私たちプロテスタント教会の流れの中にある人は、「人は善い行いによってではなく、キリストへの信仰によって、神の前で義(正しい)と認められる」という教えを信仰の核心としています。その教えが「信仰義認」と呼ばれます。
ただ、その道を開いたマルティン・ルターは、「彼は善い行いの大切さを否定する偽教師である」という非難を受けました。特に現代のロシア正教などでは、「プロテスタント信仰は同性愛のような不道徳を推奨する堕落した教え」と見られることがあります。
しかしルターが強調したのは、「最高の善い行いとは、神が遣わしてくださった救い主イエスを信じることであり、そこからすべての善い行いが生まれる」と言ったことに他なりません。
ただそこで、キリストへの信仰が、最高の善い働きであるならば、今度は、どの程度の信仰を持っていれば神の前に義と認められるのかという、人や自分の信仰を評価するという落とし穴にはまります。実際、教会から離れる人の中に、「自分のような弱い信仰しか持てない者は、ここに居場所がない」と言って立ち去る方がいます。
しかし、今日のところに、「不敬虔な者を義と認める方」への信仰が説かれています。つまり、不信仰な者に信仰を生み出すのが、神の働きなのです。
しばしば、「迫害を受けたら、私はすぐに信仰を失うに違いない」と言う方がいます。しかし、聖書に記されたストーリーは、不信仰な者に信仰を生み出し、迫害に耐える力を生み出す神のみわざなのです。
自分の信仰を低く評価するほど愚かな行為はありません。それは御子イエスと聖霊による神のみわざを軽蔑することかもしれません。あなたが最初から、創造主への信仰を持てるぐらいだったら、神の御子が私たちと同じ人間の姿になり、十字架に架かる必要などはありませんでした。
1.「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」
3章31節では、「それでは私たちは信仰を通して律法を無効にするのでしょうか。決してそうではありません。むしろ律法を確立することになるのです」と記されていました。それはパウロの宣教が、ユダヤ人が命がけで守って来た食物律法や安息日律法を、「無効」と宣言するように理解されたからです。
しかし、それは神が、罪人のただ中に住んで、この世界を内側から造り変えるという律法本来の目的を果たして、「律法を確立する」ことになるという意味でした。
それで、パウロは律法が与えられる前のアブラハムの信仰に立ち返ります。それは「信仰を通して……律法を確立する」ことができると明らかにするためです。
そのことが4章1–3節では、「それでは、何を見出したと言えるのでしょう、肉による私たちの父祖アブラハムに関して。それは、もしアブラハムが働き(行い、功績)によって義とされたのであれば、彼は誇れることを持っています。しかし、神の御前ではそうではありません。
では聖書は何と言っていますか。『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた(みなされた)』とあります」と記されます。
ここで引用されたアブラハムのストーリーは、創世記15章に描かれています。彼はその前、自分の甥のロトが北の四人の王の連合軍に拉致されたとき、神に信頼して劇的な勝利を遂げ、獲得したものの十分の一を、「いと高き神の祭司」と呼ばれたメルキゼデクに献げていました (創世記14:18–20)。
そこで主(ヤハウェ)が彼に現れ、「アブラム、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい」と言ってくださいました (同15:1)。
しかしそこで彼は、「主 (アドナイ) ヤハウェよ。何をあなたは私に下さるのですか。この私は子がないまま死のうとしています。私の家の相続人はダマスコのエリエゼルなのでしょうか……ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう)」(同15:2、3) と、神に切実に訴えています。
アブラハムは、主にあって圧倒的な敵に勝つことができたと思っていますが、自分に後継ぎの子が生まれないことを、主(ヤハウェ)の責任であると言っているのです。なぜなら、主(ヤハウェ)は、アブラハムがカナンの地に住むようになったとき、「あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、あなたの子孫に永久に与えるからだ。わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす」(創世記13:15、16) と既に約束しておられたのに、一向に、子が与えられる見通しが立たなかったからです。
ただそこで、「すると見よ、主 (ヤハウェ) のことばが彼に臨んだ。『その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれて来る者が、あなたの跡を継がなければならない』」(同15:4) と言われたことが描かれます。
