イザヤ63章18節~65章16節「アーメン(真実)の神によって祝福される歩み」

2024年2月18日

世の人々にとってのクリスチャン生活には、「天国に憧れながら、この世の不条理を忍び、悔しいことがあっても微笑みながら生きる」というイメージがあるかもしれません。しかし、そんな生き方では、息が詰まってしまいます。

義兄が私たちの信仰のあり方を尊重しながら、「お前たちの所は、アーメンだからな……」と言ってくれますが、今日の箇所には、「アーメン(真実)の神」という不思議な表現があります。それは、創造主にはご自身のことばと現実のみわざの間にいかなるギャップもないということを意味します。

日本人の一般的な考え方は、どの神を拝んでも同じで、その人の信仰心自体が、誠実な生き方の源泉になるというものです。しかし聖書の神は、不信仰な者に真実な信仰を生み出してくださる創造主です。

そのことをイザヤは、「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です」と表現します。私たちが自分の内側にある偽善的な暗闇を見るなら、どうして自分の信仰を人に紹介することなどできようかと思います。しかし、私たちは自分の生き方ではなく、私たちを造り変えてくださる陶器師としての神を紹介するのです。

しかも、信仰生活とは、天国への憧れを生きるという以前に、この地での生活が、「のろい」から「祝福」へと変えられるものです。

「アーメン(真実)の神」によって祝福される歩みの原点に立ち返ってみましょう。

1.「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると……」

預言者イザヤの時代は、イスラエルの国が繁栄から滅亡に向かう転換点の時代でした。人々が自分たちの将来をなお楽観的に考えている時代に、神はイザヤに約150年後に実現する悲劇の幻を見せました。

そのことが、「あなたの聖なる民がこの地を少しの間受け継いだ後(所有して間もなく)、私たちの敵はあなたの聖所を踏みつけました。私たちはとこしえからあなたに支配されたことも、御名で呼ばれたこともない者のようになりました(ようです)」(63:18、19) と記されます。

これは、イスラエルの民が本来、神の聖なる民であり、聖所であるエルサレム神殿は彼らのために建てられていたのに、そこがあまりにもあっけなく廃墟とされ、神の民」が他の小民族と同じように大国に踏みつけられているという悲劇を描いたものです。

私たちもときに、クリスチャンとされている祝福を完全に見失ってしまうようなことがあるかも知れません。

64章の初めでは、「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、御顔のゆえに(御前で)山々は揺れ動きます。火が柴に燃え尽き、火が水を沸き立たせるように、御名はあなたの敵に知られ、御顔のゆえに(御前で)国々は震えます。予期しない恐ろしいことを行われるとき、あなたは降りて来られ、御顔のゆえに(御前で)山々は揺れ動きます」(64:1–3) と、三度にわたる「御顔のゆえに(御前で)」という表現で、主 (ヤハウェ) の御顔が迫って来ることの恐怖が描かれます。

これと似た表現が詩篇18篇にありますが、そこでは、ダビデがサウル王から命を狙われ逃亡し続けているときに、神ご自身がダビデを救うため圧倒的な力をもって降りてきてくださる様子が、「主は 天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして」(9節) と描かれていました。

つまり、人間の目にはどのように強力な敵であっても、神の前には無に等しく、神はご自身のみこころひとつで、天から降りてきて、神の民を救い出すことができるというのです。

イスラエルは、自分たちを虐げた大国の上におられ、すべてを支配する全能の神の救いを待ち望むべきなのです。

そのことが、「とこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。あなた以外の神が、自分を待ち望む者のためにこのようにするのを」(64:4) と告白されます。当時は、国ごとに異なった神々が礼拝されていました。

その中でイスラエルは自分たちよりも強い国の神々を求める誘惑にさらされていましたが、イザヤはこの方を「天から降りて来られる神」として描き、他の神々と比べようがないということを改めて強調します。私たちも、神が天から降りてこられるというイメージを思い浮かべるべきです。

