復活祭から50日目にエルサレムの弟子の集団に「聖霊」が「炎のような舌が分かれ」るように下りました (使徒2:3)。これがペテンテコステ(聖霊降臨日)の由来ですが、そこで起きたことは、使徒たちが遠い地方出身者の言語で少数者に寄り添うようにキリストの復活が証しされたことと、それによって三千人ほどの人がバプテスマを受け、すべてを共有する愛の交わりが生まれたことです。それが現代に続く教会の始まりです。
つまり聖霊降臨は福音が理解され、そこに愛の交わりが生まれるという日常的な出来事なのです。御霊のみわざは、劇的な奇跡や癒しよりは、日々の生活の中に神の恵みを見出すことを助けてくれるものです。
そこに神の愛の優しいご配慮を見られるようになる時、私たちは自己嫌悪や自己卑下の思いから自由にされて、さりげないキリストの手紙」としてこの世に遣わされる勇気が生まれます。
ヘンリ・ナウエンは自己嫌悪の危険性について次のように語っています。「人生の最大の罠は、成功でも、名声でも、権力でもなく、自分を嫌悪することです。成功や名声や権力は、実際、大きな誘惑をもたらします。しかし、それらに人が魅了されるのは、自己を嫌悪するという、もっと大きな誘惑から出ていることが多いのです。
『あなたには価値がない』『愛されるに価しない』と呼びかける声を私たちが信じるようになると、次は、成功、名声、権力を求めることこそが、その問題を解決する魅力的な手段のように感じられます……自己嫌悪は霊的生活の最大の敵です。それは、私たちを『愛する者』と呼んでくださる聖なる声に反することです。」
事実、心理学的には、「傲慢」は自己嫌悪と表裏一体の別の側面に過ぎません。自分のあるがままの姿を恥じているからこそ、強がってしまうのです。私たちが日々、失望し、疑い、人と争うことがあるのは、自分が愛されていることが自覚されていないからかもしれません。
1.「あなたがたはキリストの手紙です」
コリント教会はパウロの二回目の伝道旅行で生まれた教会です。主はパウロの当初の意図に反して、彼をギリシャの地での異邦人伝道に導かれました。パウロはそこで最初、ユダヤ人に伝道しましたが、彼らがパウロに反抗して暴言を吐いたため、コリントでは積極的に異邦人に伝道するようになりました。
その際、主ご自身が彼に現れ、「恐れないで語り続けなさい……わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われました (使徒18:9、10)。
コリントは、当時としてはローマやエジプトのアレキサンドリヤに次ぐ国際都市で、数多くのユダヤ人も住んでいました。そして、イエスを「救い主(メシア、キリスト)」と告白する信仰は、当時はユダヤ教の一派として見られていました。事実、当時は新約聖書ができておらず、旧約聖書だけから教えが説かれていましたから、パウロの去った後、その信仰に導かれた異邦人は、当時のユダヤ人からの影響も強く受けながら、福音理解が歪められて行ってしまいます。
しかも、ユダヤ人からクリスチャンになった人々は、パウロが十字架に架けられる前のイエスご自身から直接の教えを受けていない新参者に過ぎないと見て、パウロの使徒として「資格」を疑う者が出てきました。さらにそこでパウロが使徒であるということを証明する文書を求める者さえ出て来ました。
それに対してパウロは、彼らに自分の権威を証明する「推薦の手紙」(1節) などは必要がないこと説得するために、「あなたがたこそ……私たちの手紙です」(2節) と言いました。彼らこそがパウロの働きの正当性を証明し、「すべての人々から知られ、また読まれている」(2節) ところの、「キリストの手紙」(3節) であるというのです。
それは何よりも、「生ける神の御霊」がパウロの「奉仕」を認めた結果なのです。彼らをキリスト者としたのは、御霊ご自身の働きに他なりません。
私たちはすべて「生ける神の御霊によって書かれ」(3節)、公開されている「キリストの手紙」です。マザーテレサのように人々から尊敬される「手紙」もあれば、「あれでもクリスチャン?」と言われる「手紙」もあるかも知れません。
しかし、自分を卑下する必要はありません。パウロはこれを救い難いほどの問題を抱え、自分に反抗するコリントの信者たちに向けて語っているのですから……。人はだれも自分が生まれ育つ環境を選ぶことはできません。恐ろしいほどの心の傷や闇を受け継いで生きている人もいます。しかし、「それでも生きている!」という現実の中に、キリストのみわざを認めることができます。
実際、人は誰でも、自分の罪の現実を知るにつれ、「私はイエス様なしには生きて行けない!」という思いが湧いてきます。それこそが、「キリストの手紙」としての最も根本的な要素です。偶像礼拝の慣習から抜け出し、十字架に付けられたイエスを主と告白し、その父なる神を礼拝しているという事実自体が、神の救いのみわざを証ししているのです。
世には尊敬に値する人が数多くいますが、私たちの主は、嘲られ罵られた方です。「人間的な標準」(Ⅱコリント5:16) で人や自分を測ってはなりません。
2.「新しい契約」とは?