さらにご自身の約束をさらに明確に示すため、「主 (ヤハウェ) は、彼を外に連れ出して言われた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。』 さらに言われた。『あなたの子孫は、このようになる』」というのです。
その直後に記されたことばが、「アブラムは主 (ヤハウェ) を信じた。それで、それが彼の義と認められた」というものです (同15:5、6)。このことばがそのままここに引用されています。
この文脈で明らかなように、アブラハムの信仰とは、「神の約束が信じられない」と訴えたことに対し、主が彼に空の星を見させたことへの応答に過ぎません。
何か、アブラハムの側に誇れる信仰があったというのではなく、信じることができなくなっていた彼に語りかけてくださった神の真実に対する応答に過ぎません。それは、「たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」(ローマ3:4) と記されていたとおりです。
聖書が描く人の「信仰」は、神の「真実」に対する応答に他なりません。「信仰」を意味するギリシャ語のピスティスは「真実さ、信頼性」(英語の faithfullness, reliability)とも訳されます。私たちの信仰とは、神が信頼に値する方であることを認めることに他なりません(申命記7:9参照)。
たとえば、「イワシの頭も信心から」といわれるとき、そこでは信じる対象よりも、人間の信心の力が物事に意味を生み出すという思いが込められているのかもしれません。
しかし、聖書の「信仰」とは、創造主または救い主の「真実さ」から生まれる私たちの「応答」です。「信仰」は、人間が自分で生み出すものではないのです。
とにかく4章1–3節の核心は、アブラハムは「誇れること」を「持ってはいなかった」ということです。それは彼の「信仰」に関しても同じです。
「アブラハムは神を信じた」とは、創世記の文脈からすると、彼が神の約束に信頼できなくなっていたそのときに、彼の信仰を回復してくださった神を信じたということに他なりません。
ここの要点は、アブラハムの信仰のすばらしさではなく、アブラハムの疑問に「真実」に応答し、アブラハムの中に、神の約束を信じる思いを与えてくださった神の「真実」にあるのです。
2.「不敬虔な者を義とされる方を信じる人には、その人の信仰が義と認められ(みなされ)ます」
4章4、5節は、「ところで、働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義とされる方を信じる人には、その人の信仰が義と認められ(みなされ)ます」と記されています。
なおここでの「不敬虔な者」とは、神の厳しいさばきを受けるのにふさわしい者たちを指します。それは先に「あらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている」(1:18) と記されていた通りです。
たとえば、「ソドムとゴモラの町」の「破滅」は、「不敬虔な者たちに起こることの実例」と記されていました (Ⅱペテロ2:6)。また「今ある天と地は……火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです」(同3:7) と記されています。
つまり、「不敬虔な者を義とする」とは、神がご自身のさばきの基準を捨てるような圧倒的な恵みを指す表現です。それは不信仰に陥ったアブラハムに信仰を回復させた神のあわれみと同じです。
ところがしばしば、「信仰によって義と認めら(みなさ)れる」という概念が、まるで「信仰」という私たちの功績により、またその信仰と引き換えに、「神の義」を受けるというように誤解されることがないでしょうか。
それでパウロは引き続き、6–8節で「同じようにダビデも、働き(行い、功績)と関わりなく、神が義とお認めになる(みなされる)人の幸い(祝福)を、このように言っています
『幸いなことよ。不法を赦され、罪をおおわれた人たち。
幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人(罪を数え上げられない人)は』」と記します。
これは、ダビデが忠実な家来ウリヤの妻バテシェバを奪って、ウリヤをだまし討ちにした後に、罪の告白をして、神の赦しを得られたときに作られた賛歌の最初のことばです。
なおその詩篇では、ダビデが良心の呵責に苦しんで、自分の方から罪を告白したかのような印象が持たれがちですが、実際は、それとは違いました。
Ⅱサムエル11章26節以降の記事によると、バテシェバがウリヤの死を悲しんで、喪が明けると、ダビデは未亡人となった彼女を妻に迎え入れたと記されています。これはダビデが未亡人に優しく接する温情溢れる王であるかのように振舞っている偽善者の姿です。
