本日は私たちの主イエスの復活を祝う日、死の力を砕かれた新しい世界の誕生の日です。ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」は、聖書のみことばだけを何の解説もなしに歌いながら「救い主」の意味を伝えています。
その第一部では「救い主」の待望と誕生が描かれ、その最初にイザヤ書40章1–3節から「慰めよ、慰めよ、わたしの民を: Comfort Ye、 comfort ye、 my people」とテナーで歌われます。
第二部は十字架が悪の力への勝利として描かれてハレルヤ・コーラスで終わり、第三部はイエスの復活を私たちの復活に結びつけるテーマが歌われます。
そこには世界を再創造する「救い主」の姿が描かれています。
1.「そのすべての罪に代えて、二倍のものを主 (ヤハウェ) の手から受けている」
39章はバビロン捕囚の預言で終わり、それを前提として40章最初は、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と、「あなたがたの神が仰せられる」と記されます。
ここで自業自得の「罪」で神のさばきを受けている人々を、神は「わたしの民」と呼ばれ、またご自身のことが「あなたがたの神」と紹介され、「慰めよ。慰めよ」というメッセージが告げられます。これこそイザヤ40章以降の中心テーマです。
「慰める」には本来、「深く呼吸する」という意味があり、それは「哀しみ」「あわれみ」とも訳され、「同情」というより「励まし」の意味が込められています。まさに、神の「深い息」から生まれる「慰め」には、人の呼吸を助け、新たな活力を生み出す力が込められているのです。
しかも、続けて「エルサレムに優しく(の心に)語りかけよ。彼女(これ)に呼びかけよ」(2節) という不思議な表現があります。それは打ちひしがれた心の奥底に届きます。
「その苦役は終わり」とは、戦争捕虜としての「苦役」の期間が満了したという意味で、そのことが「咎は償われている」とも言い換えられます。バビロン捕囚は、申命記28章などで、主ご自身が警告しておられた「のろい」の成就で、その「咎が償われて」初めて、神の「慰め」の計画がスタートされるからです。
そして、「そのすべての罪に代えて、二倍のものを主 (ヤハウェ) の手から受けている」(2節) とは、借金証書が返済完了の印に二つ折りに壁に鋲で留められると同時に、借金と同額が贈り物として与えられるという奇想天外な恵みを指します。
私たちにも、はるか前の祖先の世代から受け継がれた「のろい」の連鎖のようなものがあります。たとえば、虐待されて育った子供は、その辛さを分かっていながらも、親になると子供を虐待します。様々な依存症の問題も、形を変えながら親から子へと受け継がれます。残念ながら、頭でどれだけ知識を得ても、何千年前からも受け継がれている罪の性質が私たちの身体に深く染み込んでおり、すべての人はその意味でバビロン捕囚の「苦役」の中に未だなお置かれていると言えましょう。
しかし、私たちキリストにつながる者は、この「のろい」の連鎖から救い出されました。それは、「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれたものとなることで、私たちを律法ののろいから贖いだしてくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13) と記されているとおりです。
長い間、借金の返済に追い立てられていた方が、ゼロになるということがどれだけ希望に満ちているかということを語っておられました。しかし、現実には自分が先祖の世代から受け継いできた悪い習慣は、信じてすぐに断ち切られるものではありません。それは信仰が何代も続く中で初めて「きよめられてゆく」ものかもしれません。
しかし決定的なのは「歩む方向」の問題です。キリストから離れている者は、知らないうちに『やみ』に向かって歩んでいる一方、キリストにある者は『光』に向かって歩んでいます。私たち自身が罪の性質から完全に解放されるのは、「新しいエルサレム」に入れられるときです。
2.三重の福音 ——「叫ぶ者の声」、「『叫べ』と言う者の声」、「シオンに良い知らせを伝える者」
それで「二倍のものを主 (ヤハウェ) から受けている」という既に現された「慰め」が、「叫ぶ者の声」(3節)、「『叫べ』と言う者の声」(6節)、「シオンに良い知らせを伝える者」(9節) との三重の福音として語られます。
第一の「叫ぶ者の声」は、「荒野に主 (ヤハウェ) の道を整えよ。荒地で私たちの神のために大路を平らにせよ……」(3節) と語りかけます。これは本来、長く不在だった王の帰還に先立ち、馬車が通る道路を整備することです。
そのことが具体的に、「すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる」(4節) と描かれます。
そして、新約ではバプテスマのヨハネが、「荒野で叫ぶ者の声」(マタイ3:3) としてその預言を成就しました。なお、イザヤでは、整えられるべき道の状態が、「荒野……荒地」と強調されていますが、ヨハネの働きは、敢えて自分の身を荒野の生活の中に置くことによって人々に反省を促し、王であるキリストを迎える心の道を開かせることにありました。
私たちの心も「荒野」の状態で、主が入ってこられるのを妨げる様々な障害があります。あなたの心には、主をお迎えする道が備えられているでしょうか?
