コロサイ3章1〜11節「隠された新しいいのちが明らかにされる歩み」

2013年6月9日

人はみなどこかで自分を「みにくいアヒルの子」のように思うことがあります。不思議なのは、みんな自分のことをそのように思うことがあるとしたら、実際には、「みにくいアヒルの子」が存在するのではなく、自分をそのように「誤解」している人がほとんどであるということになります。

また、その童話では、母親からも見捨てられた「みにくいアヒルの子」が、白鳥の姿を見て、自分もそうなりたいと憧れた・・ということが描かれています。そして、やがて、自分がその憧れの白鳥の子であることを発見します。キリストとの交わりに生きる者は、すべて、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられ」る途上にあります(Ⅱコンリント3:18)。私たちが憧れる栄光の姿は、すでに約束されているのです。

ユージン・ピータソンが、クリスチャン生活とは、「復活の実践」(Practice Resurrection)だと言っています。私たちが「新しい天と新しい地」に復活の身体で入れていただくことは確定しています。これは、「天国に憧れながら、この世の不条理に耐える・・」という現実逃避的な幻想の世界に生きることではありません。

私たちは、将来の保証があるからこそ、現在の労苦が無駄にならないということを信じて、今、ここで、神のみわざを喜びながら、神から与えられた身体をもって、この世界を少しでも住みよくするために積極的に生きることができるのです。今を喜ぶことと、新しい世界を待ち望むことは表裏一体の関係があります。

しばしば少女は、ままごと遊びをしながら家庭への夢を育みます。同じように、子供時代の遊びを最大限に楽しむことは、最も効果的な大人への備えとなります。

私たちも、今この時を喜んで生きることが、「新しい天と新しい地」での生活への最高の備えになります。私たちの肉体的な死は、青虫が腹を満たして成長し、さなぎの中で眠るようなものです。

それが脱皮の後で、同じ遺伝子の固有性を保ちつつ、見違えるような蝶に変身するのと同じように、私たちの身体も、キリストの再臨の時、現在との連続性を保ちながら栄光の姿に変えられるのです。

1.「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」

「あなたがたがキリストとともによみがえらされたのなら・・」(1節)とは、2章11節の、「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ・・よみがえらされた」というみことばを前提としています。

「よみがえらされた」というのは、完了形ではなくギリシャ語特有のアオリスト(無時制)形の表現です。エペソ人への手紙2章6節でも、私たちに実現した救いのことが、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と記されていますが、これも同じアオリスト形です。これは、過去、現在、未来という時の区別を超えた、神のみわざを表現するのにふさわしい動詞形です。

キリストの復活は二千年前の歴史的な事実ですが、イエスを死者の中からよみがえらせてくださった神のみわざが私たちの中に既に始まっており、それが目に見える完成に向かっているというのです。

私たちは自分の身体の復活を、死んで意識がなくなって、地球が滅びる直前に実現する、遠い未来のことのように考えがちですが、聖書は、キリストが既に復活したように私たちも既に復活のいのちの中におり神の時から見たら、すでに復活は始まっていると考えるべきなのです。

私たちはみな、キリストにつながることによって、主が死者の中からよみがえられたように、栄光の身体へと復活します。私たちのうちに既に、「キリスト、栄光の望み」(1:27)が住んでおられるので、その実現は保証されています。ですから、私たちは、既に、よみがえらされたかのように生きることができます

私たちの人生は、自分を青虫に過ぎないと見るか、蝶の幼虫と見るかで大きく違ってきます。私たちは、今、将来の王になる準備として、あえて丁稚奉公の苦労を体験させてもらっているのです。事実、人は、明日への希望を持っているなら、どんな困難にも耐えることが出来るし、それを通して驚くほどの成長を遂げられます。

「キリストが、神の右に座を占めておられる」とは、復活の主が、神からの全面委託を受けてこの地の支配者となっていることを指しています。私たちはこの勝利者キリストと一体とされているのですから、地上的な次元で自分の価値をはからずに、「天にあるもの」(2節)、栄光に満ちた者として姿を「思いなさい」と勧められているのです。

しばしば、人は、自分を安っぽく見た結果として、自暴自棄な行動に走り、人を傷つけますが、「あなたがたはすでに死んでおり」(3節)とは、キリストの「ご支配の中に移して」いただいている者はすでに、地上的なアイデンティティーから解放されたという意味です。

