イザヤ60章10節〜62章3節「神の救いがもたらす大逆転」

2023年12月31日

多くの人々は、「大切な何かを失うこと」を恐れて生きています。この「恐れ」は豊かになるほど大きくなります。福音を聞き、それに感動しながらも、何か大切なものを失うことを恐れて決断できない人もいます。これは江戸時代からのキリシタン迫害のトラウマが日本人全体の心に深く染み込んでいるためかもしれません。

歴史を見る限り、迫害があればあるほど、その後のクリスチャン人口は爆発的に増加している現実が見られるのですが、日本の場合は、迫害を受けるたびに人々の心が臆病になってはいないでしょうか。それは、多くの日本人が信仰を「キリスト道」のような生き方としてとらえ、ご利益宗教ではないと強調する余り、神にある逆転を語ることが少ないからかもしれません。

その点、イザヤの表現は明確です。簡単に言うと、「何かを失ってもそれは一時的なことに過ぎない。神は常にご自身にすがってくる者の味方であり、あなたを虐げる者たちに神は報復し、繁栄を回復してくださる」というものです。

私たちは何を失っても、信仰さえ失わないならすべてが挽回できます。そして信仰を失わない秘訣とは、自分の心を見る代わりに、自分の信仰が神のあわれみから始まり、神によって完成されるということを見ることです。

1.「主 (ヤハウェ) があなたの永遠の光となり、嘆き悲しむ日が終わる」

イザヤ預言は、神の都エルサレムがバビロン帝国によって廃墟とされることを前提に記されています。そのとき、城壁は崩され、壮麗な神殿も破壊され、その宝物はバビロンに運び去られました。

それに対し、60章10節での「異国の民もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える」とは、かつて外国人に滅ぼされた神の都が、外国人の王たちの積極的な協力によって建て直されるという逆転です。

それはすべてイスラエルの神のみわざであり、そのことが、「わたしは(激しく)怒ってあなたを打ったが、恵み(好意)をもってあなたをあわれむからだ」と描かれます。

そして復興後のエルサレムの繁栄のようすが、「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれてくるためである。あなたに仕えない国民や王国は滅び、これらの国々は滅びる」(60:11、12) と描かれます。

これは都が敵の攻撃を恐れる必要がないばかりか、かつてエルサレムから運び去られた財宝とは比較にならないほどの財宝が運び込まれるとともに、その国の王たちも喜んで主の民に仕えるようになるばかりか、仕えようとしない国民や王国は滅びるという大逆転が訪れると預言されます。

60章13節では、ソロモンの時代にエルサレム神殿がレバノンの美しい木々によって建てられたことを思い起こしながら、そのような繁栄が回復されるようすが、「レバノンの栄光はあなたのもとに来る。もみの木、すずかけ、檜がそろって、わたしの聖所を美しくする(輝かせる)。わたしの足台にわたしが栄光を与える」描かれます。

廃墟とされた神殿の栄光を復活させるのは主(ヤハウェ)ご自身であるというのです。

そればかりか神の民を虐げた者たちが、主ご自身によって低くされるようすが、「あなたを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてあなたのところに来る。あなたを侮った者どもはみな、あなたの足の裏にひれ伏す」(60:14) と描かれます。徹底的に人に屈服した姿が「足の裏を舐める」と表現されますが、その語源がここにあるようです。

その上で、神の都エルサレムが諸国民の上に堅く立てられるようすが、「彼らはあなたを『主 (ヤハウェ) の町、イスラエルの聖なる方のシオン』と呼ぶ。

捨てられ、憎まれて、通り過ぎる人もいなかったのに代わり、わたしはあなたを永遠の誇りとし、代々の喜びの町とする」(60:14b、15) という逆転が感動的に記されます。

さらに都の住民が諸国の富に支えられ繁栄する姿が「あなたは国々の乳を吸い、王たちの乳房を吸う。そしてあなたは知る、わたしが主 (ヤハウェ) 、あなたを救い、贖う、ヤコブの力強き者であることを」(60:14b–16) と描かれます。

信仰は道徳ではありません。人はこのような逆転劇を見ることによって、「主 (ヤハウェ) 」こそがイスラエルを救い、贖う、全能の神であると知るようになるのです。

60章17節では、主(ヤハウェ)のみわざとしてのエルサレムの繁栄の逆転的な回復が、四回の「代わりに」という表現で「わたしは青銅の代わりに金を運び入れ、鉄の代わりに銀を運び入れる。木の代わりに青銅を、石の代わりに鉄を」と描かれます。

その上で「平和」と「正義」が主 (ヤハウェ) ご自身の代理として支配する姿が平和をあなたの管理者とし、正義をあなたの監督者とする」と描かれます。

そしてそれがエルサレムの城壁や門の回復と結び付けられ、「あなたの国には暴虐はもう聞かれない、その領土のうちの暴行と破滅も。あなたはその城壁を救いと呼ぶ、その門を賛美と」(60:18) と美しく表現されます。