自己満足にひたり、心の渇きの声に耳を塞いでいるなら、福音が分かりやすく語られても理解はできません。バプテスマのヨハネは私たちの高慢や自己義認を指摘する者として遣わされました (ルカ3:4–8)。私たちの周りにもいつも「心の貧しさ」を思い知らせてくれる預言者のような人々がいます。それは身近な家族であったり、職場の同僚であったり仕事仲間であったりするかもしれません。
しかし、その貧しさの自覚から、そこに主を迎える「大路」が開かれて行くのです。
さらに、「このようにして主 (ヤハウェ) の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る」(5節) と言われますが、イエス・キリストこそ約束された「主 (ヤハウェ) の栄光」の現れでした。
そしてイエスは、まず誰よりも、社会の最下層にいる「心の貧しい者」「悲しむ者」に、ご自身による「主 (ヤハウェ) の栄光」を「現して」くださいました。そして、イエスの「現れ」こそ「まことに主 (ヤハウェ) の御口が語られる」ことの成就でした。
第二の「『叫べ』と言う者の声」(6節) に対し、「何と叫びましょうか」という応答は「私」つまり、イザヤ自身か、あるいは「彼」というどこかの「人」であるか、両方の可能性があります。
そこではまず、「すべての肉なる者は草、その誠実(ヘセド)は、みな野の花のようだ」(6節) と語られます。「その栄え」と新改訳で訳されていることばの原文は「ヘセド」で、以前の脚注にあった「誠実」の方がふさわしいとも思われます。
私たちは様々な場面で人の「不誠実」に怒りを覚えますが、私たち自身の内側にも同じような醜い心が巣食っています。心に余裕があるとき「私は結構、誠実な人間だ」と思っていても、それらは「野の花」のようにはかないものです。
そのことが、「草はしおれ、花は散る。主 (ヤハウェ) の息吹がその上に吹くから」(7節) と記されます。主はご自身の息吹「霊」によって愚かな誇りを砕かれ、私たちがちりにすぎないことを悟らせてくださいます。
それは非常に辛い現実ですが、その後すぐに、「まことに、民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」(8節) と記されます。
明日何が起こるかを予想することは、株価予想のように当てになりませんが、この世界が「神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3:13) に向かっていることを確信できるなら、労苦が無に帰するように見える中でも、堅く立ち続けることができます。
今は、つぶやかざるを得ないことがあったとしても、新しい世界においては、私たちの愛の交わりが完成します。そのときには、すべての誤解が解け、互いを心から喜ぶことができるようになります。
第三に、「良い知らせ」の声は、「高い山に登れ。シオンに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ」(9節) と繰り返され、その上で、「声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え」と言われながら、「見よ」ということばが三回繰り返されます。
その第一は。「見よ。あなたがたの神を」という呼びかけです。私たちはイエスを心の目で見るときに、神を見ています (ヨハネ14:8、9)。
そしてイザヤはここで引き続き、「見よ。主 (アドナイ)、ヤハウェは力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は御前にある」(10節) と告げられます。
「のろい」の世界では、労苦が実を結びませんでしたが、キリストを信じる私たちはすでに「祝福」の時代に入れられています。
そのことを使徒パウロは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58) と記しています。