モーセの時代の「石の板」(3節) には、「……してはならない」という「十のことば」が、神ご自身によって刻まれていました。それは、神が肉を持つ人の次元にまで下って来てくださったということの、あわれみの象徴でした。
ところが、それを聞いた人は、「私は忠実に守っている!」と傲慢になるか、「私はこれらを破ったから、もう愛される資格はない!」と自暴自棄になるかのどちらかでした。そればかりか、「……してはならない」と言われるほど、かえってそれを破ってみたいという敵対心を起こさせる場合もあります。
とにかく、せっかくの神の愛の教えが、愛の応答を生み出せませんでした。それはすでに創造主がエデンの園で、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木から、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:16、17) と言われたことがアダムに死をもたらしたことから始まります。
それは本来、自分を善悪の基準として神の競争者にしない限り、エデンの園で喜びと平安に満ちた生活を過ごせるという、人間が被造物としての限界を受け入れて生きられるための「自由の教え」でした。しかし、それが蛇の誘惑によって、神の意地悪に見えたのです。
それで、神はご自身の救いを、「石の板にではなく、心の肉の板に」(3節脚注直訳)、つまり、外側から命令するのではなく、心の内側に直接ご自身のみこころを知らせると約束されたのです。
神は預言者エゼキエルを通して、ご自身が全世界を新しく再創造する際のみわざとして、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける……石の心を取り除き……肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする」(36:26、27) と言われました。
パウロが「肉の板」ということばを用いているのは、この預言が成就して、私たちの心が、肉のように柔らかくされ、神の御教えに敏感に反応するように変えられることを指したものです。
また神は、預言者エレミヤを通して、「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す」(31:33) と約束しておられました。み教えが人の心の奥底に届くこと、それこそ「新しい契約」(6節) と呼ばれるものであり、神が、「そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ」(エレミヤ31:31参照) と約束しておられたことの成就でした。
つまり、神は、この新しい時代に、ご自身の霊を罪人たちに直接与え、心の内側に神への愛を起こさせ、律法を成就してくださるというのです。
あなたはその御霊を受けた結果として、「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3) と告白し、イエスに従った生き方をしたいと心で願うようになりました。十字架にかけられた方の生き方に憧れるなど、世の人々にとっては「愚か」以外の何物でもないのですから (Ⅰコリント1:18)、それこそ御霊を受けた証拠です。
そして、御霊を受けたあなたは、旧約の預言者たちが待ち望んだ憧れの神の民とされているのです。
パウロはローマ人の手紙8章9節で、「もし、キリストの御霊を持っていない人があれば、その人はキリストのものではありません」と記していますが、「キリストのもの」とは日常用語で言えば「クリスチャン」です。つまり、聖霊を受けていないクリスチャンというのはあり得ないという意味です。
それは、神の御子が私たちと同じ肉体を持つ身体となり、私たちの罪を負って十字架にかかり、三日目に死人の中からよみがえって、私たちが「神の子」とされたと信じるすべての人は、創造主なる聖霊を、またキリストの御霊を受けた奇跡の人とされているという意味です。
聖霊を受けるということを、私たちはあまりにも人間的な変化とみてはいないでしょうか。基本的な信仰告白こそが、聖霊のみわざの現れなのです。
3.「文字は殺し、御霊は生かす」
パウロは、「文字は殺し、御霊は生かす」(6節) と語り、石の板を受けたモーセの務めを「死に仕えること」(7節私訳) とさえ呼びました。それはその尊い教えが、人を罪に定め、死に追いやってしまったからです。
「文字」が悪かったのではありません。それを受けとめる人の心が、罪で歪んでいたからなのです。