64章5節では突然、「あなたは会ってくださいます。喜び、正義を行う者、あなたの道であなたを心に留める者たちに」という希望が告白されます。神にとっての「正義」とは、私たちがどこにおいても神のご支配を認め、神の救いを慕い求めることに他なりません。

しかし、イスラエルの民は近隣の神々の機嫌を取ることによって隣国との平和を保とうとしました。日本の会社には、新年はそろって神社参拝をする習慣を守るところもあります。それに逆らうと角が立つかもしれませんが、目の前の人を恐れて他の神々を拝むなどというのは信仰者にとって自殺行為です。

そのことが、「実にあなたは、激しく怒られました。私たちはその道で久しく罪の中にいたのです。私たちは救われるでしょうか。私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、月の物で汚れた(不潔な)衣のようです」(64:5、6) と告白されています。それはイスラエルの民が、何度も神を裏切り続けてきたことを思い起こしたものです。

なおここで「月の物で汚れた衣」という露骨な表現があるのは、レビ記などで女性の生理の期間が、神の目に「汚れ」と見られていたからです。この世の基準では自分を「」とできることでも、神がそれをどのように見られるかが問題なのです。

何が「正義」なのかは、自分がどの共同体に属しているかによって決まるという面があります。私たちは日本人である前に「神の民」です。それを忘れ、神の目に「汚れる」ことを恐れる必要があります。

別の神々の救いを求めることほどに創造主を悲しませ、自分を汚す行為はありません。イスラエルはその結果として国を失い神殿を失いました。そして、「木の葉のように枯れ、吹き上げ」られる軽い民となってしまいました (64:6b)。

しかもそれにも関わらず、イスラエルの民は、「御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません」(64:7) という状況のままに留まっているというのです。士師記はイスラエルの暗黒時代を描いたものですが、少なくとも当時の彼らは、苦しみに会うたびに主を呼び求めました。

ところがイザヤの時代には、自分たちに苦しみが迫っている中ですら、主を求めようとはしなかったというのです。つまり、私たちにとって何よりも絶望的な状況とは、主の御名を呼び求めるのをやめてしまうことではないでしょうか。

ただしイザヤはそのことを不思議にも、「それは、あなたが私たちから御顔を隠し、私たちの咎の手の中に溶かされた(咎によって、弱められた)からです(共同訳「私たちを罪の力に渡されました」)」(64:7b) と、まるでそれが神ご自身の責任であるかのように記しています。

これは、人が神に逆らい続けた結果、良心が麻痺してしまう状態を指します。パウロもローマ人への手紙の中で、「造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕え」続ける者たちに対しての神のさばきを、「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました」と描いています (1:25、26)。

これは、人が自分で自分を罪の泥沼に追いやってしまったような状態を指します。原文で「溶かされた」と言われるのは、自分で自分の行動を改める力を失ってしまった状態を指します。

2.「それでも、主 (ヤハウェ) よ。あなたはじっとこらえ、黙っていて、こんなにも私たちを苦しめるのですか」

そのような中で不思議にも64章8節で、「しかし、今、主 (ヤハウェ) よ。あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです」という信仰告白が記されます。

当時の「父」は家庭の中での絶対者でありましたが、同時に安心の源でもありました。しかも、主は全世界と私たちの創造主であられるので、ここでは当時の人々に親しみやすい粘土と陶器師の関係から、自分たちの抱える問題は主の創造のわざの結果であるかのように、ご自身の被造物に責任を持つようにと大胆に嘆願をしてゆきます。

それをもとにした祈りが、「主 (ヤハウェ) よ。どうか激しく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えていないでください。どうか今、目を留めてください、私たちがみな、あなたの民であることに」(64:8、9) というものです。

これは、救いの主導権は、私たちの心の状態以前に、陶器師である主のみこころにあるという告白です。だからこそ、主のあわれみに必至にすがることが大切なのです。

そして預言者イザヤは自分たちをやがて襲う悲惨を予見しながら、「あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。私たちの聖なる美しい宮、先祖があなたをほめたたえた所は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました」(64:10、11) と生々しく描きます。

