イザヤ66章1〜14節「父性的であるとともに母性的である神の愛」

2024年3月17日

イザヤ66章10–14節は、キリスト教に対する偏見を決定的に砕く預言のようにも思えます。母親が大好きな僕は、「あなたがたは乳を飲み、脇に抱かれ、膝の上でかわいがられる」という「新しいエルサレム」で実現する「救い」の描写に、何とも言えない平安(シャローム)を感じます。

河合隼雄(心理学者)は「母性の原理は『包含する』機能によって示される……母親は子どもが勝手に母の膝下を離れることを許さない……それに対して、父性原理は『切断する』機能にその特性を示す……父性原理は強いものをつくりあげてゆく建設的な面と、また逆に切断の力が強すぎて破壊にいたる面と、両面をそなえている」と、母性と父性の興味深い分析をしています。

この分析自体は本当に説得力があります。母性原理が強い日本でどうして、個人の自由な発想や個性的な技術革新の成長の芽が摘まれがちなのかがよくわかりました。ただそこで河合は、神との契約を軸に救済を描くキリスト教は父性原理の宗教である一方、日本の菩薩信仰などは徹底的に母性的な宗教であると論じています(「母性社会日本の病理」)。

しかし、聖書に啓示された神は、父性と母性のバランスを保って私たちを導く、天地万物の創造主であられるのです。

1.「それで、わたしも彼らを厳しく扱うことを選んだ。またわたしは彼らに恐怖をもたらす」

66章1節で「主 (ヤハウェ) は言われる」から始まり、「天はわたしの王座、地はわたしの足台。これは何なのか(どこにあるのか)、わたしのために建てる家とは。これは何なのか(どこにあるのか)、わたしの安息の場とは。これらすべては、わたしの手が造った。これらすべては、そうして成った(存在するのだ)——主 (ヤハウェ) のことば」と記されます。

これは当時のイスラエルの民が、まるで自分たちの力で神の家を建て、神に恩を売り、神の好意を勝ち得ることができると信じている偽善的な礼拝の姿勢を非難したものです。

しかし主(ヤハウェ)にとっての「安息の場」とは、黄金の建造物というよりは、神を恐れる人々の交わりのただ中に他なりません。そのことを主は、「わたしが目を留める者、それは、へりくだって(貧しく)、打たれた(砕かれた)霊、わたしのことばにおののく者だ」(66:2) と表現されます。

ダビデも、かつて神から見捨てられたと感じながらも、「あなたは、しかし、聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとされる方です」(詩篇22:3私訳) と告白しました。また、自分の罪深さを認めながらも、神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれ、打ちひしがれた心、神よ、あなたはそれを蔑まれません」(詩篇51:17私訳) と告白していました。

それに対し、イスラエルの自己満足的で偽善的な礼拝の姿が、「牛を屠(ほふ)る者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬の首を折る者。穀物のささげ物を献げる者は、豚の血を(献げる者)。乳香を記念とする者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分の道を選び、その心は忌むべき物を喜んだ」(66:3) として描かれます。

彼らは主の好意を得ようとさまざまな犠牲を払っているのですが、それらはすべて的外れで、実際には、主の忌み嫌われることを平気で行っているというのです。

そして、彼ら自身が偽善的な礼拝で主の怒りを招いたことに対し主(ヤハウェ)は、「それで、このわたしも彼らを厳しく扱う(虐待する)ことを選んだ。またわたしは彼らに恐怖をもたらす。それは、わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目にとっての悪を行い、わたしの喜ばないことを彼らが選んだからだ」(4節) と応答されると記されます。

ここでは、「それで、このわたしも……選んだ」という主(ヤハウェ)ご自身の意思が強調されますが、これは同時に「彼らが選んだ」ことへの応答でもあります。残念ながら、人は自分が創造主に対して「選んだ」態度が、自分にとって非常に悪い結果をもたらすと身に染みて体験するのでなければ自分の態度を改めようとしないからです。

しかも、ここで求められていることは難しいことではありません。それは、神の呼びかけに「答え」、語りかけを「聞き」、創造主の「目に」何が喜ばれるかを思い巡らし、創造主が「喜ばれる」行動を取るということに他なりません。

なおイザヤを初めとする真の預言者たちは、人々の偽善的な礼拝を指摘することで当時の支配者たちの迫害を受けていました。その彼らに66章5節では、「主 (ヤハウェ) のことばを聞け。主のことばにおののく者たちよ」という語りかけとともに慰めが啓示されます。

そこでは、「あなたがたの同胞は言った。——彼らはあなたがたを憎み、押しのけている。それはわたしの名のゆえにだが——『主に栄光を現わさせよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう』と。 しかし、彼らは恥を見る」と記されます。

