ローマ人への手紙3章9〜24節「神の義はどのように与えられるのか?」

2024年2月4日

福音がしばしば単純化されて、「すべての人が罪を犯して、地獄の火のさばきに定められているけれども、神が遣わしてくださったイエスを信じることによって、天国の保証が与えられた」と説明されることがあります。その際に頻繁に引用されるのが本日のローマ人への手紙3章です。

しかし、地獄の脅しによって人を信仰に導くということには、人の行動を恐怖で縛るという恐ろしい作用があります。恐怖を動機に信じた人は、そのうち「私のような弱い信仰では、キリストの空中再臨のときに、携挙してもらうことができず置き去りにされ、第三次世界大戦に巻き込まれてしまう」という別の脅しに怯える信仰になり得ます。

しかし、旧約のストーリーの中では、すべての人が罪人だという話は、人を謙遜にし、自分の義ではなく、神のあわれみにすがるという生き方に人を導く教えです。その鍵のことばが神の義であり、それはキリスト・イエスを通して実現されるものです。

私たちはこの世界を管理するために「神のかたち」として創造され、神のさばきとはこの世の不条理を正すことが中心にあるという信仰の原点を大切にしましょう。

1.「義人はいない。一人もいない……彼らの口は、呪いと苦みに満ちている」

3章9節は、1章18節~3章8節までのすべての議論をまとめるようにパウロは、「では何でしょう。私たちがまさっているのでしょうか。決してそうではありません。すでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人もすべてが罪の下にあるのです」と記します。

最初の「私たち」とはキリスト者全体を指しており、パウロは自分をユダヤ人の枠を超えた立場に置きながら、自分たちはキリストを信じないユダヤ人にも異邦人にも何か誇ることができる功績など、ありはしないと述べていると解釈できます。

しかもその際、創造主を知っているユダヤ人も、また創造主もその教えとしての律法も知らないギリシア人もすべてが「」の支配下にあると記しています。ここでの「罪」とは単数形で、人格的な存在であるかのように描かれています。

その上でパウロは聖書が描く人間の姿をいくつもの箇所から引用します。その最初は詩篇14篇1–3節(詩篇53:1–4と同じ)で、それを彼は、「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を捜す(求める:Seek for)者はいない。すべての者が離れて行き、ともに無用の者となった。善を行う者はだれもいない。一人もいない」と引用しています (10–12節)。

それぞれの詩篇の最初では、愚か者は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う(『忌まわしい不正を行っている』(53:1) )と記していますが、その部分が省かれています。このことは最初と最後で「義人(善を行う者)は一人もいない」と繰り返される概念に含まれているのでしょうが、異邦人が創造主を認めないこと自体を「愚か者」と呼ぶのではあまりにも乱暴に聞こえるので、そのような配慮が込められているのかもしれません。

ただ、「悟る者はいない、神を求める(探す)はいない」と描かれる概念の中に、その「創造主」を発見しようともしない「愚かさが指摘されているとも言えましょう。

とにかく、「義人はいない」という中に、創造主を捜そうともしないことが何よりの罪として示唆されていることは、1章20、21節に記されていることを通しても明らかにされています。

なお、詩篇14篇7節(53:6も同じ)では、「ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。主 (ヤハウェ) が御民を元どおりにされるとき ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べと記されています。

つまり、これは厳しいさばきの宣告というよりも信仰への励ましなのです。そこでは、真心から「神を捜す者」がいないという現実をご覧になった神ご自身が、イスラエルを回復することでご自身の力を証しされると描かれます。

3章13節では、「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。彼らの唇の下にはまむしの毒がある」と記されます。その前半は詩篇5篇9節の「彼らの口には信頼できるものがなく、その内奥にあるのは破壊です。彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌でへつらうのです(七十人訳「欺くのです」)」ということばの後半からの引用です。

さらにパウロのことばの後半は、詩篇140篇3節の「彼らの舌を鋭くしています、のように。まむしの毒が彼らの唇の下にあります」の後半からのそのままの引用になっています。

そのどちらでも、ことばを語ることができる尊い器官が「開いた墓」「まむしの毒」を宿していると指摘されています。

また3章14節では「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている」と記されます。これは詩篇10篇7節の「彼の口は 呪いと欺きと虐げに満ち 舌の裏にあるのは 害悪と不法です」という表現の要約です。

なお13、14節では、興味深いことに「喉」「舌」「唇」「口」ということばの使い分けがなされていますが、それはすべて人の「ことば」における「罪」の指摘です。

後に使徒ヤコブも、「舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです」と描いています (ヤコブ3:8–10)。私たちの罪は何よりも対人関係の「ことば」に現されます。