その上で、「主は羊飼いのように、その群れを飼い」と、力強さが宣言され、同時にその優しさが「御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(11節) と描かれます。
「メサイア」の第一部の終わりでは、ここが弦楽合奏と女性独唱で「He shall feed His flock like a shepherd」と歌われます。当教会でも何度か演奏されていますが、それこそが新約で強調される「主 (ヤハウェ) の栄光」で、罪人、取税人、遊女の仲間と呼ばれたイエスの姿に現されています。
なお、旧約の民は、外国の軍隊を打ち破ることができるような力に満ちた「御腕」を求めていましたが、現された主の「御腕」とは、主の御前に立つことがとうていできないような者をも招き、内側から作り変えてくださるという「あわれみ(慰め)」でした。
私たちは既に祝福の時代に移されています。もう目の前の問題を恐れる必要はありません。すべての問題は、時が来たらキリストにあって解決するからです。その希望に満たされるなら、どんな中でも「勇気」が生まれます。
3.「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」
12節からは「だれ……」という問いが繰り返されますが (12、13、14、18、25、26節)、ここでは、「水」と「天」、「地のちり」と「山」という対比に目を向けさせながら、「だれが手のひらで水を量り、手の幅で天を測り、地のちりを升に盛り、山々を天秤(てんびん)で量ったのか」と、量り得ないものが精巧に設計され創造されている様子が描かれます。
そして13、14節では、「だれが主 (ヤハウェ) の霊を推し量り……主はだれと相談し……だれが公正(さばき)の道筋を主に教え……たのか」と問われますが、主は、だれからも教えられる必要はなく、人間の知恵を超越しておられます。
たとえば、「神が愛なら、なぜこのような悲惨が起こっているのか?」という問いがしばしばあります。しかし、そのように問うとき、人は、自分が思い描く「愛」の基準で神を査定しているのです。しかし、愛への渇きを起こしているのは主ご自身であられることを忘れています。
また、たとえば、「こんな神など、信じるに値しない」というとき、人は自分の理性の枠組みで神を査定してはいないでしょうか。しかし、その理性は誰によって与えられたものでしょう。
人は無意識のうちに、神よりも自分の理想を絶対化して、その枠で神を計ってしまいますが、それも誰かに教えられた知恵に過ぎません。
15節では「見よ」が繰り返され、主の目には、「国々」も「島々」もちっぽけなものでしかないことが、「国々は、手桶(おけ)の一しずく、秤(はかり)の上のごみのように見なされる。見よ。主は島々をちりのように取り上げる」と描かれます。
さらに16節では、豊富なレバノンの木のことを「レバノンも、薪(たきぎ)にするには足りない」、また、その地に生きる数多くの獣も、「全焼のささげ物にするには足りない」と描かれます。私たちは主のお役に立ちたいと願いますが、主の必要を満たすことは誰にもできません。
自分が主のあわれみによって生かされているという自覚を欠いたすべての「良い行い」はむなしいものです。
17節では、どんなに強い国々も「主の前では無いに等しく、主には、空しく茫漠(なにもないもの)と見なされる」と描かれます。
当時のユダ王国はアッシリアとエジプトの両大国の狭間でかろうじて生き残っていましたが、「主の前では」巨大な帝国も「無いに等しく……むなしく茫漠」に見えるというのです。これは、現代の米軍の大軍事力を南太平洋の小島を所有する王国の王宮警備隊にたとえるようなものです。
18–20節では、偶像礼拝のむなしさが描かれます。まず「あなたがたは神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか」と記されますが、人は、神に「なぞらえ(似せて)」(18節)、「神のかたち」として、「高価で尊い」者として創造されました。
