イエスは世の終わりについての預言を語りますが、それは当時の政治状況を背景にしています。たとえば紀元37年にローマ帝国第三代皇帝としてガイオス・カリグラが即位しますが、彼は自分が神として称えられることを望み、ついにはエルサレム神殿の中に自分の像を建てさせようと、ペテローニオスを将軍とする軍隊を派遣します。
そのときユダヤ人たちは妻子を伴ってガリラヤ地方の海岸都市プトレマイスに集まり、将軍に必死の嘆願をします。それは神殿に皇帝の像を置くなら、ユダヤ人たちは最後の一人になるまで戦い続けるというものでした。
それを聞いた将軍は皇帝ガイオスに命令を取り消すように嘆願します。それに対し、皇帝はペテローニオスを死刑にするという命令文書を書きますが、それを届ける使者は嵐に出会い、三か月が経過します。一方、その間にローマで紀元41年に皇帝ガイオスが暗殺されたという知らせが届き、ペトロ―ニオスはユダヤ人との全面戦争を避けることができました。
またさらに、その後、ローマ帝国ではクラウディオスが皇帝として即位しますが、それからまもなくローマ市内にクリスチャンが増えて来る中でユダヤ人との争いが生まれ、皇帝はユダヤ人をローマ市から追放することになります。それが紀元49年で皇帝の死の年の54年まで続きます。
そのような中で、ローマに再びユダヤ人が戻り、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に不和が生じ、パウロが紀元57年にギリシャの貿易都市コリントから、ローマにいるクリスチャンに手紙を書くということになります。
つまり、ユダヤ人のローマ帝国に対する敵対心、ユダヤ人のクリスチャンに対する憎しみという文脈の中で。紀元70年のエルサレム神殿の崩壊というクライマックスに向かって行くのです。
1.「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます」
24章2節でイエスはエルサレム神殿の崩壊を告げました。それに至るプロセスの中で、「私こそキリストだ」と言って人々を惑わす偽預言者が現れるということ、また「戦争や戦争のうわさを聞くことになります」という預言が語られます (24:5、6)。そればかりか「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。
しかし、これはすべて産みの苦しみの始まりなのです」と言われます (24:7、8)。ここでは民族間や国家間の戦争が起こるばかりか、「飢饉」や「地震」までが起って、人々がパニックに陥るような状況になっても、それでもそれは「産みの苦しみの始まり」に過ぎないと言われています。
それは、これからさらに激しい苦しみがやってくるという恐怖への覚悟を求めることばとも言えます。
「そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます」(9節) と記されます。これに関連してヘブル人への手紙10章32–34節に、ユダヤ人クリスチャンが受けた苦しみが以下のように描かれていました。
「思い起こしなさい、初めの日々を、あなたがたが光に照らされた後で苦難との厳しい戦いに耐えた頃のことを。嘲られ、苦しめられる見せ物とされたこともあれば、このようなめにあった人々の仲間とされたこともありました。あなたがたは捕らえられている人々と苦しみをともにし、自分の財産が奪われることさえ喜んで受け入れました。それは、自分たちがもっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたからです」
当時は、ローマ軍を力で打ち滅ぼして「神の国」を実現しようという運動が盛んで、このヘブル人への手紙が記された頃には、ユダヤ人の過激派の武力闘争が最盛期を迎え、その攻撃の矛先がクリスチャンにも向けられていたのだと思われます。
それはイエスの弟子たちが、異邦人たちに律法の訓練も与えないままで、彼らを「神の民」として受け入れていたからです。それは当時のユダヤ人にとっては、モーセの律法の基本を捻じ曲げる異端の教えに聞こえました。それで弟子たちを激しく迫害しました。
一方、他のローマ帝国内の伝統的な宗教者の目には、ついこの前まで自分たちと同じ神々を礼拝してきた人々が、急にユダヤ人の真似をしているように見えたばかりか、彼らがユダヤ人からも疎まれているのを知って、破壊的な熱狂者に変ったと見えたことでしょう。
なお、当時、ユダヤ人(ユダヤ教徒)はローマ帝国の中でも、自分たちの信仰を守る権利が特別に与えられ、ローマの神々を礼拝することを強要されることがありませんでした。しかし、キリスト信者の群れは、ユダヤ人からもローマ人からの異端視され、迫害されることになります。そして激しい迫害に耐えられなくなる脱落者が生まれつつありました。
