イザヤ62章4節~63章17節「諦めることなく、主 (ヤハウェ) に訴える」

2024年1月28日

「あきらめ」とは「明きらむ」から生まれた言葉で、そこには「心を明るく楽しくする」という意味があったようです。依存症の原因に、自分では変えようのない過去への後悔や恨みがあると言われますが、目の前の現実を明らかに見るときに、断念すべきことがわかります。

そして諦めのうまい人は、日々の生活に喜びを見出すことができるので、「主にゆだねる」ことを「あきらめ」と同じような意味で使うことがあります。

しかし聖書での「ゆだねる」ことの中心的な意味は、抱えている問題を主に祈るという主体的な行動です。人生には、諦めてはならないことがあり、主は、諦めずに祈り続けることを求めておられます。

諦めが早すぎる人は、自分の人生を開くことも、この世界をより良くするために貢献することもできません。事実、聖書の信仰とは、どんな逆境の中でも諦めずに希望を持つことということもできましょう。

日本では自分の希望を前面に出さないことがお行儀の良いこととされますが、日本のクリスチャンはしばしば、神の前でお行儀が良すぎて、聖書が勧める祈りの世界の豊かさを味わい切れていないのかもしれません。

1.「主を休ませてはならない」

62章4節で、主 (ヤハウェ) は、バビロン帝国の攻撃によってエルサレムが一度は「見捨てられ」(54:6)、「廃墟とされた」(60:15、61:4) ことの対照として、エルサレムに向かい「あなたはもう、『見捨てられた』と言われず、その地はもう、『荒れ果てている』とは言われない。

かえって、『わたしの喜びは彼女にある』と呼ばれる、あなたの地は『夫がある』と。それは、 (ヤハウェ) の喜びがあなたにあり、あなたの地が夫を得るからである」という逆転が約束されます。

それはたとえば、自業自得でホームレスとなってしまった人に対する語りかけに似ています。そのような人に、主が「わたしの喜びは彼女にある」と言われました。それは、「わたしはあなたを妻に迎え、今までの借金を返済し、すべての必要を満たす」と言ってくださるようなものです。

さらに5節bでは、「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神あなたを喜ぶと記されます。

後に使徒パウロは問題だらけのコリント教会の信徒たちに対し、「私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させた」(Ⅱコリント11:2) と言っています。教会はキリストの花嫁とされているのです。

62章6、7節は不思議な表現で、「あなたの城壁の上に、エルサレムよ、わたしは見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていることはない。主 (ヤハウェ) に思い起こしていただく者たちよ。休んではならない。主を休ませてはならない。主がエルサレムを堅く立て、この地の誉れとするまでは」と訳すことができます。

見張り人は本来、敵の襲撃を告げ知らせる役割ですが、ここでは、主に必死に訴える働き手として描かれています。これは、王宮において家臣たちが王に向かって、状況に左右されずに、王の最初の約束を政策として実行することを訴え続けるようなイメージです。

これはキリストご自身が父なる神に訴え続ける者としての「見張り人を置いたと言っておられると解釈することもできます。

ここで「主を休ませてはならない」(62:7) とは不敬虔とも言える表現ですが、最近の多くの英語訳でも、「Give Him no rest until He establishes Jerusalem」(ESV、NAS) と記されています。

ルカ18章でイエスは、「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」、弟子たちに「たとえを話され」ました。

それは、「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人(敵対者)をさばいて、私を守ってください』と言っていた。この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『……このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう……』」というものです。

私たちは悩みを抱えたとき、身近な人に自分の不満を聞いてもらおうとはしても、神を恐れず、人を人とも思わない」裁判官のような立場の人には近づきません。しかし、この「やもめ」は、この「裁判官」こそが、この問題にさばきをつけることができる立場にあることを見極め、何度拒絶されても訴え続けていたというのです。

彼女は裁判官に「休み」を与えませんでした。その結果、この裁判官も重い腰を上げざるを得なくなります。

このたとえ話をもとにイエスは、「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、昼も夜も神に呼び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか……神は彼らのために、速やかにさばきを行ってくださいます」(同6–8節) と言われました。