私たちはみな、どこかで、もっと豊かに、偉く、強く、尊敬される者になりたいと思いながら、比較の世界に生きています。しかし、いつも上には上があり、たとい頂点に上り詰めても、その地位を失う恐れに囚われてしまいます。それこそ、自分の真の価値を見失っている状態なのです。

そして、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」と述べられるのは、この復活のいのちが、この地ではまだ人々の目には見えないからです。しかし、それは確かに、「神のうちに隠されている」ので、誰も奪うことはできません。

やがて、「私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときにあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます」(4節)と記されています。

まず、キリストご自身が「私たちのいのち」であるというのは何という慰めでしょう。キリストにあるいのちの豊かさが、キリストの再臨の時に、あらゆる想像を超えた形で豊かに現されるのです。私たちのうちにすでに栄光の姿が形作られ始めているのです。

「みにくいあひるの子」の童話では、自分が白鳥の子であることを知らないがために、自己嫌悪に苛まれ、あるときは死にそうになっている中を優しいお百姓さんに助けられながらも、また自分がいじめられるのではないかと勝手に思い込んで、そこで騒ぎを起こし、逃げ出してしまわざるを得なくなる様子が描かれています。

被害者意識でいっぱいになった者は、人の助けさえ受け入れられなくなってしまうからです。同じように、私たちは、キリストのうちにある者としてのアイデンティティーを知らないために、神によって創造された自分のあるがままの姿を恥じながら、被害者意識に苛まれて、幸せを味わえる機会さえ自分で捨ててはいないでしょうか?

2.「悪い欲、むさぼりを殺し、怒り・・恥ずべきことばを、口から捨てなさい」

パウロはその上で、「地上のからだの諸部分・・・を殺しなさい」(5節)と命じます。それは、イエスが、「誰でも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体がゲヘナに投げ込まれるよりは良いからです。もし、右の手がつまずかせるなら、切って捨ててしまいなさい・・・」(マタイ5:28-30)と言われたことに由来します。

確かに、これに文字通り従うなら、ほとんどの男性の、目も手もなくなっていることでしょう。しかし、イエスは、私たちに自分を正当化することをやめさせようと、敢えて誇張表現を用いられたのです。

それにしても、ここでは「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい」(5節)と描かれていますが、これらは不思議にすべて、性的な罪に関することばです。

「むさぼる」とは、隣人の持ち物を羨ましく思い、どうにかして手に入れたいと強く望むことですが、申命記5章21節では、隣人の持ち物を欲しがることの最初に、「あなたの隣人の妻を欲しがってはならない」と敢えて独立して描かれています。

つまり、私たちのこの地上の歩みでもっとも制御しがたい欲望が、性に関わることであるというのです。

これは、復活の身体と現在の身体の違いから見るとよくわかります。イエスは「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」(マタイ22:30)と言われましたが、それで多くの人は誤解をして、私たちの復活の身体は、天使のように、男女の性別を超えた存在になると思っています。

しかし、「天の御使いのよう」ということの核心は、何よりも「死ぬことができない」(ルカ20:36)ということにあります。神が最初に人を男と女とに創造した最大の目的は、「生めよ、ふえよ、地を満たせ」(創世記1:28)という命令を実行させるためでしたが、復活の身体の特徴が、死なないことにあるならば、復活の際には、結婚は必要なくなります。

しかも、人間は、自分の死の現実を、子孫を生むことによって超えようとしていました(創世記3:20)。人間に与えられた性的な欲望は、そのためにますます強くなったのではないでしょうか。また、恐れや孤独に支配された人間は、束の間の性的な交わりに中に慰めを見いだそうとします。

どちらにしても、復活の身体と、現在の身体の最大の違いは、性の交わりにあります。そして、私たちが復活のからだを意識しながら生きることの本質は、性的な衝動に駆りたてられなくなるということに現されると言えましょう。

復活の身体においては、男性であることも女性でもあることも、互いの性的な欲望を刺激し合うことのない、その人の大切な個性の一部とされています。女性であることのすばらしさも、子供を産むかどうかを超えた観点から見られるようになるのです。

なお、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」(5節)とありますが、それは「偶像礼拝」の本質は、自分の「欲望」を神としてしまうことだからです。