現実的には、そのような背教への道を歩む者は、キリスト者の交わりから距離を置くことで、いのちの危険を避けることができました。
それを背景にヘブル10章25節では、「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりを捨てることなどなく、むしろ励まし合いましょう、その日が近づいているのをあなたがたが見ているのですから、ますますそうしましょう」と記されています。
それは、主イエスの栄光の現れの日が近づいていることを期待しながら、互いの信仰を励まし合い、ともに集まることを大切にするようにという勧めです。
ここでの「その日」とは、イエスの預言通りにエルサレム神殿が破壊される時が来ることを指していると思われます。それはユダヤ人にとっては世界の終わりでしたが、クリスチャンにとっては新しい時代の始まりでした。ただ、その希望の教えに逆らって交わりから離れる人が出ていたのも事実です。
残念ながら、そのような背教者は、ときに激しく自分のそれまでの信仰を否定し、かつての仲間を売るようなことさえします。それを前提にイエスは、「そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います」(10節) と告げました。
たとえば、江戸時代のキリシタン弾圧を指揮したのは大目付井上政重ですが、彼は昔信者であったため、宣教師までをも棄教させる知識を持っていました。それは信者のどの部分をつけば信仰がぐらつくかということを熟知していたということです。
実は、昔、信仰を持っていたという背教者こそが、信仰者にとっての最大の敵となるという現実が見られます。そして日本でも元宣教師が現宣教師を棄教させて行きました。残念ながら、そこには互いの裏切りや憎しみが生まれてしまいます。
さらに11、12節には、「また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます」と記されます。
ローマ帝国でネロが皇帝に即位した紀元54年、「ユダヤ各地で無頼の徒やペテン師が横行し、偽預言者が出現」と、ヨセフスのユダヤ戦記に記されています。
また、紀元60年には、エルサレムでシカリオイと呼ばれる暗殺者集団が、衣服の下に短剣を隠し持って、大祭司を初めとするローマ帝国の支配に媚びを売っているユダヤ人上流階級を暗殺するというテロ活動を始めました。そのためにエルサレム市内に住む人々、友人でさえも近づいて来る者は信用できないという事態になります。
つまり、イエスの十字架と復活によって「神の国」がクリスチャンの群れとして始まり、当時の世界の中心ローマにまで福音が広がるという中で、エルサレムでもローマでも、期待に反して混乱と「不法がはびこり」、「多くの人の愛が冷えて行く」という悲しい現実が広がって行ったというのです。
2.「ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら」
このように世の中が悪くなり、信仰者に対する迫害が激しくなる中で、「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」(13節) と記されます。「最後まで」とは、世の終わりとか人生の最期というよりは、「目的地」のような意味があり、「神の救いが見られるまで」と解釈できます。
先のヘブル人への手紙の続きでも、「耐え忍ぶ」の名詞形の「忍耐」ということばを使いながら、「ですから、あなたがたの確信(大胆さ)を投げ捨ててはいけません。それ(その確信)には大きな報いがあります。忍耐こそがあなたがたに必要なものだからです。それは、神のみこころを行い、約束のものを手に入れるためです。『もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない』」(10:35–37) と記されています。
「忍耐」とは、もともと軍隊用語だったようで、敵の最前線に留まり続けるというようなニュアンスで使われたことばです。その反対は、「恐れ退く」(同10:38) ことです。たとえば、最前線の砦に立てこもった軍隊は、援軍の到着を今か今かと待っています。しかし、前線から退却してしまえば今までの苦労が一瞬のうちに水の泡になります。
そのように援軍の約束が実現するのを待ちながら、前線に留まるのには何よりも「忍耐」が問われています。
さらに、「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」(14節) と記されますが、ここでの「終わり」も、最終的な世界の完成というより、当面のゴールであるエルサレム神殿の崩壊を指すとも考えられます。
