イエスがユダヤ人の最高議会で裁判を受けておられたとき、大祭司から、「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」と問われて、「あなたが言った通りです」と答えました (マタイ26:63、64)。当時は、これだけで十分、神への冒涜罪で有罪にできる答えでした。
当時のユダヤ人は、それから約二百年前のユダ・マカベオスによる独立運動の成功をいつも語り草にしていました。今、そのような話を知っている日本人はいなくても、その物語を基にした、1747年4月のロンドン上演のオラトリオ、「ユダ・マカベオス」に登場する合唱曲はご存じです。何と日本の伝統スポーツである相撲の表彰式でも奏でられる勝利の歌です。
アレクサンドル大王のペルシア、シリア地方の後継将軍の子孫であるアンティオコス・エピファネスという王が、エルサレム神殿を汚し、敢えて豚のいけにえをささげさせ、そこにギリシアの神ゼウスの像を安置させ、ユダヤ人に律法を捨てるように強制しました。
そのときに立ち上がったリーダーがユダ・マカベオスで、彼は奇跡的にアレクサンドロスの伝統を受け継ぐギリシア軍を打ち破り、エルサレム神殿を清めます。そのときの勝利の凱旋の情景を歌ったのが以下の歌詞です。
See, the conqu‘ring Hero comes! Sound the trumpets! Beat the drums!
見よ、敵を打ち破る英雄が来た。トランペットを響かせ、ドラムを打ち鳴らせ。
Sports prepare! The laurel bring! Songs of triumph to him sing!
饗宴の用意を 月桂冠を運べ。 勝利の歌を彼にささげよ。
ですから、当時の人々が期待していた救い主とは、エルサレムをローマ帝国の支配から完全に解放して、かつてのダビデ王が実現したような王国を復興できる指導者でした。そのように国を導くはずの指導者が、弟子から逃げられ、無力に一人ぼっちで、人々の前に立たされている、などというのはあり得ないことです。イエスのそのときの姿は、人々を偽った偽預言者であったことを表わしていました。
ところがイエスはそこで、ご自分が「神の子、キリスト」であることを認めたばかりか、さらに「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」と述べました。これは当時の人々も良く知っているダニエル書7章13節のことばの引用です。その前後関係のことばは次の通りです。
そのとき、あの角が大言壮語する声がしたので、私は見続けた。すると、その獣は殺され、からだは滅ぼされて、燃える火に投げ込まれた。残りの獣は主権を奪われたが、定まった時期と季節まで、そのいのちは延ばされた。
私がまた、夜の幻を見ていると、 見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。その方は「年を経た方」のもとに進み、 その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、 その国は滅びることがない。
ダニエル7章11–14節
ここでの「大言壮語する声」とは、イエスの200年前はアンティコス・エピファネスであり、イエスの時代には少し後の時代のローマ皇帝ネロのような存在です。そのような横暴な迫害者が、神の手によって火に投げ込まれるとともに、「人の子」ののような方が、「天の雲とともに現れ」、天の父なる神の「前に導かれ」、全世界を治めることになると預言されていました。
イエスはユダヤ人の最高議会で、ご自身はダビデ王国を再興する王であるばかりか、天の「神の右の座に着」いて全世界を支配する「王たちの王、主たちの主 (King of Kings、Lord of lords)」(黙示録19:16) であると宣言されたのです。
それを聞いたユダヤ人の宗教指導者たちはすぐさま、「この男は神を冒涜した」と応答し、「彼は死に値する」と、全員一致で判決を下しました (マタイ26:65、66)。
ただ、当時のローマ帝国の支配下では、ユダヤ人には死刑の判決を下す権威は与えられていなかったため、ローマ総督ピラトを脅してイエスを死刑にさせる必要がありました。
ただし、ローマ総督としては、イエスはユダヤ人の独立運動を導く革命指導者のようにはどうしても認められなかったので、最後に「この人の血はついて私には責任がない。おまえたちで始末するがよい」とユダヤ人に責任を押し付けました。しかしそれに対して、そこにいるユダヤ人たちは、「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」と応じてしまいました (マタイ27:24、25)。
そしてそれからユダヤ人の過激派が力を持ち、ローマに対する激しい独立運動を起こし、ローマ皇帝の大軍を呼び寄せます。そして十字架から約40年後にエルサレムは壊滅し、ユダヤ人は国を失い、世界中に散らされます。ですから、ユダヤ人が二千年前に国を失った理由は、ローマ総督を脅して、イエスの「血の責任」を自分たちと子孫が負うと言ってしまったことに由来するのです。
ただ、それは二千年前に起きた神のさばきであり、今もユダヤ人たちはイエスの十字架の責任を負い続けているという意味ではありません。ユダヤ人に対する神のさばきは既に終わっています。今は、ユダヤ人が「イエスをユダヤ人の王」(マタイ27:37) として受け入れるように待ち望んでいる時代です。