真の預言者に敵対する勢力は、「主 (ヤハウェ) に栄光を現させよ……」などと、目に見える結果を要求しました。

すでに5章19節でもイスラエルの宗教指導者たちの冒涜的な主張が、「イスラエルの聖なる方のご計画が近づいて、成就すればよい。それを知りたい」と記されていました。彼らは主の厳しいさばきを預言するイザヤなどの預言がなかなか成就しないことを嘲っていましたが、彼らはそのようにすることでかえって主のさばきを呼び寄せていたのです。

私たちも神のみことばが実現しないことに落胆を味わい、また、周りの人も、「おまえの神は、おまえを幸せにできないのか……」などと嘲るかもしれません。

しかし、それに対して「彼らは恥を見る」という主の復讐が一瞬のうちに実現するというのです (66:5)。そして、その圧倒的な主の復讐が、「都からの騒ぎの声だ!宮からの声だ!敵に報復しておられる主 (ヤハウェ) の声だ!(6節) と描かれます。

預言者たちは、神の都エルサレムが永遠に安泰と思うことが正しい主(ヤハウェ)への信仰かのように思っていましたが、ここでは主ご自身がエルサレムの「敵」となり、「報復する」と預言されます。しかも、そのために異教徒のバビロン帝国を用いるなどと示唆されているのです。

ここには主の厳しいさばきが宣告され、それが実現する際の激しさが描かれます。健全な父親は子どもに自主的な「選択」をさせると同時に、その選択の結果の責任を負わせます。それは子どもにとって一見、厳しすぎるように見えるかもしれませんが、そこには子どもの成長を願う愛があります。

バビロン捕囚という苦難を通して練られたイスラエルの民の信仰が無ければ、現在のキリスト教世界は生まれませんでした。その意味で聖書の神のさばきの背後には、人間の成長を願う、燃えるような愛があります。

2.「地は一日の苦しみで産み出されようか。国民は一瞬にして生まれようか」

ところが66章7節からは、そのようにエルサレムに敵対された主(ヤハウェ)ご自身が、一瞬のうちにそこに「祝福」を実現できるという約束が、「産みの苦しみをする前に、彼女は産む。陣痛が来る前に、男の子を産み落とす」と描かれます。

アダムの罪以来、エデンの園の外では女の子孫に「あなたは苦しんで子を産む」(創世記3:16) という「定め」がありましたが、それが取り去られ、園の祝福が再現されるというのです。

しかも「男の子を産み落とす」とは、さばきと共に現れる「救い主」の登場の預言と理解できます。

黙示録12章1–5節では、栄光に包まれた一人の女が苦しみながら子を産もうとする姿と、竜であるサタンが生まれた「子を食べてしまおう」とその女の前に立つという危機的な情景が描かれます。

ただそこで、驚くほど簡潔に、女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた」と記されます。

その後、竜は天での戦いに敗れ、地に落とされますが、自分の支配下のものを地に集め、神の聖徒を迫害します。しかし、やがて天から「救い主」が現れ、竜の勢力を滅ぼし、この地に平和を実現するというストーリーが描かれます。

とにかく、その終わりまでの時間はとてつもなく長いようで、驚くほど短いものです。どちらにしても、救い主のこの地での支配はやがて明らかになるという全体的な流れが、イザヤ預言と一致します。

8節ではそれに伴って出現する新しい世界と新しい民の誕生のようすが、だれが、このような事を聞いたか。だれが、これらの事を見たか。地は一日の苦しみで産み出されようか。国民は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは産みの苦しみと同時に、子らを産む」と驚きをもって描かれます。

イスラエルはこれからバビロン帝国の軍隊によって踏みにじられようとしていますが、実は、そこから新しい創造が始まるというのです。エルサレムを滅ぼしたバビロン帝国は50年も経たないうちにペルシアに滅ぼされ、イスラエルの民のエルサレム帰還が許されます。それを実現する者は45章1節で「油注がれた者キュロス」と預言されていました。それは「だれ」も「聞いたことも」「見たこともない」不思議でした。そこから、現代につながる旧約聖書の民が誕生します。

その後、時間を経てエルサレムはローマ軍に支配されますが、そこで救い主は十字架で死ぬことで「死の力」を持つサタンを無力化することになります (ヘブル2:14)。

「シオンは産みの苦しみと同時に、子らを産む」とは、そのような死の脅しに屈することのない新しい神の民の誕生を預言していると言えましょう。とにかく、「苦しみ」とともに、「新しい創造」が見られるのです。