そのような鉄面皮な彼の偽善に心を痛めた神が、預言者ナタンを遣わして、その罪を指摘し、彼を悔い改めに導いたと描かれています。
確かにダビデは自分の罪を黙っていたときには身体全体が痛み苦しんだのでしょうが (詩篇32:3、4)、「私の背きを主 (ヤハウェ) に告白しよう」(詩篇32:5) と心から思ったのは、預言者ナタンに罪を指摘された後でした。
実際、詩篇32篇では、罪の告白の直後に、「すると あなたは私の罪のとがめを赦してくださいました」(5節) と記されますが、それはサムエル記第二12章では、ナタンからダビデの家全体にわざわいが下され、妻たちが白昼に犯されることになるという、厳しい「のろい」の宣告を受けた後でのできごとです。
そのとき恐れにとらわれたダビデは、「私は主 (ヤハウェ) の前に罪ある者です」と言った後に、ナタンから「主 (ヤハウェ) もあなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない」と罪の赦しを宣告されたと記されます (13節)。
とにかく、ダビデが受けた「罪の赦し」は、彼の「悔い改め」に対する神からの報酬では決してありません。それはすべて、ダビデを王として立てられた主ご自身からの一方的な恵みとあわれみに他なりません。
つまり、ローマ人への手紙4章の核心は、「行いではなく、信仰によって、義と認められた」という、行いと信仰の対比ではありません。ここでは、アブラハムやダビデの側に何らかの功績と認められるような「働き(行い)」があったのではなく、神の一方的な恵みを受け入れたという、徹底的に受動的な信仰が、義とみなされたと記されています。
旧約は行いを説き、新約は信仰を説くというような説明は根本から間違っています。なぜなら、イエスご自身も言われた律法の中心とは、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という命令こそが「第一の戒め」だからです (マタイ22:37、38)。そして、「主を愛する」とは、何らかの律法の行い以前に、私たちの心の姿勢、つまり、「信仰」に他なりません。
しかもパウロが、アブラハムとダビデの例から引用した「信仰」とは、決して、彼らが自分を正当化できるような立派な信仰ではありません。そのことをパウロは不思議にも、「不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます」と記したのです。
それは、不信仰な者に、信仰を生み出してくださる神を信じるということに他なりません。「信仰のある人を義と認める」のではなく、信仰のない者に信仰を生み出してくださる神を信じるというのが「義と認められる」信仰です。
そこには、私たちの功績は何もありません。ただ、神とキリストの「真実」に身を任せることが、「義と認められる信仰」と描かれているのです。
3.「私たちの父アブラハムが無割礼であったときの信仰の足跡に従って歩む者たちのため」
4章9、10節では、「それでは、この幸い(祝福)は、割礼のある者に対してだけ(与えられるの)でしょうか。それとも割礼のない者に対しても(与えられる)のでしょうか。私たちは、『アブラハムには、その信仰が義と認められた(みなされた)』と言っていますが、どのようにして、そうみなされたのでしょう。 割礼の中にあって(割礼を受けてから)のことですか、それとも、無割礼の中にあって(割礼を受けていないとき)のことでしょうか。それは、割礼の中にあってではなく、無割礼にあってのことです」と記されています。
これも創世記16、17章を振り返る必要があります。アブラムの妻サライは、高齢になった自分に子が生まれることは無理であると諦めて、自分の女奴隷ハガルをアブラムに与えて、彼の子を得ようとします。アブラムもすなおにその勧めに従って、ハガルと関係を持ち、彼女は子を身ごもります。
しかし、そこでハガルは、自分の女主人を軽く見るようになり、サライもそれに腹を立てて、ハガルを家からいびり出そうとします。そのときアブラムも、この二人を和解させよともせずに、サライに「あなたの好きなようにしなさい」(16:6) と言って、ハガルが荒野をさまよわざるを得ないようにします。
ところが、ハガルが渇きで死を覚悟せざるを得ないような状態になったところで、主(ヤハウェ)の使いがハガルに現れ、女主人のサライのもとに帰って、「身を低くして」彼女に仕え、子を産むように勧めます (16:9)。その結果、ハガルはアブラムにイシュマエルを産むことができました (16:15)。
それは彼が86歳のときでした(16:16)。不思議なのは、それから13年間のアブラムの歩みがまったく飛ばされた後になって、「アブラムが九十九歳のとき、主 (ヤハウェ) はアブラムに現れ……『わたしは全能の神(エル・シャダイ)である』と言われます」(17:1) と描かれることです。