ただし、引用されたどの詩篇においても、それらの文脈で描かれている内容は、神の民の罪を指摘することが目的ではなく、神の民の「敵」からの不当な攻撃に対する神の公平なさばきが描かれています。

それがたとえば詩篇140篇12節では、「私は知っています。主 (ヤハウェ) が苦しむ者の訴えを支持し 貧しい者のために さばきを行われることを」と記されています。

ですから、パウロはこれらの詩篇を引用しながら、イスラエルの民全体が「罪の下にある」と断罪すること以前に、貧しい者を虐げる権力者たちの偽善を指摘し、神の公平なさばき」が下されるという「希望を示唆していると考えることもできます。

私たちはパウロのことばを表面的に見ると、すべての人が地獄落ちにふさわしいということの論証に思えますが、当時の信仰者は引用された詩篇の文脈を知っている人が多かったと思います。

そこでは常に、自分の正義を訴える前に、神の前にへりくだることの大切さが説かれていたことを覚えるべきでしょう。

2.「すべての口がふさがれて、全世界が神に対して責任を負うため」

3章15–17節では、「彼らの足は血を流すのに速い。彼らの道には破壊と悲惨(惨めさ)がある。そして平和の道を彼らは知らない」と記されています。

これはイザヤ59章7、8節からの引用で、そこでは「その足は悪に走り、咎なき者の血を流すのに速い。その思いは不義の思い。暴行と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和 (シャローム) の道を知らずその道筋には公正がない」と記されていました。

なおその直前でも、「彼らは、まむしの卵をかえし……その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと毒蛇が飛び出す」などと、「まむし」や「蛇」の描写が登場していましたが、人の「罪」とはそのように互いを苦しめ合い、滅ぼし合う関係に現されていました。

とにかく「平和 (シャローム) の道を彼らは知らない」という表現が印象的です。

なお、そのイザヤ書ではその直後に、「主 (ヤハウェ) はこれを見て、公正がないことに心を痛められた。主は人がいないのを見て、とりなす者がいないことに唖然とされた。それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を支えとされた」(イザヤ59:15b、16) と記され、主が「ご自分の御腕」としての「救い主」を私たちのために遣わし、私たちをご自身のもとに立ち返らせるという「救い」のご計画が描かれています。

そして最後の引用の3章18節では、「彼らの目の前には、神への恐れがない」と記されます。それは詩篇36篇1節の「彼の目の前には 神への恐れ(畏怖)がない」からの引用です。

そこでの「恐れ(畏怖)」とは恐怖で震えるというニュアンスで (イザヤ2:19–21参照)、これは一般的に用いられる「恐れ」よりも強いニュアンスのことばです。ただ、どちらにしても、最終的には、「神のさばきを恐れる」という意味が込められています。

神への恐れの意識を持つことと、神の最終的なさばきを知ることは切り離せません。伝道者の書の結論でも箴言と同じ「恐れ」を使って、「これらすべてを聴いてきたことの結論とは、『神を恐れよ。その命令を守れ』 これこそが人間にとってすべてである。神は 善であれ悪であれ、 すべての隠れたことについて、すべての行いにさばきを下される(伝道者12:13、14) と記されているとおりです。

なお、この詩篇36篇の結論においても、「注いでください。あなたの恵みを あなたを知る者に。あなたの義を 心のすぐな人たちに。高ぶりの足が私に追いつかず 悪しき者の手が私を追いやることのないように。そこでは 不法を行う者は倒れ 突き倒されて 立ち上がれません」(10–12節) と記されています。

つまり、人間の罪を顕わにする詩篇には、同時に、神の義、神の真実さに基づく、公平なさばきと、神の前に遜って救いを待ち望む者に対する神のあわれみが描かれているのです。

これらすべてで、人の罪を指摘することばには、同時に、傲慢な者をさばき、貧しい者を高める神のあわれみが記されています。

3章19、20節は、「私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある人たちに語られているということを。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神に対して責任を負うためです。

なぜなら(それゆえ)、律法の行いによっては、すべての肉なる者は、神の前で義と認められないからです(義とされません)。律法を通しては罪の知識(認識、意識)が生まれるからです」と記されています。

「律法の下にある人たち」とは、ユダヤ人のことを指しますが、彼らは自分たちが律法を持っていること自体を誇っていましたが、今まで言われているように、律法は守らなければ意味がありません。その意味でユダヤ人も異邦人と同じく立場にあります。

しかも、律法の基準は異邦人にも適用され、すべての人間が創造主の前で「どのように生きたかが問われる」という意味で、「全世界が神に対して責任を負う(さばきに服する)」と解釈できます。

さらにその「さばき」の場では、私たちが自分の正当性を自分で弁護できないほど、すべての行為が神の前に明らかになっているという意味で「口がふさがれ」ていると言われます。