私たちもこの地に神の平和が実現するように、真に権威のある方に、恐れおののきつつ訴える必要があります。

主の祈りでは「御国が来ますように」と祈るように教えられています。これは、主のご支配が目に見える形で実現することを被造物に過ぎない私たちが祈るという不思議で、この「見張り人」に課せられた使命と似ています。主はご自身の救いのご計画の中に私たちの祈りの働きを参加させてくださいます。

そしてこのように祈る者は、次第に、この世界を自分一人ではなくて、主の観点から見ることができるように変えられてゆきます。あなた個人にとっては都合悪いことでも、「神の国」の完成という観点から必要な働きがあります。

自分の視点からしか神のみわざを見られないのは、神の民として未成熟と言えましょう。

イエスの誕生のとき、救い主を待っていた「アンナという女預言者」が登場します (ルカ2:36)。彼女は七年の結婚生活の後「やもめ」となり、84歳になっても「宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えて」いました。祭司たちが偽善と謀略の中に生きているのを見ながらも、ただ神に望みを抱き、神の正義、神の救いが実現するようにと必死に祈り続けていました。それはイザヤが預言した「見張り人」の姿そのものでした。

そして、その結果として、「エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人々に」、この幼子の誕生の中に神の不思議な救いがあるということを告げることができました。

しばしば、大きな理想を掲げる人は、目の前に争いを引き起こし、かえって問題をこじらせてしまいます。エデンの園の外の世界では、一つの矛盾の解決が次の矛盾を生み出すということを決して忘れてはなりません。

大切なのは、人間的な解決を急ぐのではなく、神のさばきを待つという姿勢です。もちろん、積極的に改革のために立つべき時がありますが、それは「神に仕える(祈る)」という日常生活を基本として起こるべきことです。

2.「見よ。あなたの救いが来る……復讐の日が……」

62章8、9節では、主 (ヤハウェ) がご自身の「右の手と力強い腕によって誓われた」ことの内容が、「わたしはあなたの穀物を再び敵に食物として与えはしない。あなたが労して作った新しいぶどう酒を、異国の民が飲むことはない。取り入れをした者が、それを食べて主 (ヤハウェ) をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭でそれを飲む」と描かれます。

これは一言で、自分たちの労苦が無駄にならない世界を神ご自身が実現してくださるという約束です。

これはその逆の悲惨がバビロン捕囚の際に起きることを前提に記されていますが、それはあらかじめ神が申命記28章で繰り返し警告していたことであり、同時に、申命記30章では神ご自身の主導によって祝福が回復されると記されていました。それこそ「新しいエルサレム」で実現する祝福です。私たちにはその永遠の都の市民権が与えられています。

それを前提に使徒パウロは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58) と記しました。

62章10節ではエルサレムの復興を前提に「通れ、通れ、城門を。この民の道を整えよ……大路を造れ……もろもろの民の上に旗を揚げよ」と言われます。これは周辺国に神の救いのしるしとしての「旗」を掲げるという意味です。

そしてそのことが「見よ、主 (ヤハウェ) は地の果てに聞かせられた」と記され、その内容が、「娘シオンに言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と」(62:11) と告げられます。

イエスのエルサレム入城は、「救い」が文字通り「シオンに来た」ことを表すものでした (マタイ21:5)。そして、主は私たちの労苦に正当に報い、その結果が「彼らは聖なる民、主 (ヤハウェ) に贖われた者と呼ばれる。 あなたは追い(尋ね)求められる者、見捨てられない都と呼ばれる」(62:12) と描かれます。

これは神の民としての栄光の回復とともにエルサレムの完成の姿を描いた表現です。

63章では先にあった「復讐の衣を身にまとい」(59:17) の意味がより具体的に描かれます。その最初の「この方はだれか、エドムから来る、ボツラから深紅の衣を着ている方は。その装いには威光があり、大いなる力をもって進んで来る」とは、 (ヤハウェ) が遣わす救い主が、イスラエルに敵対し続けるエサウの孫のエドムとその首都ボツラをさばいて来たという記述です。