そして、実際、当時の異教の神殿では、偶像の神々の巫女には同時に売春婦としての役割も期待されていました。その上で、「このようなことのために、神の怒りが下るのです」(6節)と記されていますが、これは「あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました」とあるように、昔の生き方に戻ることへの警告です。

これは、「あなたがたは、このようjに主イエス・キリストを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」(2:6)という命令に対する反抗として、キリストにある救いを無駄にしてしまうことだからです。

ただし、このように言われる背景には、「もうあなたは、今、キリストのうちにあるのですから・・・」という自覚を促す励ましがあることを忘れてはなりません。

そして、「怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべきことば・・・」(8節)に関しては、「口から・・・捨ててしまう」ことが求められています。これは「口から吐き出す」ことではなく、「口から出ないように捨て去る」ことです。

私たちは、湧き起こってくる感情を押さえることはできませんが、神の助けによって、口から出ないようにすることはできます。

「怒り」は、「神の怒り」と同じことばですから、すべてが悪いわけではありません。しかし、この感情が膨らむのを放置するとやがて人に向かって爆発します。そして、これらは何よりも、人間関係を破壊するものです。

私たちの身体が復活して入れられる世界は、愛の交わりの完成した場所です。そこでは、もう、肉体的な性の交わりがないと同時に、互いに対して怒ったりそしったり、恥ずべき言葉を吐く必要がありません。

復活の身体を意識することで、性的な汚れと、口から出る悪い言葉から自由にさせていただけるというのです。

私たちがこの地で復活を実践するとは、自分のうちに沸いた怒りやねたみの感情を、すなおに神に差し出して、その気持ちをキリストに引き受けていただくことです。セルフ・コントロールではなく、神に取り扱っていただくことです。

しばしば地上の教会は、性的な罪がほとんど見られないような聖い交わりでありながら、互いに裁きあっていたり、反対に、暖かい愛の交わりでありながら、道徳的に極めてルーズであるなどという偏りが見られがちです。

たとえば、アメリカのブッシュ前大統領は、ホワイトハウスに道徳的な聖さを実現したと言われますが、反対に戦いをもたらしたという面がないでしょうか。そんなとき、あの性的にルーズな元のクリントン政権を懐かしむ声が出てきました。

しかし、安易な妥協をしてはなりません。「一方を殺し、他方を捨てる」ことが命じられているのです。道徳的に聖でありながら、互いを心から赦しあっている交わりを、神は創造してくださいます。

3.「新しい人は・・ますます新しくされ・・・」

「古い人を・・脱ぎ捨てる」(9節)とは「禁欲の勧め」ではありません(2:21-23参照)。それは11節にあるような古いアイデンティティーから離れて、キリストのうちに生きることです。

もし、主にあって男女の区別を超えた霊的な交わりを体験したら、情欲を抱いて女を見続けることができるでしょうか。人種や社会的地位を越えた交わりを体験したら、憎しみなど消えてしまいます。

本物を知ることによって初めて、偽物に身を任せることから自由にされます。それは、新しい人を着た」(10節)という状態を心から味わうことによってです。

多くの人は、世の競争に勝つため、また人の評価を恐れて、自分のうちに与えられた芸術的な才能を眠らせていますが、そのために、「新しい天と新しい地」で花開く喜びを味わうことができていないのかも知れません。

また、たとえば、音楽に合わせて踊ることは、復活した栄光の姿に続くことかもしれませんが、その喜びを押さえ込んでいては、新しい世界の喜びをイメージすることができません。

しかし、反対に、人との比較を超えて、本当に自分自身であることを喜ぶことができるような瞬間があるなら、そこから新しい世界の喜びが実感できます。

その上で、「造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至る」と記されていますが、これはESV訳では、“and have put on the new self, which is being renewed in knowledge after the image of its creator”(新しい自分を着たのです。それはその創造主のかたちに従って知識において新しくされた者です)と訳されます。

つまり、新しくされるとは、異なった人格、今までとは違った性格や体形に変わるということではなく、自分を神のイメージの視点から、まったく違った観点から見られるようになるということです。

私たちは知らないうちに、自分を創造主の視点ではなくこの世的な視点で見てしまっています。これは、造り主があなたをユニークに創造されたその輝きが増し加わる状態です。自分を欠陥人間かのように思うことは造り主を冒涜することです。

そして、「それは真の知識に至る」とは、二つの知識を指し示しています。それは、神とキリストを知ることばかりか、「神のうちに隠されてある」あなた自身の「いのち」、「新しい人」としての自分を知ることでもあります。

