奴隷の人格を認めていた聖書の画期性〜申命記5章、ガラテヤ3章28節

 日曜夜のNHK大河ドラマで、源氏物語の作者 紫式部の生涯が描かれ始めました。源氏物語をお読みになっておられる方がおられたら、現代語訳がどれが良いかお教えいただければ幸いです。
 それにしても日本が誇る世界最古の長編恋愛小説と呼ばれていますが、これほどに次から次へと有名作家が現代語訳に挑戦し続けるというのは画期的なことです。どの国でも、神話や戦記ものの古典はありますが、日本はそれが恋愛小説であるというのは、何とも微笑ましい現実とも言えるかもしれません。

 しかし、最初のストーリーに僕は余りにも衝撃を受けました。
幼少期の紫式部の母親が、あまりにも無残な、不条理な死を遂げてしまったことです。歴史的に彼女の死がどのような原因であるかの検証は不可能ですが、紫式部の幼少期に母親が亡くなっていることだけは確かです。
 母親も下級貴族の出身ではあったようですが、権力者は身分の低い者の命をあまりにも軽く扱う現実は、当時の日本でも事実であったようです。

 そこで、ふと思い出しました。
 古代ギリシアで最強を誇ったスパルタには紀元前8世紀に作られた野蛮な規則がありました。スパルタ市民として受け入れられるための20歳の成人式の通過儀礼として、七日間山野に一人で放り出されて生き抜くばかりか、その間に、「不意を襲って殺したヘロット(農奴)の頸を持ち帰ることが義務づけられていたというのです。
 何の落ち度もない奴隷を一人殺すことが成人男性となるための通過儀礼であるというのは、何と非人間な掟でしょう。なお、当時のスパルタでは、市民権を持つ男性1万人に対し、16万人のヘロット(農奴)がいたと推測されます。
 古代世界では、どの国でも、奴隷の命を奪う事には何の罪責感も感じない人が多かったようです。

 一方、遅くとも紀元前1200年ごろには創造主から啓示されていたイスラエルの十戒の安息日既定では、最低限、週に一度は奴隷をあらゆる仕事から解放し、完全に休ませることが命じられていました。
 そこでは、その命令の根拠が、「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そしてあなたの神、主 (ヤハウェ) が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない」(申命記5:15) と記されていました。
 「あなたも奴隷として苦しんだのだから、奴隷に憐れみを施すことが、創造主に対する感謝の現れとなる」という、驚くべき理由が告げられています。

 旧約聖書全体でも、イスラエルの神は、常に社会的弱者の味方であると繰り返し描かれています。
 そして、新約ではパウロの以下のことばが有名です

キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
ガラテヤ人への手紙3章27、28節

 幸い、戦後の日本では、基本的人権という名のもと、身分制が完全に撤廃され、どのような人にも社会保障を受ける権利が認められています。
 そのように、どのような人の存在権、人格権を認める教えというのは聖書以外に発見されません。後に紀元7世紀に発生したイスラム教はその伝統を受けついて、アラーの前での平等を説きますが、それはユダヤ、キリスト教を受け継いでいるに過ぎません。

 歴史的に、世界各地に根付いていた身分制意識が聖書の教えさえもゆがめてきた現実あるにしても、一人ひとりが「神のかたち」に創造された高価で尊い存在であるという価値観は、聖書から生まれているということを改めて覚えたいと思います。