そして「この方はだれか」という問いに対する答えが、救い主から「それはわたしだ。正義を語る者、救うにあたって力強い」(63:1) と紹介されます。

そしてさらに、「なぜ、あなたの装いは赤く、衣はぶどう踏みをする者のようなのですか」(63:2) という問いに対して、驚くほど残酷な表現で、「わたしはひとりでぶどう踏みをした……わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。彼らの血の滴りがこの衣にはねかかり、わたしの装いをすっかり汚してしまった。それは復讐の日がこの心のうちにあり、わたしの贖いの年が来たからだ」(63:3、4) と描かれます。

これは、主ご自身がイスラエルの味方となり、その敵を滅ぼしてくださるということを意味します。

63章5、6節では「見回しても、助ける者はだれもいない。支える者がだれもいないことに、わたしは唖然とした。それで、わたしの腕がわたしのために救いをもたらし、わたしの憤り、それがわたしを支えた。わたしは怒って、民たちを踏みつけ、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血の滴りを地に流れさせた」と記されます。

これは59章16節の「ご自分の御腕で救いをもたらし、その義をご自分の支えとされた」を、特に主の復讐と言う面に焦点を当てて再度記したもので、神の「義」がここでは神の「憤り」と言い換えられています。

つまり、神の民の救いとその敵の滅亡はセットになっているということです。

イエス・キリストは二千年前、ひ弱な赤子として生まれ、私たちとまったく同じ人間となり、私たちすべての罪を負って十字架にかかられました。そして、主の復活と昇天は、主が再びこの世界に来られることのしるしでした。

黙示録6章9–11節には、主への信仰のゆえに殺されたたましいが主の祭壇の下で、大声で叫びながら、「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか」と訴える場面が描かれ、それに答えるのが主の再臨であると記されています。

それは逆説的に私たちに愛する力を与えてくれます。パウロは、「自分で復讐してはなりません。神の怒りにゆだねなさい」と言い、それを前提として、「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ」と勧めました (ローマ12:19、20)。

つまり、神のさばきを信じることと、敵を愛することは矛盾することではなく、かえって、さばきを主にゆだねているからこそ、敵を愛するという行動を取ることができるというのです。

私たちは、「こんなことを許していては、悪人がつけあがるだけだ……」という思いになることがありますが、神は公平なさばきを下されます。それを信じるから敵を愛することができるのです。

3.「私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか」

63章7節は、「主 (ヤハウェ) の恵み (ヘセド) を私は思い起こそう(語り告げる)、主 (ヤハウェ) への賛美を(主 (ヤハウェ) のくすしいみわざの数々を)。主 (ヤハウェ) が私たちに与えてくださったすべてのこと、すなわちイスラエルの家への豊かないつくしみ (goodness) に従って主は与えてくださったこと、そのあわれみ (ラハム) と豊かな恵み (ヘセド) によって」と記されます。

最初のことばは、主(ヤハウェ)がイスラエルの家と結ばれた契約への真実さ(ヘセド)を強調する表現で、「恵み (ヘセド)」はすぐに「主 (ヤハウェ) への賛美」と言い換えられます。

さらに「思い起こす」べき内容が、「イスラエルの家への豊かないつくしみ(goodness:恵み)」と描かれます。

そして、「主が与えてくださった」と繰り返されながら、その動機が主の「あわれみ (ラハム) 」と、「主の恵み (ヘセド) 」であると説明されます。

すべては人間の誠実さに対する「報い」ではなく、主の一方的なみわざなのです。

そして8節の、「主は言われた」から、主のみこころが美しくが描かれます。その最初は、「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」という語りかけです。それこそ「主 (ヤハウェ) の恵み (ヘセド)」の動機であり、放蕩三昧をして落ちぶれて帰って来た息子を迎える父の気持ちです。