しかし残念ながら、今も、多くのユダヤ人はイエスを偽預言者だと思っています。そのように思う人々は、当時と同じように、軍事的な勝利こそが、神に立てられた指導者の責任であると信じています。そしてそのような軍事力に対する信頼が、現在のパレスチナ問題を激しくする温床とされています。
ただ一方で、キリスト教国と言われる国々の指導者たちも基本的に、軍事力で目の前の問題を解決できると信じています。確かに短期的には、軍事力こそが、争いを終結させる手っ取り早い手段であることには間違いありません。事実、誰もロシアのプーチン大統領を説得することはできていません。
しかし、キリストは自ら十字架に向かうことで、「死の力」を滅ぼしたのです。十字架と復活はセットだからです。世の人々は敵の力を打ち破り、敵を服従させるような強い英雄を求めています。しかし、聖書が描く真の英雄とは、人々の嘲りや罵りに耐えながら、神のみこころに応じて、「十字架の死にまで従う」(ピリピ2:8) ことができるような意味での「強さ」なのです。最近の用語ではレジリエンスとも呼ばれます。
軍事指導者はみんなの称賛を得ながら、自分のいのちを犠牲にすることができます。しかし、救い主の強さとは、人々の嘲りや罵りに耐えながら、神のみこころに従う人です。そのような損な役割を引き受けられる理由は、何よりも、死の先にある「復活のいのち」を知っていることによります。
ローマ帝国では、多くの人々はクリスチャンが死の脅しに屈しない殉教の姿に感動しました。ですから紀元200年頃のテルトゥリアヌスは当時の支配者たちにむかって、「あなた方がわれわれを刈り取れば、その都度、われわれの信者は倍加するのである。キリスト教徒の血は、種子なのである」と述べました(護教論50:13)。クリスチャンが死の脅しに屈することなく、すでに復活のいのちを生きていたからです。
私たちはみな、心の底で、自分の損得勘定で動き、周りの人々をすぐに裏切るような人を軽蔑しています。そして、真の平和を実現するために自分のいのちを差し出すことができるような真実な人へのあこがれを持っています。しかしそれを実行することはなかなかできません。それは私たちが心の底で、何よりも人から見捨てられること、人間扱いされなくなるような「辱め」を受けることを恐れているからです。
実は、十字架の不思議とは、人々の拒絶や辱めに勝利できたということ自体にあるのです。だからこそ十字架の描写では、肉体的な痛みよりも、人々から罵られ、唾を吐きかけられるというような「辱め」に焦点が当てられています。私たちも人間関係で苦しみ、人々の誤解や中傷を恐れます。しかし、イエスを信じる者は、人々の誤解や中傷にさらされ、死の脅しを受けるようなときに、自分が「イエスの御跡に従っている」という「誇り」を感じることができ、そこでイエスご自身の臨在を身近に体験できます。
そこで私たちは、死の恐怖に向き合い、人々の誤解や中傷を受けながら、周りの人を力で従えようとする代わりに、徹底的に人々に寄り添い、そんな役割も引き付ける勇気を持つことができます。まさに、イエスが真の意味で勇者であったとは、十字架の辱めに耐えられた姿にあったのです。
それで十字架を目撃したローマの百人隊長は、「この方は本当に神の子であった」と告白しました (マタイ27:54)。
これから歌う讃美歌はマルティン・ルターによる編曲と作詞によるもので、これほどにイエスの十字架の神学的意味を簡潔に歌っている歌詞を私は知りません。
イエスが十字架に自ら向かわれたのは、私たちの「罪を負う」ためでした。そしてイエスは死からよみがえって私たちに真の「いのち」を与えてくださいました。これこそ十字架の神学です。
その際、死は罪の結果として人に中に入り、私たちを支配しますが、同時に私たちは死の脅しに屈して神の御心に反する罪を犯します。「罪」と「死」とは、手を取り合って私たちを滅びに追いやっているのです。それに対して、罪のないイエスがサタンに負けるかのように死に追いやられたとき、罪のない方を殺したサタンは、反対にその罪人に対する「権威」を奪われることになりました。そして、今、私たちは死の脅しに屈す必要がなくなったという意味で、「サタンに勝利している」のです (ヘブル2:14、15)。
十字架は、「死の力」と「いのちの力」との激しい霊的な戦いの場でした。しかし、イエスは十字架の苦しみに耐えることによって、「死の力」に勝利しました。死の力に対する勝利、剣の脅しに対する勝利こそが、真の平和を実現できるという意味での「勝利」なのです。
そして、人を力で屈服させる代わりに、愛によって人々の心を柔和にし、そこに愛の交わりを生み出すというのがキリストの勝利でした。
以下の歌詞をともに味わってみましょう
Ⅱ讃美歌100 キリストは死につながれ
Christ lag in Todesbanden
- キリスト死にたもうわれらの罪負い 主はよみがえりていのちをたまいぬ
喜びあふれ、御神をたたえ 声上ぐわれらも ハレルヤ - いまだに死のとげ たれも折るを得じ われらの罪こそ 死の支配 招く
脅しの力 襲いかかりぬ とらわれ人らよ ハレルヤ - 神の子キリスト 死のさばきを受く 死の力もはや われらに及ばず
残るはすでに、力なき影 とげ今 折れたり ハレルヤ - くすしき戦い 死といのちにあり いのちは勝ちを得 死を呑み尽くしぬ
罪なき死こそ死の力砕く 死は死を呑み足り ハレルヤ