それに対し、パウロは自分の務めを、「御霊に仕える」(6節) ことと語りました。そして、シナイ山で律法を受けたとき、「イスラエルの子らがモーセの顔を見られないほど、栄光がその顔に現れていたのですが、それは、消え去るものだったとしても」 (7節) という「モーセの顔に現れた神の栄光」との比較で、「まして、御霊に仕えることには、どれほどの栄光があることでしょう」(8節) と語りました。
この記事は、出エジプト記34章29–35節を引用して比較したものです。そこでモーセは、主のことばを語り終えた後で「顔に覆いを掛けた」(同33節) のですが、それは「彼の顔の肌は輝きを放っていた」(同30節) ので、民にとってまぶし過ぎたからです。それは、「主 (ヤハウェ) は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた」(出33:11) という、モーセの栄光の現れです。
モーセは肉から生まれた者で最も神に近い人ですから、パウロが自分の働きとモーセの働きを比べたということ自体が、当時の人々にとってはあり得ないことです。それは、パウロを神への冒涜者とするほどの恐ろしい表現です。
しかし、パウロはここで、そのような傲慢なことを言っているのではなく、「石の上に刻まれた文字」に仕える務めと、「御霊に仕える務め」とを対比して自分の働きを述べているのです。モーセは神と対面しましたが、私たちのうちには創造主である聖霊が宿り、創造主であるキリストの手紙とされているからです。
一方、イエスをキリストと信じないパウロの時代のユダヤ人たちの状態も、「古い契約が朗読されるときに、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられてはいません」(14節) と描かれています。
パウロは、モーセの「顔の覆い」の話を、モーセの書の朗読を聞くユダヤ人の「心の覆い」の話に結び付けます (15節)。それは、あわれみに満ちたはずの神のみことばが、人の心に傲慢か自己嫌悪しか起こさなくなっていたからです。その「覆い」を「取りのける」ことこそが、キリストのみわざなのです。
ある方が、ある人から「厳しいことを言われた!」と嘆いていました。話しを伺った後で、「僕も同じことを言うでしょうね。」と言いました。するとその人は、「先生は私のことを知った上で言ってくださるけれど、あの人は私のことを何も知らない……」と言いました。
同じことばが人を生かす場合もあり、殺す場合もあります。違いは、愛が伝わっているかどうかにあります。十字架は、「神が私たちの味方」(ローマ8:31) となってくださったことのしるしです。キリストの愛が私たちの「心の覆い」(16節) を取り除くのです。
そして、それを分からせてくださるのが御霊のみわざです。「文字は殺し」とは、正しいからこそ正論が人を追い詰めるという現実を現わしています。一方、私たちは、「御霊に仕える者」とされています。
御霊こそが、神の愛の教えをやさしく、寄り添うように、心の底に伝えることができます。御霊の働きは、私の罪が神のひとり子を十字架に架けるほどに恐ろしいものであることを示すとともに、このままの私の存在が、御子を身代わりにして救いたいと願うほどに「高価で尊い」(イザヤ43:4) という逆説を納得させるものです。
驚くべき恵み (Amazing Grace) の二番の歌詞は、「恵みこそが私の心に神への恐れ(畏れ)を教え、恵みによって恐れが和らげられた」という逆説が歌われています。私たちは真に恐れるべき方を恐れる時に、自己嫌悪感や、神と人から拒絶されるという「恐れ」から自由にされるのです。
4.御霊なる主の働き
「しかし、人が主に向くなら、その覆いは取り除かれるのです」(16節) とは、「モーセが主と語るために主 (ヤハウェ) の前に行くとき……覆いを……外していた」(出エジ34:34) という事実が背景にあります。
私たちはキリストの十字架により罪が赦された者として、モーセと同じように大胆に神の御前に出て行くことができます。その上でパウロは、「その主とは御霊のことです」(17節私訳) と不思議な展開をします。
これは、モーセが律法を与えた主ご自身を見たように、私たちも、「新しい契約」を与えてくださった御霊ご自身に向くことを意味します。それは、私たちの罪深く、混乱した心のありのままを、聖霊の御前にさらけだすことです。それは外科手術をする医者の前に自分の身を差し出すようなことです。
そして、「主の御霊のあるところには自由があります」と言われます。それは、御霊が私たちの心の奥底にある「ことばにできないほどの深いうめき」をご自身の「うめき」として、父なる神に祈ってくださるからです (ローマ8:26)。