そして「こうして主は彼らの救い主になられた」という表現と共に、まず「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の御顔(臨在)の使い(御使い)が彼らを救った。その愛とあわれみによって、主が彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった」(63:9) という主の「愛とあわれみ」が描かれます。

ここで「主の御顔(臨在)の使い」と記されるのは、単にご自分の代理としての「御使い」を送ったというのではなく、主がご自身のあわれみの御顔を彼らの目の前に向けておられるという意味です。

しかも、主は、私たちの痛みを上から見下ろしておられる方ではなく、ともに「苦しみ」、また、「背負い、担って」来られた方だというのです。

今から約40年前、フィリップ・ヤンシーという米国のジャーナリストを有名にした本があります。そのタイトルは、「Where is God when it hurts」(痛むとき神はどこにおられるのか)でした。それは誰もが避けたいと願う「痛み」に創造的な価値があるということを解き明かした本でした。

しかしそれは今から2700年前に、神がイザヤを通して語っていたことに他なりませんでした。イスラエルの民は、自分たちの痛みを通して、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ……彼らを背負い、担ってくださった」という霊的現実を体験できたのです。

神を遠く感じるときこそ、神は私たちの最も身近におられるという逆説があるのです。

なお、イスラエルの民がシナイの荒野で「金の子牛」を作って拝んだ時 (出エジ32章)、主 (ヤハウェ) は彼らに激しく怒り、「わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない」と言われましたが、それに対しモーセは、「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください」と必死に食い下がりました (同33:3、15)。

その結果として、四十年間の荒野の旅路において、主ご自身が彼らの真ん中に住み、彼らを約束の地に導かれたと描かれています。

つまり、主は御使いをイスラエルに遣わしたのではなく、民の反抗に耐えながら、ご自身が彼らの真ん中に住んで、彼らを救い出されたのです。

ところが63章10節では、「しかし彼らは逆らって、主の聖なる御霊を悲しませたので、主は彼らの敵となり、自ら彼らと戦われた」と描かれます。これは、イスラエルの民のバビロン捕囚に至るまでの神のさばきの全体を表わしたものとも言えます。

その過程で主は、敢えて異教の国々を動かしイスラエルを攻撃させました。約束の地に至る過程では、主はイスラエル側に立って戦っておられましたが、特にダビデの後の時代においては、神は外国の国々を用いてイスラエルを懲らしめられました。それは、まるでイスラエルの神、主 (ヤハウェ) が外国人の味方となり、イスラエルの敵となられたような印象を与えます。

63章11節では、このような中で「そのとき、彼(主の民)は思い起こした。モーセと彼の民のいにしえの日々を」と記されます。

「彼」とはイスラエルだと思われ、現在の悲惨な状況との対比で、「その群れを牧者たちとともに海から導き上った方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置いた方は、どこにおられるのか」と繰り返し尋ねます。

それは当時のイスラエルにはモーセのような牧者もいなく、主が彼らの間から離れ、主の神殿も破壊されていたからです。

そして昔の出エジプトの際の主のみわざを振り返り、「その方は、美しい(輝かしい)御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分けて、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた」(63:12、13) と描写します。

さらにその恵みをまとめるように「家畜が谷に下るように、主 (ヤハウェ) の御霊が彼らを憩わせた」(63:14) と結論付けます。

主が彼らの真ん中に「聖なる御霊」を置かれ、「 (ヤハウェ) の御霊が彼らを憩わせた」という表現は旧約では珍しいものです。

後にパウロは反抗的なコリント教会に、「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16) と記しましたが、今、主ご自身が私たちの交わりのただ中に住み、「新しい天と新しい地」、「新しいエルサレム」へと導いておられます。

人は聖霊が宿っている教会の交わりを軽蔑して約束の地に達する事はできません。

その上でイザヤは、「どうか、天から見おろし、ご覧ください。あなたの聖なる美しい(輝かしい)御住まいから。 どこにあるのでしょう、あなたの熱心と御力は。私へのたぎる思いとあわれみを、あなたは抑えておられるのですか(63:15) と不思議な問いかけをします。