ただその上で、そのときの主ご自身の葛藤を思い浮かべるように、「それでも、主 (ヤハウェ) よ。あなたはじっとこらえ、黙っていて、こんなにも私たちを苦しめるのですか」と問いかけます (64:12)。

主はご自身の民の悲惨を冷たく見下ろすのではなく、彼らの痛みに合わせてみこころを痛めながら、なお助けたい気持ちを「こらえ」ておられるというのです。

これとほとんど同じ表現が、63章15節でも「あなたの熱心と御力はどこにあるのでしょう。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか」と記されていました。これはルカ15章に記されていた放蕩息子の父親の気持ちを描いている表現と言えましょう。

私たちは何度失敗しても、とことん、神の豊かなあわれみに期待し、すがり、祈ることができるのです。

一方、65章1節では、主(ヤハウェ)がご自身の民イスラエルに拒絶されながら、敢えて異邦人を招く様子が、「わたしに問わなかった者たちにわたしを尋ねさせ、捜さなかった者たちにわたしを見つけさせた。わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った」と描かれます。

原文では、主ご自身が異邦人の心を動かしたと描かれています。私たちがイスラエルの神を自分の父と告白できるようになったのは、私たちが誇ることができる功績ではなく、神の一方的なあわれみによります。

一方、イスラエルの民に関しては、「わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた。自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに」(65:2) と記されます。

これをもとにパウロは、主が異邦人を招く事によってイスラエルに「ねたみを起こさせ」、最終的に「イスラエルはみな救われる」という計画を成就してくださると記します (ローマ10:20、21、11:11、26)。そこでパウロは、救いが主の一方的な選びによるものであると強調しています。

私は自分で自分の心を信じることができずに悩んでいました。ですから、「信仰によって救われる」と言われても、かえって、「自分には救われるに価する信仰はあるのか……」と悩みを深めてしまいました。しかし、信仰が神の一方的な選びによるということを知って、本当に安心することができました。

しかも、それはルターやアウグステヌスのような偉大な信仰者たちが抱いていた葛藤でもあったということもわかって、さらに安心できました。選びの教理は一部の教派の教理ではなく、聖書全体を貫く最も大切な教理です。

なおここで、イスラエルの民の偽善に満ちた礼拝の様子が、「この民は、いつもわたしの顔に(原文)逆らってわたしの怒りを引き起こしている。園の中でいけにえを献げ、れんがの上で犠牲を供え、墓地に座り、隠れた所(見張り小屋)に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れ、『そこに立っていよ。私に近寄るな。私はあなたには聖すぎるから』と言う」(65:3–5) と描かれます。

彼らはイスラエルの神を礼拝する傍らで、それと並行しながら、周辺諸国の神々の礼拝の習慣を取り入れて、自分たちの信仰が昔より発展していると誤解していました。

南王国ユダの王アハズは大国アッシリア王のご機嫌を採りながら、エルサレム神殿の大改造を行いました。彼は主(ヤハウェ)の神殿の中に、ダマスコの異教の神の祭壇に習った祭壇を作り、異教の神のためか主 (ヤハウェ)に対するものなのかわからないような混合宗教のいけにえを熱心にささげました。

彼はそれがどれだけイスラエルの神を怒らせたかを知りませんでした。これは、日本の教会でもつい65年前までは、神社参拝と共存できる日本的キリスト教なるものを誇っていたことに似ています。

彼らは主(ヤハウェ)の御こころに思いを寄せず、皮肉にも、主の目に全く汚れた者になっていながら、自分たちは聖なるもの」であると言い張っていました。

それに対し主は、「これらは、わたしの鼻への(怒りの)煙、終日燃え続ける火である」と言われます (65:5b)。「鼻」と「怒り」のヘブル語は同じなので、これは、主がご自分の嫌いな香りを鼻でかがされながら、怒りを増幅させているようすを描いています。