さらに9節では、それが確実に成就することが、「わたしが胎を開きながら、産ませないだろうか——主 (ヤハウェ) は言われる——わたしは、産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか——あなたの神は仰せられる」と主のことばで保障されます。

これは37章3節で、エルサレムがアッシリア軍に攻め滅ぼされようとしているときに、ヒゼキヤ王が「今日は、苦難と懲らしめと屈辱の日です。子どもが生まれようとしているのに、それを生み出す力がないからです」と嘆いていたことばと対照的です。

それは、エルサレムが滅亡すると思われた直後に、ヒゼキヤの叫びに応答するように、「主の御使いがアッシリアの陣営で十八万五千人を殺した」(37:36) という、主にある新しい誕生を描いた預言と言えましょう。

私たちの目に、すべての希望が断たれ、この世界は滅亡に向かっていると恐れる瞬間に、「新しい創造」が始まるのです。

65章17–19節で、「それは、見よ、新しい天と新しい地をわたしが創造するからだ。先のことは思い出されず、心に上ることもない。むしろ、いついつまでも楽しみ喜べ、このわたしが創造するものを。それは、見よ。エルサレムをわたしが創造して喜びとし、その民を(創造して)楽しみとするからだ」と描かれていましたが、そのような「新しい創造」が、今キリストにあって起きています。

そのことを使徒パウロは、「だれでもキリストのうちにあるなら、そこには新しい創造があります。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17脚注訳) と記しています。

そこでは、最終的に実現する「新しい天と新しい地」また「新しいエルサレム」が、キリストのうちに生かされる者にとっては、既に実現が保障されており、私たちはそれが既に実現したかのように希望をもって生きることができるのです。

先の26章16、19節でも、「主 (ヤハウェ) よ。苦難の時に彼らはあなたを求め、あなたが懲らしめられたとき、彼らはうめき声をあげました」と描かれながら、その直後にあなたの死人は生き返ります。私の屍は、よみがえります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ。まことに、あなたの露は光の露。地は死人の霊を生き返らせます」と、主にある約束が記されています。

「初めに神が天と地を創造された」(創世記1:1) と記されますが、宇宙の誕生も地球の誕生も一瞬の出来事でした。同じように私たちの復活も新しい天と新しい地」の創造も、一瞬のうちに起きます。

そのことを使徒パウロは、「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(Ⅰコリント15:51、52) と記しました。これこそ私たちが知るべき「奥義」に他なりません。

「新しい天と新しい地の創造」と私たちの身体の復活を思い浮かべながら生きるのが信仰者の歩みです。それはイエスの模範が、「この方は、目の前に置かれた喜びのゆえに、十字架を耐え忍びました」(ヘブル12:2私訳) と描かれている通りです。

多くの人は過去の後悔と未来の不安に押しつぶされそうになりながら現在を楽しむことができません。しかし、過去は過ぎ去り、未来のことは分かりません。ここにある時間は現在と永遠であり、永遠の視点から今この時を見るのが信仰者の歩みです。

3.「母に慰められる者のように、このわたしは、あなたがたを慰める。」

66章10、11節ではエルサレムに訪れる祝福が、喜び祝え(喜べ)エルサレムとともに。喜べ(楽しめ)彼女のことを、すべて彼女を愛する者よ。楽しみ楽しめ(喜び喜べ)彼女とともに、すべて彼女のために悲しむ者よ。それは、彼女の慰めの乳房からあなたが飲んで飽き足りるためだ。それは、その栄光の豊かなところから吸って喜び(快楽)を得るためだ」と劇的に描かれます。

ここでは「喜び」に関しての四つの異なったヘブル語が用いられており、それが「エルサレムを愛する者」また「エルサレムのために悲しむ者」に訴えられます。それはエルサレムが一時的に廃墟とされることが、エルサレムの再生へとつながるからです。それは日本の第二次大戦での決定的な敗戦が、基本的人権を保障した新しい日本の誕生につながったことに似ています。

しかしここには、さらにはるかに大きなエルサレムの再生の希望が描かれています。それがここでは、エルサレムの「慰めの乳房から飲んで飽き足りるため」とか「栄光の豊かなところから吸って喜び(快楽)を得るため」という、幼子の慰めに満ちた満足として描かれます。

最終的な「救い」が、幼子にとっての母親の乳房として描かれるのは何とも不思議です。『甘えの構造』という世界的な名著を記した土居健郎は、「甘え」を「乳児が母親に密着することを求めること」と記しています。

そこでしばしば、大人になっても「甘ったれ」な人は、幼児期に十分に母親に甘えることができなかったからとも言われます。僕の場合は、母は僕を産んですぐに春の農作業に忙しくなりました。だからこそ、母親のことが大好きでありながら、甘え欲求を満たされない寂しさを味わってきたような気がします。

