「罪の奴隷」から「恥を知る人間に」〜ローマ6:20、21

 NHKの【こころの時代 宗教・人生】で4月21日(日)から始まる新シリーズ こころの時代 「ヴィクトール・フランクル」6回シリーズ をご紹介しました(4月19日の )。
 ただその関係でフランクルのインタビュー記事などをウィーンに住む友人から紹介していただきました。
 残念ながら、そこでフランクルが、人間を「良い人間」と「悪い人間」に分け、政治体制の問題や社会の問題を論じないことへの疑問が出されていました。
 
 しかし、フランクルは、一人一人の人間をある特定の枠に入れて、ドイツ人はこうだ……ユダヤ人は……日本人は……と論じて、集団の責任を問うということに何よりも反対していたのです。
 それは、一人一人が、創造主の前で、どのように生きたかの責任を問われるという聖書の考え方に通じます。

 私たちの日本でも「恥を知っている人」「恥知らずな人間」と区分けされることがありますが、それは人間を二つに分類するというのではなく、「恥知らずな人間」にならないようにという励ましのことばです。

 使徒パウロは私たちの回心に関して次のように記しています

20 あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。
21 ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。
ローマ人への手紙6章20、21節

 ここでは、私たちの回心が、恥ずかしく思わなかったことを、「恥ずかしく思う」ようになるという、恥の感覚の変化として描かれています。
 「恥を知る」という生き方は、創造主から問われている生き方であるのです。

 1988年にヴィクトール・フランクルがウィーンの市役所前の広場でした演説の原稿をウィーンに住む友人からご紹介いただき、DeepL で翻訳してもらいました。
 「まともな人間」Anständiger Menschenは「恥を知る人間」とも訳せます。また「下品な人間」unanständiger Menschen は「恥知らずな人間」とも訳すことができます。
 ナチスのホロコーストを生き延びた精神科医の魂の叫びです。人は誰でも、「恥を知る」生き方を目指したいと心の底で願っているのではないでしょうか。
 これは決して人間を二種類に分ける話ではなく、私たちに問われる生き方の問題です。
 以下で、その演説の様子をご覧いただけます

また、以下はその最後の結論の部分です。DeepL.com(無料版)で翻訳しました。

 皆さん、国家社会主義は人種マニアをもたらしました。しかし、私がそれについてどう考えているかをお話しさせていただくと、私の答えはこうです:
 人類には実際には2つのタイプしかなく、それはまともな人間の人種 (anständiger Menschen) と下品な人間の人種 (unanständiger Menschen) です。

人種隔離はすべての国家を貫き(拍手)、すべての国家内でも、あらゆる政党やあらゆる種類の集団の中で行われています。
 強制収容所でさえ、あちこちで、SS の中でさえ、中途半端にまともな人間に出くわす。危険なのは別の場所だけだ。まともな人は少数派である。まともな人はこれまでも少数派だったし、これからも少数派であり続けるだろう。
 危険なのは、ある政権、ある政治体制が、下品な人々を表舞台に引きずり出し、言い換えれば、ある国の負の淘汰が支配することを確実にするところにある。それこそが本当の危険なのだ。(拍手)
 しかし、皆さん、最初からこのような事態を免れる国は一つもありません。この意味で、私はあえて、どの国も基本的にはホロコーストが可能であると言いたいのです(拍手)。そして、このことから導き出される政治的帰結は何でしょうか?
 私の考えでは、政治には2つのスタイル、つまり2種類の政治家しかいない。ひとつは、目的は手段を正当化すると考える人たちだ。どんな手段でも、テロリストの手段も含めて。
 もう一方の政治家は、最も神聖な目的さえも冒涜しかねない手段が存在することをよく認識している。そして、私が信頼するのはこのタイプの政治家であり、この3月という日々を取り巻くすべての喧噪から理性の声を聞き、この日、いや、この追悼の日の要求を聞き、そしてそれは、すべての善意ある人々が最終的に、すべての墓とすべての塹壕を越えて互いに手を差し伸べるということに他ならない。(拍手)。
ありがとうございました。

 「目的のためには手段を択ばない」という「下品な人間」、「恥知らずな人間」に政権を握らせる危険は、どこの国にも存在します。
 私たちはそれにも目を見張る必要があります。