しかも、「見よ。これはわたしの前に書かれている」と、消すことのできない記録として積み上がっていると言われます。

それに対して主は、「わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らの懐に報復する」(65:6) と繰り返されます。しかもそこには、「おまえたちの咎と、その先祖の咎をともどもに」と、「先祖の咎」に対する「報復」までが付け加えられます。

さらに彼らの混合礼拝とそれに対する主の怒りが、「彼らは山の上で犠牲を供え、丘の上でわたしをそしった。わたしは彼らの懐に向けて、先のしわざを量る」と描かれます (65:6、7)。これは、主がご自身の民の霊的な浮気にご自身の怒りを募らせているようすを描いたものです。

3.「この地で自分を祝福する者は、まことの(真実の)神によって自分を祝福し……」

65章8節から、「主 (ヤハウェ) はこう言われる」という宣言とともに新しい展開が、「ぶどうの房の中に甘い汁があるのを見れば、『それを損なうな。その中に祝福があるから』と言う。そのように、わたしのしもべたちのために、その全部を滅ぼしはしない」と記されます。

これは、神がご自分の民を厳しく罰しながらも、民を滅ぼし尽くすことなく一部を残し、そこから新しい神の民を再創造しようとというご計画です。これをもとにパウロは、「今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます」(ローマ11:5) と告白します。

さらにそれを基にした主(ヤハウェ)のご計画が、「わたしはヤコブから子孫を生まれさせる、ユダからわたしの山々を所有する者を。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏すところとなる。わたしを求めたわたしの民にとって」(65:9、10) と記されます。

主はかつて「シャロンは荒地のようになる」(33:9) と言われました。また「アコルの谷」にはアカン一族が神の「のろい」を受け、石の山が築かれていました (ヨシュア7:24–27)。ところが今、選び残された神の民にとって、「のろい」の時代 (申命記28章) が過ぎ去り、「祝福」の時代が始まるというのです。

このことが同時代のホセア書では、夫の愛を裏切った浮気女を再生される主ご自身の意思として、「わたしは……優しく彼女に語ろう……アコルの谷を望みの門とする」(2:15) と簡潔に表現されます。

イスラエルの民にとって「アコルの谷」は神の「のろい」を受けた恐怖のシンボルでしたが、そこが希望の地へと変えられるというのです。

あなたの人生にも、思い出すだけで心が痛み、自分を恥じる記憶があるかもしれませんが、神の御手の中でのろい」の記憶が「祝福」の始まりとなり得ます。

私たちはある意味で、失敗すべくして失敗します。しかし、それに真剣に向き合うとき、そこから新しい歩みを始めることができます。

一方でそれと同時に、「しかし、おまえたち、 (ヤハウェ) を捨てる者たちよ、わたしの聖なる山を忘れる者、幸運の神(ガド)のために食卓を整える者、運命の神(メニ)のために、混ぜ合わせた酒を盛る者たちよ。わたしはおまえたちを剣に渡す。それで、おまえたちはみな、虐殺されて倒れる。なぜなら、わたしが呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目にとっての悪を行い、わたしが喜ばないことを選んだからだ」(65:11、12) と、主の招きを拒絶する者へのさばきが記されます。

カナンには「ガド」という「幸運の神」、「メニ」という「運命の神」がありましたが、それらに酒をささげる者たちは、皮肉にも彼らの願いとは反対に、「のろい」と「」を招くというのです (申命記30:19)。それこそ、「主 (ヤハウェ) を捨てる者」の悲劇です。

65章13、14節で、主は残された神の「しもべ」と、悔い改めない「おまえたち」との対比を、四対の「祝福」と「のろいの観点から、「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、おまえたちは飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、おまえたちは渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、おまえたちは恥を見る。見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって歓喜する。しかし、おまえたちは心の痛みによって叫び、霊に傷を受けて泣き叫ぶ」 (65:13、14) と劇的に描きます。

私たちはこのような表現を頭で分析する前に、声に出して味わい、この対比を全身全霊に刻み込むことが必要ではないでしょうか。

さらにその対比が、「おまえたちは自分の名をわたしの選んだ者のためにのろいとして残す。主 (アドナイ) ヤハウェは、おまえたちを殺す。しかし、自分のしもべたちをほかの名で呼ぶ」 (65:15) と描かれます。

