それは神が、ユダをご自身の計画を成就させるための将棋の駒のように用いたという意味ではなく、ダビデを深く悲しませたことが、「ダビデの子」のイエスにも起きるという意味であると同時に、そのような悲劇を通して、ダビデ王家が確立されたと同じように、イエスの王としての支配が十字架と復活にとって、確立するという不思議を語っているものです。
アヒトフェルもユダも、人間的な知恵が先走りすぎて、神の不思議なご計画を理解することができず、主人を裏切ってまで、自分の計画を進めようとして、挫折して、首をつって死ぬしかなくなりました。そこに自己完結型の知恵者の悲劇があります。
一方、ダビデもまたダビデの子のイエスも神との対話の中に生きていました。ヨハネの福音書19章28節によると、イエスは十字架で「聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた」と記されますが、その聖書の箇所とは詩篇69篇21節でのダビデの告白、「彼らは私の食べ物の代わりに、毒を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました」という記述を指すと思われます。
イエスはそのとき、ダビデと同じように、「嘲りが私の心を打ち砕き 私はひどく病んでいます。私が同情者を求めてもそれはなく 慰める者を慰める者たちを求めても 見つけられません」(同20節) という深い孤独感を味わっておられました。その中で、イエスは喉が渇くとともに「愛に渇いて」おられたと言えましょう。
そして、そのような苦しみを与えた者に対するさばきが、「彼らの宿営が荒れ果て、その天幕から住む者が絶えますように」(詩篇69:25) と記されます。
不思議なのは先の使徒の働きでのペテロのことばによると、ユダの最後はその詩篇のことばを成就するものであったと描かれていることです。これも別にユダが預言を成就する駒として用いられたというのではなく、神に立てられた王を裏切る者に神の公平なさばきが下されるという神のご支配の現実を示しているにすぎません。
ユダは、イスラエルの神のご計画に逆らった結果として、自分で自分のいのちを処理せざるを得なくなるような状況に落ちていったのです。
なお、引用された詩篇69篇はその後、「私は、卑しめられ、傷んでいます。神よ、御救いが私を高く上げてくださいますように」(29節) と祈られた後、「神の御名を 歌をもって私はたたえ 感謝をもってあがめます」(30節) という賛美に至り、最後は、「主のしもべの子孫はその地を受け継ぎ 御名を愛する人々はそこに住み着こう」(36節) という信仰告白で終わります。
この最後のことばは、ユダに対するさばきのことばと正反対です。ユダやアヒトフェルの話を同情的に見る視点は大切ですが、ダビデがアヒトフェルの裏切りに深く傷つき、神のさばきを求めて祈ったのと同じように、自分自身がユダのような人に裏切られた場合を想定してみてはいかがでしょう。
私たちがそのような裏切り者に復讐をしなくても、神ご自身がそのような人を自業自得の滅亡へと追いやります。私たちに求められるのは、ただ、主のあわれみにすがることだけです。
ダビデがアヒトフェルに裏切られ、イエスがユダに裏切られ、あなたも誰か身近な人に裏切られるかもしれません。しかし、それも神のご計画が進んで行く一つの過程に過ぎないのです。
3.「預言者エレミヤを通して語られたことが成就した」
さらにその後のことが、「祭司長たちは銀貨を取って、言った」「これは神殿の金庫に入れるのは許されない、血の代価であるから」(27:6) と描かれ、さらに「そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人の墓地とした。このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている」(27:7、8) と記されます。
使徒の働きでは、ユダ自身が地所を買ったかのように記されますが、それはユダのお金で祭司長たちがこの畑を買ったというプロセスを省いてのことで、ユダのお金で買われた土地が「血の地所」となったという結論は同じです。
不思議なのはこの畑が買われたことに関して、「そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。『彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った』」(27:9、10) と記されていることです。
このことばは、厳密にはゼカリヤ11章12、13節に記されていることばの引用です。そこで預言者ゼカリヤは、主から「屠られる羊の群れを飼え」との命令を受けて羊の世話をしますが、他の牧者の自己中心な態度に我慢ができなくなり、働きを辞します。
そしてその際に支払われた賃金が銀三十シェケルで、ゼカリヤは主の命令によってそのお金を「主 (ヤハウェ) の宮の陶器師に投げ与え」ます。それはゼカリヤが今後のイスラエルの民を導く責任から手を引いて、彼らが滅びに向かうままに放置するという意味でした。
それは、イエスが今このとき、イスラエルの民の牧者としての立場から身を引き、彼らが滅びに向かうままに任せることにするという転換点で、それまでの主の働きがたった銀貨三十枚に値積もりされたという意味です。
しかも、このことばが「預言者エレミヤを通して語られたことの成就」と言われるのは、その背後にエレミヤ19章があったからです。その4節での「咎なき者の血」ということばは、マタイでの記述でのユダのことばと同じで「無実の血 (innocent blood)」と訳すことができます。
エレミヤはエルサレムの「ベン・ヒノムの谷」が「無実の血」で満たされていることに対して神のさばきが下るとことを語り、そのさばきは「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない」のと同じようにエルサレムとその民を「砕く」という厳しいものであると言われます (11節)。
そのように、エルサレムの滅亡は神の前に避けがたいことを宣告するのが、エレミヤとゼカリヤの預言の中心にあります。そして今、イエスを十字架にかけるエルサレムも同じような破滅に向かっていることを、「無実の血」とか「陶器師の器」ということばで描かれていると言えましょう。