そのように解釈すると、使徒の働きの最後に描かれるように、パウロがローマ帝国の中心ローマ市で福音を宣べ伝えたことも、すべての民族に証しされたことの一環と考えることができます。
ただ、これを世界全体の歴史の終着点と考え、それまでにすべての民族のための聖書翻訳を終えることを使命と考える宣教団体もありますので、そのような解釈も良いと思います。どちらにしてもその中心には、終わりに至るまで信仰者に使命があるという意味があります。
その上で15節では、「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たらー読者はよく理解せよ」と記されます。それは、ダニエル9章27節、11章31節、12章11節に記されるしるしで、神の敵が神殿を汚すことを指します。
紀元前168年、エルサレムはアレクサンドル大王の後継者の一人、シリア皇帝アンティオコス・エピファネスの支配下にありました。彼は、全土のギリシャ化をはかろうと、エルサレム神殿にゼウス像を置かせました。そして、約三年半の間(ダニエルの半週)、「いけにえとささげ物がやめさせ」(ダニエル9:27) ました。それに対して、ユダ・マカベオスを指導者とするユダヤ人たちがエルサレムを解放します。
これは今も「宮清めの祭り(ハヌカー)」として祝われており(クリスマスの時期)、ダニエル書の預言の成就として解釈されました。
ですから、イエスの時代の風潮の中では、そのように神殿が汚されたなら、いのちがけで戦うのが当然と見られていました。
そして、この時代の雰囲気ですが、冒頭で述べたように、ローマ皇帝の像が危うくエルサレム神殿に安置され、暴動が起きそうな恐れがありました。それは回避されたものの、ローマ帝国の支配に対する反抗運動は激化の一途をたどり、ついにはローマ皇帝の息子自らが独立運動の鎮圧に来るまでになりました。それはまさに、かつてエルサレム神殿がシリア軍によって汚されたことの再来と思えました。
しかし、このときに神殿を汚したのは何とユダヤ人自身でした。それはエルサレム内部の主導権争いの中で過激派が大祭司を殺害し、くじで何の知識も資格もない人を大祭司に立てるような事態が生じたばかりか、エルサレム神殿の広大な敷地は、過激派の拠点となってしまい、礼拝儀式が停止されました。
イエスはそのような事態になることを予見しながら、エルサレムがローマ軍に包囲されそうになったら、「ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません」と、一目散に逃げることを勧めました。
本来エルサレムは天然の要害であり、敵に攻められたら逃げこむ場所と思われましたが、イエスは別の山地に逃げるように命じました。多くの人々が神殿を清めるために立ちあがる中、クリスチャンは反対にこの預言を思い起こし、即座に町を離れ、ペレア地方のペラ(ヨルダン川の向こうの町)に逃げました。
当時のユダヤ人たちの常識では、ユダ・マカベオスの例に倣って、このようなときこそいのちを賭けて戦うべきと思えましたが、イエスは一目散に逃げることを勧められたのです。
イエスはエルサレム神殿の崩壊への道は神のさばきの現れと見ておられました。それで、ひたすらそこからの逃亡を命じられました。
3.「選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます」
19節では、「それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです」と記されます。
事実、エルサレムがローマ軍に包囲されたとき、町は過激派によって支配され、町を出ようとする者は裏切り者として即座に殺されました。紀元70年、ローマ軍が城壁を陥落させた際には、既にほとんどの住民が飢え死にしており、母が自分の子供を焼いて食べるという悲劇さえ起こっていました。
エルサレム神殿は、「神がともにおられる」ことのしるしとして理解されていましたが、目に見える神殿に固執した者は滅びることになったのです。しかし、イエスこそが真の神殿であることを信じた人は、救われることになります。
さらに20節でイエスは、「あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい」と言われました。冬に逃亡生活に入ると、凍え死ぬ可能性がありますし、安息日に逃げようとすると、安息日の道のり(2、000キュビット、約1、050m)という当時の口伝律法の解釈が障害になって遠くに逃げることができなくなるからです。
イエスはここで、そのような口伝律法を認めたというより、それがユダヤ人の心を徹底的に支配していることを前提に、逃亡の日が安息日と重ならないように祈るように勧めたと言えまましょう。