私たちはみな自分の名を「のろい」として残すか、主からの新しい「ほかの名」で呼ばれる者となるかの分かれ道に立たされます。

神は私たちに「新しい名」を与えてくださいます。それは、鈍感な人が敏感になるとか、のろまが俊敏になるとか、愚か者が賢くなるというような、人間が思いつく変化を表す名ではありません。神があなたにまったく別の観点から新しいアイデンティティーと使命を与えてくださるという意味です。

そして、祝福の名を受ける者に関しては、その人自身の意思的な選択を強調するように、「この地で自分を祝福する者は、まことの(真実の)神によって自分を祝福し、この地で誓う者は、まことの(真実の)神によって誓う。かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ」(65:16) と約束されています。

なお「まことの(真実の)神」ということばが、原文では「アーメンの神」という不思議な表現になっています。私たちはしばしば、自分の思いと神のみこころのギャップに悩みますが、来たるべき「新しい天と新しい地」においては、私たちの祈りは、神にとっても「アーメン」と保障されるものとなります。それはこの地が神のあわれみと平和で満たされるからです。

ヘブル人への手紙11章13節では、信仰者の歩みが、「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました」(ヘブル11:13) と描かれるような憧れに生きる状態が解消され、約束されたものを目の当たりに見ることを意味します。

その恵みがすでに始まっていることがコリント第二の手紙1章20節に、「神の約束はことごとく、この方(キリスト・イエス)において『はい(然り)』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです」と記されています。

私たちが、どのようなことでも大胆に神に祈り、イエスの御名によって「アーメン」と言えることが、どれだけ大きな恵みであるかを心の底から味わうべきでしょう。

明治時代以降の日本の歩みには、常に、目指すべき他国の模範がありました。しかし、三十数年前のバブル経済の破綻以降、高齢化した収縮経済の先頭を走っています。

イザヤが活躍した時期、多くの人々が自分たちの国はまだ大丈夫だと楽観していましたが、現実は、国が滅亡に向かっていました。彼らは問題に直面するたびに、対処療法的な解決を求めました。その一つが近隣諸国の偶像礼拝を取り入れることでしたが、それはますます、国を破滅に追いやることでした。

彼らは国が滅亡して初めて、イザヤの預言の意味を理解しました。神は、ご自身の民の罪に怒りを発しながらも、ご自身のあわれみの御手を伸ばし続けておられました。

今改めて、バブル以前のような右肩上がりの成長に見られる祝福ではなく、今ここで、不安な現実を前提とした上での、創造主にある祝福を体験させていただきましょう。

今ここで、陶器師であられる神を真心から礼拝し、互いに愛し合う祝福を、神は実現してくださいます。そしてこの地での「祝福」は、「アーメンの神」からの招きのことばに、真心からアーメンと応答することから始まります。


メッセージ5つのポイント(生成AIによるまとめ)

1. 神の約束と信仰の重要性:コリント第二の手紙1章20節において、神の約束がキリスト・イエスにおいて実現されることが述べられており、信仰を通じて神に祈り、アーメンと言うことの大切さが示唆されている。

2. 歴史的教訓と現代への応用:イザヤの時代における国の滅亡とその背景にある偶像礼拝の問題が取り上げられており、歴史的な教訓を通じて現代社会における価値観や行動の重要性が示唆されている。

3. 神への真心からの礼拝:神を礼拝し、互いに愛し合うことが神の祝福を実現する道であることが述べられており、真心からの礼拝が神の御心にかなった行為であることが強調されている。

4. 神の怒りと報復:混合宗教や偶像礼拝に対する主の怒りや報復が描かれており、神の聖なる御心に背く行為がどのような結果をもたらすかが示唆されている。

5. 真実の神による祝福:自分を祝福する者は真実の神によって祝福されるという言葉があり、神への信仰と従順が祝福を受けるための基本であることが示唆されている。