どちらにしてもこの箇所では、母親の胸に抱かれて微笑みながら休んでいる幼児の気持ちを想像し、そこに憧れることが許されるというのは何とも心が安らぐ表現です。私たちは大人になるにしたがって、「甘える」ことを否定されますが、人の心の奥底にある「甘え」の欲求が完全に満たされる世界が「新しいエルサレム」として描かれています。

「甘え」は英語にもドイツ語にも訳せない言葉だと言われますが、霊性の神学のパイオニアと呼ばれるジェームス・フーストンは個人主義の西洋文化に関して、「私たちの自我(エゴ)文化に対して「甘え」という薬が適度に処方されることが文化的に有効であると思われます。それはアメリカ文化が、自律的な自己、自己膨張する自己、肯定的で競争的な自己、契約的でリーダーシップを持つ自己を推進し、さらには、クレジットカードを持ってショッピングモールに集まる消費者の集まりに見られるような空虚な自己さえも、自己実現のカルトとともに推進してきたからです」と記しています。

「甘え」の欲求が適度に満たされることを大切にする日本文化の良さを再発見しても良いのでしょう。

66章12節では、「それは主 (ヤハウェ) はこう言われるからだ」という始まりで、来るべきエルサレムの姿が「見よ。わたしは川のような平和 (シャローム:繁栄) を彼女に与えよう、あふれる流れのように国々の栄光を。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、このわたしは、あなたがたを慰める。エルサレムであなたがたは慰められる(66:12、13) と美しく表現されます。

ここではまず、主(ヤハウェ)が父なる神として「エルサレムに」、「川のような平和(繁栄)」を与え、世界中の「栄光(富)」を「あふれる」ように流し込むと約束されます。その上で、「神の民」に与えられる祝福が、母親のふところで慰められる子どもとして表現されるのは興味深いことです。

しかもここには「慰める」ということばが三度も繰り返されます。これは「深く呼吸する」という意味があり、「悲しみ」への共感を表し、母性的な愛を表すことばとも言えましょう。

エルサレムには力強い父として、またそこに住む民には母のような親密な愛を注いで、私たちの心の奥底にある「甘え」の欲求を満たしてくださると描かれています。

そして14節では、「あなたがたはこれを見て、心が楽しみ、その骨は若草のように生き返る (共同訳「萌え出でる」)。主 (ヤハウェ) の御手は、そのしもべたちに知られる。その憤りは敵たちに」と記されます。

この書では、主(ヤハウェ)の圧倒的な「あわれみ」による「救い」と、主の「憤り」による「さばき」が交互に描かれています。

なお、「イスラエル」とは、ヤコブに神が与えた新しい名前ですが、ヤコブは決して神のあわれみを受けるのにふさわしい人ではありませんでした。彼は兄のエサウを二度もだまして長子の権利を自分のものにしました。しかし、神はそんなヤコブをあわれんで、彼からイスラエルの十二部族を生まれさせ、神の民を創造してくださったのです。すべてが神の一方的なあわれみに基づいています。

信仰生活とは、この神の圧倒的な約束にいつも思いを巡らしながら生きることに他なりません。残念ながら多くの人々がせっかく信仰に導かれながら、どこかで失望を味わい、神と教会から離れてしまうのは、神が約束してくださった祝福の世界のことをリアルに思い巡らすことができなかった結果なのかもしれません。

しかも「甘え」のような欲求も満たされる希望があるというのは何という幸いなことでしょう。


結論

五世紀のエジプトでのある修道院でのことです。そこの指導者のポイメン神父に、長老の幾人かが行って、「兄弟たちが時課祈祷や徹夜祈祷のとき居眠りしているのを見たら、目を覚ますように揺り起こすべきだとお考えですか」と尋ねました。それに対し彼は、「私ならば、兄弟が居眠りをしているのを見たら、彼の頭を膝の上に置いて休ませる」と答えたとのことです。そのような答えは、この箇所から生まれているように思います。

幼児が母親の「膝の上でかわいがられ」、安心するように、神は私たちを慰めてくださるというのがイザヤ書の結論として描かれます。

この世的に考えると、「主のことばにおののく」という観点と礼拝での居眠りは、決して相容れないものでしょう。しかし、疲れやその他の理由を抱えながら、なおも、礼拝に来られる方は、神の目には「主のことばにおののく者」に他なりません。

聖書の神は、私たちにとっての権威に満ちた父であるとともに、慈愛に満ちた母のような方です。そして、このような新しい神のイメージをいただくことによって「あなたがたの骨は若草のように生き返る」と約束されるのです。