なおここは「律法」には「罪の意識(罪責感)」を生じさせることしかできないという限界を語っているのでしょうか。それよりは「律法を通して罪の知識」つまり、何が神の前に喜ばれ、どのような行為が神を悲しませるかが明らかになるという中立的な意味が記されています。

今も「律法主義」という表現で、神のみ教えを必死に守ろうとする生き方が嘲られることがありますが、パウロは決して律法を軽く見てはいません。

神がモーセを通して語られた律法の目的は、それが与えられる際に語られた出エジプト記19章5、6節では、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聴き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあってわたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民(くにたみ)となる」と記されていました。

神は守ることが不可能な教えを与えたわけでは決してありません。守ることができたなら「あなたがたは祭司の王国となる」と約束されながら、それはもともと「実行不可能だった」と言われるほど、人を馬鹿にした表現はありません。それは確かに実行可能な教えでなければなりません。

同じような議論が展開されるガラテヤ3章24節では、「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました」と、律法にはキリストを指し示す働きがあったと記します。

なお、「律法の行いによっては、すべての肉なる者は、神の前に義と認められません」(20節直訳) ということばの背後には詩篇143篇2節があると思われます。

そこでは「あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれ一人 あなたの前に正しいと認められないからです」というへりくだった祈りが記されています。つまり、すべての肉なる者が地獄行きに定められているという「脅し」ではなく、神の前で自分の正義を主張する代わりに謙遜になるようにという勧めの文脈なのです。

事実、その詩篇の10、11節では、「あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が 平らな地に私を導いてくださいますように。主 (ヤハウェ) よ、あなたの御名のゆえにわたしを生かし あなたの義によって 私のたましいを苦しみから助け出してください」という祈りが記されています。

そこでの「神の義」とは、神の前に「正しいと認められない」者を敢えて、敵の攻撃から救い出し、神の御前で平安に生きることができるようにと「いつくしみ深い霊」が与えられることを意味します。

パウロが用いている聖書の文脈には、いつも神の救いのご計画への期待と祈りが記されているということを決して忘れてはなりません。

ここには「脅し」ではなく、「愛の招き」が通奏低音として流れています。

3.「神の義がイエス・キリストの真実によって、すべての信じる人に与えられた」

それで3章21節では、「しかし今や、律法から離れて、神の義が現わされたのです。それは律法と預言者によって証しされていたことでした」と、預言されていた新しい時代の到来が告げられます。

ここでの「神の義」とは1章17節で「福音には神の義が啓示されていて、信仰から信仰に進ませる」と記されていたことを思い起こさせます。しかもそこでは、「それは神の怒り天から啓示されているからです、あらゆる不敬虔と不義の人々に対してですが」(1:18) という記述とセットになっていました。

つまり、「私は福音を恥としません」という宣言を説明する形で、「それは神の義がそこに啓示されているからです」と、「それは神の怒りが天から啓示されているからです」という二つの「啓示」が対比的に記されています。

それは、「神の怒り」が「天から啓示され」、すべての人々に明らかにされていることで、人々はどこかで「この世界は何かが狂っている」と感じながら、「福音に……啓示されて」いる神の義」を慕い求める素地が備えられるとも言えましょう。

とにかく、そこで明らかになっていたのは、神の義」とは「神のさばきの基準」ではなく、神の怒り」の啓示と対比されるもので、そこには神の救いのご計画が明らかにされているということです。

また、先の詩篇143篇1節では、「あなたの真実によって私に答えてください。あなたの義によってと、「神の義」が「神の真実」を言い換える言葉になっています。

さらに11、12節ではでは「あなたの義によって このたましいを苦しみから引き出してください」という表現が、「あなたの慈愛(ヘセド:恵み)によって 敵を滅ぼしてください」と言い換えられ、「神の義」と「神の慈愛(ヘセド:恵み)」が並行して描かれています。

つまり、神の義」とは、「神の真実」また「神の慈愛(ヘセド:恵み)」でもあるのです。とにかく「神の義が現れた」とは、新しい時代の到来で、それは「律法と預言者によって証しされていた」ことでした。

モーセの律法の最後の申命記30章6節では、「あなたの神、主 (ヤハウェ) は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる」と約束されていました。

また預言者エレミヤ31章31–33節では「見よ、その時代が来る……わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ……わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す」と、聖霊の働きによって、「律法」が心の中に書き記される「新しい契約」の時代が到来すると約束されていました。

律法のことばは変わらないのですが、その与えられ方が変わったのです。パウロはコリント第二の手紙3章3節で、コリントの信者を「キリストの手紙」と呼び、「それは墨によってではなく、生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心に板に書き記されたものです」と説明しています。