聖霊は、私たちが自分を知る以上に、私たちの心を知っていてくださいます。「御霊のうめき」の中で、私たちの心が自由にされます。これは、モーセのように、神に選ばれ、「顔と顔とを合わせて」(出エジ33:11)、神を見る自由を意味します。
それは、敢えて言えば、「……からの自由」ではなく、「……への自由」を意味します。それこそが聖書が語る自由の中心です。モーセが、直接に神を仰ぎ見て、その顔がまぶしいほどに輝いたのと同じことが、こんな私たちにも実現するというのです。
その上で、「主の栄光を鏡に映すように見ながら」(18節新改訳別訳) と記されます(新改訳で「反映させ」と訳された動詞は、聖書中ここにしかありませんが、「見つめる」と訳す方が当時の一般的な用い方)。
コリントは当時の最高の鏡の生産地でしたが、それにしても現代の鏡の精度よりは各段に落ちました。それで、「鏡に映すように見る」とは、「顔と顔とを合わせて」ではなく、間接的に見ることの象徴になりました。つまり、これは「黙想」することを意味します。
しかも、「主の栄光を見る」とは、後で「キリストの御顔にある神の栄光」(4:6) とも言われるように、キリストご自身を見ることです。つまり、ここでは、キリストの御姿を、またキリストの生涯の歩みを、十字架を黙想することを意味すると思われます。
その結果として、「その同じかたち」、つまり「主の栄光」である「御子のかたち」(ローマ8:29参照) にまで、「栄光から栄光へと、姿を変えられて行く」というのです。そして「これは、御霊なる主による」みわざであると結論づけられます。
つまり、私たちが「御霊なる主」に向くことによって、御霊ご自身が私たちの「顔の覆い」を取りのけ、神の栄光を見ることを可能にし、その現れであるキリストと同じ姿にまで変えてくださるというのです。
私たちが自分の力で変わろうとするのではありません。人の力には傲慢か自己嫌悪が生まれまるからです。これは創造主ご自身であられる御霊の再創造のみわざであり、キリストの謙遜が生まれます。
なお、これは私たちの「心の覆い」が取りのけられて「キリストの心を持っている」(Ⅰコリント2:16) ことによって「モーセの書」をはじめとする聖書全体を黙想できるようになることでもあります。私たちは聖書のどこにでも、キリストを見出し、そこにおいて主 (ヤハウェ) の栄光を黙想することができるのです。
私たちはすべて、「生ける神の御霊」によって記された「キリストの手紙」です。それを努力目標ではなく、すでに実現した霊的な事実として認めることこそが、健全な信仰の始まりです。
私たちはみことばの著者である御霊ご自身に仕える栄光が与えられています。それはモーセが受けた栄光にまさる「栄光」です。そして、私たちが御霊なる主に向き、この身を御霊の働きに委ねるときに、キリストのすばらしさが迫ってきて、「栄光から栄光へと」、その「同じかたちに」まで「姿を変えられて行きます」(3:18)。
そしてこれも、努力目標ではなく、創造主なる聖霊が実現してくださるという保証された約束です。
ただし、「栄光」とは、私たちが地上的な意味で求めるものとは異なるということも知る必要があります。イエスは、かつて「人の子が栄光を受ける時が来ました」と言いつつ、ご自分が「一粒の麦」として死ぬことを予告されました (ヨハネ12:23、24)。また、ユダの裏切りが実行に移される時、「今、人の子は栄光を受け……ました」(ヨハネ13:31) と言われました。
つまり、イエスが「栄光を受ける」とは、何と、ご自分の愛弟子に売り渡され、人々からののしられ、十字架で殺されることを指していたのです。しかし、それは悲惨なようでありながら、この地上の人々の評価からまったく自由にされている姿でもあります。
そこに真の喜びがあります。なぜなら、真の栄光とは神との豊かな交わり自体にあるからです。十字架のキリストの御跡に従う者に、神がどれほど身近にいてくださるかは、キリストの十字架と復活で明らかです。
キリストの御霊のみわざは何とダイナミックで、自由と喜びに満ちていることでしょう。あるとき、自己嫌悪に陥りながら、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」(ヤコブ4:5) というみことばに深く慰められました。
御霊を受け、神の子とされた誇りを忘れてはなりません。この逆説的な栄光は、人から誤解され、非難される中で体験できます。それこそキリストの歩みだからです。