ユダがイエスを売った代金で、彼らは「陶器師の畑を買い取った」ということが「預言者エレミヤを通して語られたことが成就した」という大枠のストーリーとしてここで語られていること自体に意味があります。ユダが銀貨三十枚の意味を預言書全体から理解できていたとしたら、神に立ち返ることができたことでしょう。
引用されたゼカリヤ書は、バビロン捕囚からの帰還後の、神殿再建の希望に満ちた時代の記事ですが、それがエレミヤによるエルサレムの滅亡の預言の文脈の中で見られていること自体に大きな意味があります。このときユダヤの指導者たちは、自分たちがエルサレムと神殿を滅亡に追いやっていることを理解していませんでしたが、イエスは間もなく神殿は跡形もなく崩れ去るということを明確に預言しておられ (24:1、2)、それが40年後に成就します。
なお「主の宮の陶器師」とは神殿で用いる礼拝の器具を製作する大切な働きです。その人が所有される畑が安値で簡単に売られ、しかもそれが「異国人の墓地」とされるということ自体、神殿制度が滅びに向かっているしるしです。なぜなら、エルサレムと神殿が真に神の所有として認められ、そこに希望があるなら、「陶器師の畑」が安値で取引されることなどあり得なからです。
4.「イエスはどのような訴えに対しても、一言もお答えにならなかった」
その後のことが、「イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。『あなたはユダヤ人の王なのか』 イエスは言われた。『あなたがそう言っています』」と描かれます。イエスの答えは、26章64節と同じように、「あなたが言ったとおりです」と訳される場合もあります(原文の基本的は同じ)。
とにかくイエスは、その答えをピラトの判断に任せるかのように、謎めいた答え方をしています。先の非公式の最高法院では、その返事に続き、彼らの誤解がないようにご自身はダニエル7章が預言する「人の子」としての「王」であると宣言しまししたが、ピラトにはそのような聖書のことばは理解できませんから、敢えてこのような答え方をしたとも言えましょう。とにかく、イエスはピラトのことばを否定はしなかったということは確かなのです。
同時にここでは、「しかし、祭司長や長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった」(27:12) と描かれます。ここで祭司長たちは、イエスがユダヤ人の王と自称して、ローマ帝国からの独立運動を首謀していると訴えていたことでしょう。もしそれが事実なら、ピラトは迷うことなくイエスを十字架刑に定めることができます。
ただ、先に最高法院が死刑を宣告した根拠は神への冒涜罪で、それはローマ法では死刑の理由になりませんから、その矛盾を超える理由を祭司長たちは必死に訴えたことでしょう。
ピラトは、イエスがご自身を預言された救い主であると主張しているという宗教的な意味において、彼に死刑を宣告することはできませんから、イエスの弁明を聞きたいと思い、「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか」(27:13) と言いました。
それに対し「それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた」(27:14) と描かれます。ここでのイエスの沈黙には、預言の成就という意味もあります。イザヤ53章7節は、「痛めつけられても、彼はへりくだり、口を開かない、ほふり場に引かれる羊のように。毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」と訳すことができます。
その箇所では「口を開かない」ということばが繰り返されますが、前半は「神の子羊」として全焼のささげ物にされることを受け止めているという謙遜を、後半は「毛を刈る者」に対する信頼の証しとしての沈黙を意味します。謙遜と信頼こそが「口を開かない」理由なのです。
イエスはご自身の十字架が「世界を新しくする」ための神のみこころであることを受け止めていました。そのことがイザヤ書では続けて、「彼を砕き、病とすることは、主 (ヤハウェ) のみこころであった。もし、彼がそのいのちを罪過のためのいけにえとするなら、末長く、子孫を見ることになる。主 (ヤハウェ) のみこころは彼によって成し遂げられる」(同53:10) と記されます。
イエスの受肉、十字架、復活によって、私たちを死の恐怖で奴隷化するサタンの力が無力化されました (ヘブル2:14、15参照)。私たちは既に「永遠のいのち」の中に生かされています。イエスはここで敢えて沈黙することによって、この世界を罪の支配から贖う計画を進めておられたのです。
イエスが沈黙しておられたように、私たちも自己弁護から自由になる「沈黙」によって世界を動かすことができます。私たちが自分の正当性を弁護することに駆り立てられるのは、自分が本当の意味で、神によって愛されている「神の子」であるとの健全な意識がないからかもしれません。神はあなたの誠実さを見ていてくださるのですから、自分の誠実さや正しさを必死に弁護する必要はありません。
イスカリオテのユダの「後悔」のことばを見ると、彼も自分なりの「正義感」に駆り立てられてイエスを裏切ったのではないかと思わされます。イエスは当時のエルサレム神殿の支配構造を断罪してきましたが、ユダは最後にそこにすがりながら、追い出され、自分で自分の人生を始末せざるを得なくなりました。
それは建前に生きる自己完結型の人間の悲劇です。一方、イエスは神の御子でありながら、葛藤を詩篇のことばで表現し、同時に神のさばきに委ねていました。イエスがピラトの前で沈黙しているとき、実は、ご自身は天の父なる神との対話の中に生きておられたと言えましょう。
イエスの沈黙は、神との対話の中に生きている「人の子」としての信頼の証しでした。信仰とは偏狭さではなく、しなやかな、創造主との対話に生きる、信頼の生き方に他なりません。建前的な信仰から、本音の対話に生きる信頼に向かいましょう。