そして主は、彼の名を「多くの国民の父」を意味する「アブラハム」に変え、ご自身の契約を思い起こさせる、その「しるし」として、「あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる」という「割礼」を命じました (17:11)。
そしてサライの名も「サラ」と改めさせ、ソドムとゴモラへの神の厳しいさばきを知らせた上で、21章3節になってイサクの誕生が描かれます。さらにイサクの割礼と乳離れを経て、ハガルとイシュマエルが追い出されるという話に繋がります。
それが示しているのは、先のイシュマエルの誕生後の13年間の空白期間とは、もしアブラハムやサラが、ハガルと通して子をもうけようと思わなかったら起きなかった空白だということが分かります。彼ら二人が主の約束に信頼し続けていたとしたら、イサクの誕生がもっと早くなっていた可能性があったのかもしれないのです。
とにかく主は13年間の沈黙の後、アブラムに現れて、新しい名を与え、割礼を命じ、その後イサクの誕生を告げました。
つまり、割礼は、主の約束を見失っていたアブラハムとその子孫に主の契約を思い起こさせるための儀式だったとも言えます。
しかも、アブラハムが無割礼の時代にその「信仰が義と認められた」ことは、異邦人が無割礼のままで、神の前に義と認められる根拠であることが明らかになります。
そのことが11、12節では、「彼は割礼というしるしを受けました。それは信仰によって義とされたことの証印であり、それは無割礼(割礼を受けていない)のときのものでした。 それは彼がすべての無割礼の者の父となるためであり、それによって彼らも義とみなされるためです。
またそれは彼が割礼の父となるためでもあります。それは割礼を受けている者ばかりか、私たちの父アブラハムが無割礼であった(割礼を受けていない)ときの信仰の足跡に従って歩む者たちのためでもあります」と記されています。
ここで「割礼」とは、「信仰によって義とされたことの証印」また「しるし」であると言われます。つまり、信仰義認があった後で「割礼」という「しるし」が与えられ、また同時にその「割礼」とは、アブラハム契約を思い起こさせるための、つまり、信仰を生み出すための「しるし」でもありました。
ただし「信仰」の応答があって「割礼」が生まれたのであり、「割礼」によって彼が「信仰の父」になったわけではありません。
アブラハムは確かに、最初に割礼を命じられた「割礼の父」ではあるのですが、ただそれはアブラハムがまだ無割礼のときであったので、彼は「無割礼の者の父」でもあるのです。
簡単に言うと、異邦人は割礼を受けるという「律法の行い」によってではなく、アブラハムの信仰に倣うことによって神の民とされるのです。そのことが、「私たちの父アブラハムが無割礼であったときの信仰の足跡に従って歩む者たち」と描かれます。
結論
善い行いではなく、「信仰によって義と認められた」人の模範として、アブラハムやダビデの例が出されますが、ここで引用されている彼らの姿は、神の約束を信じられなくなった、また神の教えを自分から忘れようとした姿に他なりません。
たとえば日本では、小さい時から「失敗してはいけない」という強迫観念が植えつけられ、人を神経症に駆り立てるような雰囲気が満ちています。そして神経症の落とし穴とは、「心の目が自分に向かい過ぎること」に他なりません。
しかし、神は私たちの目を、ご自身が創造した大宇宙に向けさせ、また私たちの目を、罪人を赦し、立ち直させるご自身のあわれみのみわざに向けさせます。
ある意味で、「目に見えない創造主を信じられない」というのは、この世的には当然の心理状態とも言えます。その方に信頼し、人と違った歩みができるということ自体が、この世の枠から自由にされる第一歩かもしれません。
そして、いつも周囲の目が気になって自由に生きられないと思う方、また、いつも人と自分を比べて自分のユニークさや感性を信じられないというような方にとっては、「創造主を信じることで、もっと自分は自由に生きられるのでは……」と思えることは、大切な人生の転換点ではないでしょうか。
何よりも大切なのは、「信じてみたい……」という自分の中に生まれた思いを優しく受けとめ、「信じさせてください」と願い出すことです。
自分の息子の癒しをイエスに求めながら、「おできになるなら……お助けください」と言った父親に、イエスは、「信じる者にはどんなことでもできるのです」とお答えになりました。「信仰」は、すべての善い働きを生み出す原動力とも言えます。
それに対しこの父親は、「信じます。不信仰な私をお助けください」と応答しました (マルコ9:24)。実は、このような祈りこそが、信仰の出発点です。なぜなら、私たちの神は、不信仰な者の心に信仰を生み出し、その信仰を喜んでくださる方だからです。