21、22節は、原文の語順を生かした訳では、「そのときには、大きな苦難があります、それは世の始まりから今までなかったようなもので、また今後も決してないようなものです。もし、その日数が少なくされないなら、すべての肉なる者は救われないことでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます」と記されています。
ヨセフスのユダヤ戦記によれば、エルサレムがローマ軍に包囲されたときはちょうど、過越の祭りの時期に重なっており、ユダヤ全土からの多くの巡礼者が集まっていました。その結果包囲攻撃中に死んだのは110万人にも上り、その大半は疫病か飢餓であったと言われます。一方、捕虜になった者の数は97、000人であったと記されています。
多くのユダヤ人は、ローマ軍によって殺されたのではなく、同胞のユダヤ人過激派によって町に閉じ込められたあげく、食料を奪われて餓死したのです。同胞によって町に閉じ込められ、食料を奪われて餓死するなどという悲惨は、あとにも先にも聞かれないようなことです。
人間は死に際しても、希望が必要ですが、それが同じ神を信じる人々によって奪い取られたのです。まさに神への信仰が何の役にも立たない現実がありました。
しかし、イエスのことばを聞いていたユダヤ人クリスチャンは、町が封鎖される前に逃げることができました。彼らはローマ軍から逃げたというよりも、ユダヤ人の過激派の支配から逃げることができたのです。それに関連する物語が、1984年に出版されたゲーリー・コーエン、キャサリン・ラニョンが記した「ああ、エルサレム、エルサレム (weep not for me)」に描かれています。
この本のタイトルは、イエスが十字架にかけられるためゴルゴタへの道を歩んでいるときに、イエスのことを嘆き悲しむ女性たちに向かってイエスが、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」(ルカ23:28) と、エルサレムを襲う悲劇のことを警告しておられたことに基づきます。
先にイエスの栄光の現れのことを述べましたが、エルサレム神殿の崩壊は、まさにイエスの預言の成就であり、そこからクリスチャンがエルサレム神殿を離れて世界中に福音を広げる契機になったという意味で、悲劇の中にイエスの栄光が現されたと言えましょう。
私たちは目に見える悲劇に心を奪われますが、そこには不思議な形での神のみわざが見られます。エルサレム神殿の崩壊をイエスの「栄光の現れ(パルーシア)」のときと見ることはある意味で、不謹慎ともとられかねませんが、それこそがキリスト教がユダヤ教から完全に決別して全世界に広がる契機となったという意味で、「栄光の現れ」であったのです。
もちろん、イエスの預言は紀元70年のエルサレムの破壊にとどまらず、これを歴史の究極のゴールのときに結び付けて読むことは正しいことです。しかし、聖書の預言は何重にもわたって成就してゆくということを忘れてはなりません。エルサレム神殿の崩壊の預言は、そのまま世の終わりの預言の前提として見ることができます。
世の終わりにも激しい苦難の時が来ます。しかし、エルサレム神殿の崩壊のときにクリスチャンたちの苦しみが短期間で終わったのと同じように、世の終わりの際の苦しみも、クリスチャンには耐えることができないほどの長さにはなりません。そのことを思いながら、いつまでもイエスへの忠誠を尽くすべきなのです。私たちは息をしている限り、イエスに仕え続けることができるのですから。
宗教改革者マルティン・ルターは、「もし明日、世界が滅亡すると分かっていたとしても、私は今日、リンゴの木を植えよう」と言ったとも言われます。しかし、「滅亡」ということばをルターが使うとは思えません。これはドイツの第二次大戦の敗北を前提に、そのような世界の終わりと思える悲惨の中でも、誠実を尽くすことを訴えた復興への合言葉として生まれたというのが一般的な解釈です。
なお、聖書における「世の終わり」とは、世界が滅びる時ではなく、「新しい天と新しい地」にシャローム(平和)が完成するときを指しています。それを前提に使徒パウロは、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58) と記しました。
たとい、東日本大震災を上回る天変地異が将来起きるとしても、それは「世の終わり」というより、新しい世界が誕生する「産みの苦しみの始まり」に他なりません。私たちはそこで当時のエルサレム神殿のような目に見える地上の宝を守るために戦う代わりに、互いに助け合い、愛の交わりの完成を目指すのです。
私たちはリンゴの木を植える代わりに、「愛の種蒔き」を今ここですることができます。そして、目に見える苦しみは、互いの間の愛のすばらしさを証しする舞台になります。目に見える宝より、誰にも気づかれないような愛の種蒔きに心を向けて生きて行きましょう。