しかし人は、傲慢にも、自分の創造主を「人や獣のかたち」に貶(おとし)めてしまったのです。その上で「偶像」が作られる様子が、「鋳物師は鋳像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ……貧しい者は……朽ちない木を選び……動かない鋳造を据える」と描かれます。
どんなに美しい仏像も、人の作品であることは誰の目にも明らかです。それは人の心の中から生まれた理想を表してはいますが、宇宙の創造主は、人の知性では決して推し量ることのできない方です。
「あなたがたは知らないのか。聞いていないのか。初めから、告げられていなかったのか。悟っていなかったのか。地の基(もとい:the foundations of the earth)のことを」(21節) とは、人間的な知恵を横に置き、「創世記」の原点に立ち返る勧めです。
多くの人々は、この世界は永遠に存在するかのような誤解をしていますが、「地」には「始まり」があるということは明らかです。それは自然に始まったのでしょうか?たとえば、人々は、「宇宙のはじまり」に思いを向けますが、いかなる科学も、それに関して仮説は立てられても、実証することは不可能です。
しばしば、人がアミーバーからの自然淘汰による進化の歴史の頂点に立つという大胆な仮説が、科学的事実であるかのように教えられますが、それが事実なら、優秀な遺伝子を持つ者が支配権を握ってより多くの子孫を残す社会システムが正当化されはしないでしょうか。
しかし「主は、地をおおう天蓋の上に住む方」(22節) と、神は全宇宙を超越しておられること、その対比で「地の住民はバッタ(いなご)のようだ」と、その小ささが描かれます。
そして、「主は、天を薄絹のように延べ広げ、これを天幕のように張って住まわれる。君主たちを無に帰し、地をさばく者たちを茫漠(空しいもの)とされる」(22、23節) と言われます。
17、23節で繰り返される「茫漠」とは、神が光を創造し、動植物を生まれさせる前の原初のこの地の状態を指す表現です。一言で世界を創造された方は、国々の栄華やこの世の権力者を一瞬のうちに消し去ることができるので、それは主の前に「茫漠」と見られているのです。
今ここで、主イエスが、「王たちの王。主たちの主」(黙示17:14) として全地を支配しておられます。しかもその方はご自身を無力さの象徴の「小羊」として紹介しながら、人が自分の力を誇る姿を笑っておられます。
そして神の前における人の力の頼りなさが、「彼らが植えられ、蒔かれ、いよいよ地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを藁(わら)のように散らす」(24節) と描かれます。
主の「あわれみ」がなければ、私たちの労苦の果実は一瞬のうちに消え去ってしまいます。
また25節で、主は「だれにわたしをなぞらえ、比べようとするのか」と問われ、その方が「聖なる方」と紹介されますが、それは神の超越性を表すことばです。私たちの信仰は、その方がご自身を啓示してくださらない限り生まれ得ないものでした。
それを前提に、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(26節) と呼びかけられます。これは大宇宙に目を向けることの勧めで、「この方はその万象を数えて呼び出し、一つ一つその名をもって呼ばれる」と描かれます。だれも天に輝く星を数え尽くすことはできませんが、神はそのすべてを数え、一つ一つを区別し、名をつけておられます。
それと同時に、「この方は精力に満ち、その力は強い。一つも漏れるものはない」と描かれますが、これは、神がバッタに等しい私たち一人一人をも「その名をもって、呼ばれる方」であられることを示しています。
私は何をしても良い結果が出ないと落ち込んでいたとき、このみことばを友人から贈られて深い感動を覚えたことがあります。
4.「鷲のように、翼を広げて舞い上がる」
27節で、「なぜ言うのか、ヤコブよ。言い張るのか、イスラエルよ」と問われるのは、「神の民」がこの地であまりにも惨めで、「私の道は主 (ヤハウェ) に隠れ、私の訴え(さばき)は私の神に見過ごしにされている」と嘆かざるを得ない現実が目の前にあるからです。