それは、イスラエルの悲惨が、主の無力さの現れではなく、主ご自身のみわざによるものであり、主のみこころひとつで、すべてが変わるという希望を示すためです。

「たぎる思いとあわれみ」と同じことばを用いながらエレミヤ書で主は、「わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(31:20) と言っておられます。

さらにイザヤは、「まことに、あなたは、私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主 (ヤハウェ) よ、あなたは私たちの父です」(63:16) と告白します。

なお旧約において、主 (ヤハウェ) が」と呼ばれるのは珍しいことです。

そして後にパウロはこの箇所における「御霊」(63:11、14)、また「父」という表現を用いて、神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8:14、15) と記しています。

その上でイザヤは、イスラエルの不信仰が主ご自身に由来するものであるかのように、なぜ、主 (ヤハウェ) よ、あなたの道から迷い出させ、私たちの心を頑なにして、あなたを恐れなくさせるのですか。 どうかお帰りください、あなたのしもべたちとゆずりの地の部族のために」(63:17) と訴えます。

これはまるでイスラエルの不信仰は、主が彼らから御顔を隠し、彼らの間に住まわれなくなった結果であるかのような表現です。私たちも不信仰のゆえに様々な悲惨を招きますが、自己嫌悪に陥る代わりに、自分たちの不信仰は主にも責任があるかのように大胆に訴えることができるなら、もっと気が楽になるのではないでしょうか。

私たちは自分の不信仰を責める代わりに、「主よ、私を変えてください」と祈るべきなのかもしれません。主はそのように祈る私たちのために、創造主ご自身である御霊を遣わしてくださいました。

私たちが御霊に心を開くなら、御霊ご自身が私たちを内側から造り変え、私たちの信仰を成長させてくださいます。

そして、私たちが神との交わりを深めた結果として、神の平和の器として用いていただけます。

福音自由教会は米国のアイオワ州で1884年に結成された北欧の移民の群れから生まれています。先日トランプ前大統領が共和党の圧倒的な支持を受けたことで、その州の保守的な傾向が報じられました。ただ近年の米国の福音派は、その戦闘的な姿勢や政治的な発言のゆえに日本では評判が悪くなっています。

どうしてこんなことになってしまったのでしょう。それは主の救いを待つ代わりに、自分が動き出し、また、主に祈り続ける前に、人を説得する言葉ばかりを発するからかもしれません。

私たちはどれだけ心を込めて、「御国が来ますように(神のご支配が現れますように)」と祈っているでしょうか。主ご自身が教えてくださった祈りを忘れて、動き出してはなりません。

それにしても、世界の創造主は、この世の不条理を力で正そうとする前に、ご自身が不当な苦しみを引き受けることができるためにひ弱な人間の姿となってくださいました。それはこの不条理な世界のただ中で、私たちの祈りを導くためではないでしょうか。私たちの周りに神の平和が少しでも広がるように、諦めずに祈り続ける者とさせていただきましょう。


メッセージ5つのポイント(生成AIによるまとめ)

1. 神のさばきを信じることと敵を愛することは矛盾しない。信仰によって敵を愛することが可能であり、復讐を神にゆだねることで敵に対して愛を示すことができる。

2. 不信仰は悲惨を招くが、自己嫌悪に陥るのではなく、主に責任を訴えることで気持ちを楽にすることができる。自分の不信仰を責める代わりに、主に変えてもらうよう祈ることが大切。

3. 祈りを通じて御霊に心を開くことで、内面から変えられ、信仰を成長させることができる。神との交わりを深めることで、神の平和の器として用いられることができる。

4. 福音派の姿勢や発言が日本で評判が悪くなっている理由は、主の救いを待つ代わりに自ら動き出し、祈り続ける前に人を説得する言葉を発しているためかもしれない。神の教えを忘れず、祈りを通じて行動することが重要。

5. 世界の創造主はひ弱な人間の姿となってこの世に来られ、不当な苦しみを引き受けることで私たちの祈りを導いている。私たちは祈り続けることで神の平和を広める存在となることが重要である。