旧約は「石の板」、新約は「心の板」という違いが見られるのです。

それが3章22–24節で、「すなわち、神の義がイエス・キリストの真実によって(を通して、媒介として)、すべての信じる人に与えられたのです。そこには分離(区別)はないからです。それはすべての人が罪を犯して、神の栄光を受けるに値しなくなっているからです。それで、神の恵みによって価なしに(無償で)義と認められることになりました、それはキリスト・イエスによる贖いを通してのものです」と記されます。

ここで初めて、「神の義」が「イエス・キリストの真実によって(を通して)与えられる」と記され、そのことがさらに「神の恵みによって……義と認められる」と記され、それは「キリスト・イエスの贖いを通してのもの」と説明されます。

「贖い」とは、奴隷状態にある者を、代価を払って解放し、自由人にすることです。それはここで、「すべての人が罪の下にある」(3:9) と言われた「罪の奴隷」(6:16) 状態から解放されることを意味します。

イスラエルにとっての出エジプトの出来事が、私たちにとっては罪の奴隷」状態からの解放として描かれるのです。そしてそれはイエスの十字架のみわざによるものと描かれているのです。

新改訳2017年版では、「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です」と記されますが、そこでの問題は、「信じることによって、信じるすべての人に」と「信じる」という行為が過度に強調される訳し方になっていることです。

もとのギリシア語では「イエスのピスティス」と記されていますから、新改訳の脚注の別訳にあるように、「イエス・キリストの真実によって」という直訳がふさわしいと思われます。ですから最新の聖書協会共同訳では、神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです」と訳されています。

私たちは無意識のうちに、「律法の行い」と「イエスを信じること」を対比させて考えているかもしれません。

しかもこの箇所は直訳では、「神の義」が「イエスの真実によって、すべての信じる人に与えられたのです。そこには分離(区別)はないからです」と記されています。この「分離(区別)」に関し、「ユダヤ人とギリシア人には何の差別もない」と解釈されることが多いですが、原文では、「そこには分離はない」と記されているだけです。

それはこの文脈では神の義」と「イエスの真実」の間には「分離がないという意味にも理解できます。先の詩篇143篇に記されていたように「神の義」は「神の真実」または「神の慈愛(恵み、ヘセド)」と言い換えることができる表現ですから、ここでは神に属する「義」とイエスに属する「真実」の間に何の分離もないことを指していると思われます。

私たちを「信仰から信仰へと進ませる」ことができる「神の義」は、「イエスの真実(ピスティス)によって」何よりも明らかにされています。それは、「十字架の死にまでも従う」(ピリピ2:8) という真実な生き方ですが、それは同時に、「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださる」(ガラテヤ3:13) という十字架の贖いのみわざでした。

その意味は、イスラエルの民はシナイ山で神との「契約」を結んだときに、神のみ教えを軽蔑する者は「のろい」を受けるという警告を受けていましたが、イエスはイスラエルの王として、彼らが受けるべき「のろい」を引き受けてくださったというものです。

そのことのゆえにイスラエルの民には、神ののろいから解放され、神の前で義と認められる道が開かれたと解釈できます。

しかも私たち異邦人もイエスの御霊を受けることで、のろいから祝福へ」と移されるのです。それはイエスが、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています」(ヨハネ5:24) と言われた通りです。

「神の義」と「イエスの真実」は「分離する」ことができません。私たちはイエスに倣って、この地に神の平和を広げるために遣わされます。

「神の義(正しさ)」とは、神が創造された世界を罪の支配から解放し、本来の目的に沿った神の平和の完成へと導くことに現されるということを心に刻んで行きましょう。


メッセージ5つのポイント(生成AIによるまとめ)

1. 律法の重要性と限界:文書では律法の重要性が強調されつつも、律法だけでは神の前で義と認められないことが述べられています。律法を持つことだけでなく、律法を守ることが重要であることが示唆されています。

2. 神の義とあわれみ:神の義と真実さに基づく公平なさばきと、神のあわれみが強調されています。神は罪を指摘するだけでなく、傲慢な者をさばき、貧しい者を高めるあわれみを持っていることが示されています。

3. 謙遜と祈りの重要性:文書では、神の前で謙遜になり、自らの正義を主張するのではなく、神の義によって救いを求める姿勢が重要であることが述べられています。謙遜な心と祈りが神のあわれみを受けるための鍵であることが示唆されています。

4. 神の救いの計画への期待:パウロが用いている聖書の文脈には、神の救いの計画への期待と祈りが常に記されていることが強調されています。神の救いの計画に対する信仰と期待が重要であることが示されています。

5. イエス・キリストの役割:文書では、イエス・キリストの真実によって神の義がすべての信じる人に与えられたことが述べられています。イエス・キリストが神の義を示し、新しい時代の到来を告げたことが強調されています。