敬虔な信仰者も、肝心のときに神を遠く感じて、心が萎え気力を失うことがあります。しかし、私たちの主イエスもそのような神の不在を体験されました。しかし、その主の御苦しみによって全世界の罪が贖われました。
その不思議に思いをめぐらすことの大切さが、私たちへの問いかけとして、「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主 (ヤハウェ) は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない」(28節) と描かれています。
ここでイザヤは、人の目を創造の原点に導き戻しますが、新約の時代に生きる私たちは、神を遠く感じるたびに、神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったという復活の力の原点に立ち帰ることができます。
なお、「主は……疲れることなく、弱ることなく」という表現は、「若者も疲れ、弱り(力尽き)」(30節) と対比されるとともに、主を待ち望む者は「走っても弱らず(力衰えず)、歩いても疲れない」(31節) というクライマックスに結びつきます。
「弱る(力尽き、力衰え)」とは、気力が湧かなくなる状態です。それは肉体の自然な反応ですが、主は「疲れた者には力を与える」と同時に、心が弱った「精力のない者には勢いを与える(協会共同訳「勢いのない者に強さを加えられる」)ことのできる方です。
そこで求められている生き方は、自分を叱咤激励し、外からの刺激に反応しながら時間を惜しむように動き回ることではありません。
それに対し、「主 (ヤハウェ) を待ち望む者は新しく力を得る」とは、すべての働きを、主のみ前で静まるということから始め、まず何よりも、主からの力を受け、その上で動き出すということです。
それは、食べて寝て元気を回復するという生物学的な力ではなく、鷲の翼が生え変わってより高く舞い上がるような、内側からの変化です。これは英語で、Change ではなく、Transformation として表現される「新しさ」です。
それが肉体の現実を超えた変化だからこそ、「鷲のように、翼を広げて上って行く(協会共同訳「舞い上がる」)」(31節) と表現されます。
原文では「できる」ということばは入っていません。それは、主を待ち望む者に起こる必然的な変化だからです。私たちは常に、何かをできている自分の方に目が向かいますが、「待ち望む」ことの中心は、「できる」とか「できない」とかの人間的な枠を超えて、神のみわざに期待することです。
それは一瞬一瞬問われている心の状態です。私たちはいつでもどこでも「疲れて、弱り」ます。しかし、そこで主を待ち望むやいなや、主の御霊の働きが私たちのうちに始まり、「走っても弱らず(力衰えず)、歩いても疲れない」という超自然的な変化が生まれるのです。そこに主 (ヤハウェ) の約束があります。
私たちがこの主のみわざを体験できないのは、自分が強すぎるからかもしれません。今、「主を待ち望む者」の心のうちに「主 (ヤハウェ) 」ご自身が入って来られます。
私たちのうちにはすでに、死に打ち勝った「キリストの力」が「力強く働いて」います (コロサイ1:29)。人は自分をあまりにも無力で小さいものと感じることがありますが、主イエスご自身が「地をおおう天蓋の上に住む方」である同時に私たちの内に住んでおられます。
私たちは今、疲れることも、弱ることもない栄光の主の姿に似せられてゆく途上にあります。
私たちは自分の弱さに直面させられる中で初めて、主が私に目を留めてくださったことの恵みが分かります。それは「目を高くあげて、だれがこれらを創造したかを見よ」という呼びかけに応答することから始まるのではないでしょうか。
私たちは知らないうちに、人間的な常識の枠の中に神のみわざを閉じ込めてはいないでしょうか。しかし、真の意味で「主 (ヤハウェ) を待ち望む者」はすべて、「新しく力を得、鷲のように翼を広げて舞い上がる」のです。
そのように私たちが自分の弱さと同時に、主にある強さを体験できるとき、傲慢になることも自分を卑下することもなく、主から与えられた使命のために生きることができます。