たとえば、多くの人は自分を傷つきやすい、臆病で内気な人間であることを隠そうとします。そして、内気な人ほど自分を強く見せたいという誘惑が働いたりします。

人によっては、敬虔なクリスチャンのふりをするという誘惑に駆られるかもしれません。人々の批判にも動じることなく、いつでもどこでも神の眼差しを意識して、黙々と自分に課せられた責任を果たすことができるなどという見せかけを振る舞うことがあるかもしれません。

しかし、そんな信仰は極めて危険です。私たちがイエスキリストに信頼して歩むということと、不安の気持ちから自由になれず、人の評価に一喜一憂しながら、生きるということは決して矛盾することではありません。自分が感じることを否定してはなりません

私たちは不安だからこそ祈るのです。人の評価が気になるからこそ、神の評価を求めるのです。私たちが味わうすべての感情は、私たちの頼りなさを知らせ、私たちを神に向かわせる契機になります。

また自分の弱さや頼りなさを知るということは、他の人をもっと優しく見るきっかけになります。

人間はいつも自分や人を、ある特定の枠から見ようとします。ここでは「ギリシャ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人と言う区別はありません」と記されています。

未開人とは英語ではバーバリアンと記されますが、これは本来、当時の文化的な言語であったギリシャ語を話せない人の総称でした。

スクテヤとは黒海の北の地域、現代のロシア人を指します。彼らは未完人の中の未開人と見られていました。また、当時のユダヤ人は、ギリシャ人から見れば未開人ですが、自分たちが神の選びの民であることに大きな誇りを持っていて、反対に、偶像の神々を拝む文化のギリシャ人を軽蔑していました。

また、「奴隷と自由人」という間にも想像を超えた大きな溝がありました。現代的には自分や人を人種とか学歴で見るとか、ある特定の能力や、経済力で見るというようなことです。私たちはそれらの区別の枠を否定するのではなく、それに捉われなくなることが大切なのです。

たとえば、「私は学歴などを気にしない」と言っている人に限って、学歴を気にしているという場合があります。本当に気にしていないなら、それを言う必要もありませんし、人が自分の学歴を公表することを批判する必要もありません。大切なのは、その地上的な尺度を超えた視点から自分と人とを見ることです。

そのことがここでは、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」ということばです。私たちは何よりも、自分をキリストのうちにあるもの、また、キリストの御霊を宿している者として見る必要があります。復活のキリストの御霊があなたの中に住んでおられます。あなたは復活したキリストと一体とされているのです。

人と自分を青虫どうしの背比べのような比較の中で見るのではなく、自分をアゲハチョウの幼虫として見る必要があります。自分をみにくいあひるの子としてではなくて、白鳥の子どもとして見る必要があります。

私たちは人間的な視点から自由になる必要があります。私たちに問われているのは、何よりも、生きる方向です。私たちはそれぞれキリストのために生きるように新しくされたのです。あなたにとっての人生の主は、自分ではなく、キリストになりました。何よりもそれが決定的に新しくなったことです。

そして、「復活を実践する」とは、あなたのそのままの姿や感性を神に差し出し、それがイエスを死の中からよみがえらせた神の御霊によって自由に用いていただくことです。この世的には用いようのない個性が、神にあっては豊かに用いられます。

私はかつて、ある意味で敏感すぎると思われた自分の感性を恥じていました。しかし、それを優しく受け止め、それを神に差し出すという「歓迎の祈り」を学んだ時、新しい世界が開かれてきました。

そこで体験したことを「百万人の福音」に連載した時、「私も同じことで悩んでいました」という多くの反響をいただき、それが今回、「現代人の悩みに効く詩篇」という一冊の本にまとめられ、出版されました。

私たちは、しばしば、十字架につけて殺すべき古い自分ばかりに目を向けてしまいがちです。その結果、自分の成長を人と比較し、高ぶったり、自己嫌悪に陥ったりします。

しかし、今、新しい旅が始まりました。それは、あるがままの自分がイエスによって創造されたことを喜びながら、同時に、自分のうちに始まっている新しいいのちを喜ぶことです。

私たちは、期待に満ちて、自分にしか分からない「キリストとともに、神のうちに隠されてある」、新しい「いのち」の豊かさを日々、発見させていただくことができるのです。