しかもそこに実現する「新しい天と新しい地」のようすが、「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の明かりもあなたを照らさない。 (ヤハウェ) あなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの輝き(美しさ)となる。

あなたの太陽はもう沈むことがなく、その月は陰ることがない。 (ヤハウェ) あなたの永遠の光となり、嘆き悲しむ日が終わるからである」(60:19、20) と繰り返しの表現で描かれます。

「信仰」とは太陽や月の背後に創造主を見ることです。太陽は恵みと同時に灼熱の災いの原因にもなりますが、それこそこの世界の矛盾です。それは人が神に背いた結果、世界が呪われてしまったからです。

現在の世界は、神の創造の美しさと同時に、神ののろいを現しています。私たちはその両方を見る必要があります。しかし、私たちが神の恵みに包まれるとき、恵みとセットになっていた災いはすべて消えてなくなります。

神は創造の四日目に、太陽と月を創造されましたが、新しい世界ではそれらを媒介せずに、神ご自身が世界を照らしてくださるというのです。

そのときの様子が黙示録21章23–26節ではこのイザヤ書の表現を用いながら、「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。こうして人々は諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる」と描かれています。

なおそこでは続けて、この都に「入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである」(同21:27) と記されます。それはイエスを救い主として信じるすべての人です。

つまり、新約の記述によると、イザヤの預言は、肉のイスラエル民族のためというよりは、彼らを含め、神の救いを信じるすべての民のために成就するというのです。

イザヤは続けて、そのとき神の民も内側から造り変えられることを、「あなたの民はみな正しい者となり、永遠にその地を所有する。わたしの植えた枝、わたしの手のわざは美しさ(栄光)を現すものとなる」(60:21) と描きます。

それは神の民すべてが、キリストに似た者、神の創造の冠としての「美しさ」を現す者として完成され、キリストとともに新しい世界を治める王とされるという意味です。

実際、黙示録22章3–5節では、「神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る……神である主が彼らを照らされる……彼らは世々限りなく王として治める」と記されます。

またイザヤは神の民の成長を「最も小さい者も軍団となり、最も弱い者も強国となる」と描きつつ、「わたしは主 (ヤハウェ) 、時が来れば、速やかにそれをする」(60:22) と預言します。

それをもとに黙示録の最後では、イエスが「しかり、わたしはすぐに来る」(22:20) と言われます。

私たちは世界を住みやすくするため努力しますが、光と同時に闇の働きも強くなってゆくということを忘れてはなりません。政治は所詮、様々な利害関係を調整する仕組みに過ぎません。世界が変わる前提は人間にあり、それを変えるのが福音の力です。そしてキリストの再臨の時、この世界と同時に私たち自身が新しくされます。

神は何度もご自身を裏切り続けたイスラエルの民とその都エルサレムを新しく建て直すと約束されました。人間の敬虔さや能力ではなく、神のあわれみこそがこの世界を新しくする鍵です。

私たちに求められているのは、その神に信頼することです。この世界の混乱が増し加わっても、キリストが支配する神の国は、今も成長過程にあり、完成に向かっているということを忘れてはなりません。

2.「貧しい人に良い知らせを伝えるため」

61章1節では「主 (アドナイ) ヤハウェの霊が、わたしの上にある。それは、主 (ヤハウェ) がわたしに油をそそぎ、貧しい人に良い知らせを伝えるためである」と記されます。

「油をそそぎ」とは、神ご自身の働きのための任職式で、ここでは救い主を立てることを意味します。キリストとは「油そそがれた者」のギリシャ語訳です。

イエスがヨルダン川でバプテスマを受けたとき主の霊が降ったのはその任職式でした。それは、霊的、肉体的、あらゆる種類の貧しさを感じている人に「よい知らせを伝える」ためです。

それは、新しい教えをことばで述べ伝えるというよりは、貧しさを覚えている人を根本から造りかえる恵みの働きです。

そして、「主はわたしを遣わされた」ということばとともに、その働きの内容が六つの観点から描かれます。

最初の四つが、「うちひしがれた心を包み(心の傷ついた者を癒し)、捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げるため、主 (ヤハウェ) の恵みの年とわれらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるためである」(61:1、2) と記されます。

「うちひしがれた心を包む」とは、1章6節でイスラエルは「打ち傷を・・・包んでももらえず」と記されていたことに対応します。傷つき、うちひしがれた心は、外科的な治療以前に包帯で優しく包む必要があります。

「捕らわれ人の解放とはヨベルの年の奴隷解放や負債の免除に使われたことばで、その人に新しい人生への歩みを保障するものです。

「囚人には釈放」とある「釈放」は、盲人の目や難聴の人の耳を開くという場合にも使われます。ですからギリシャ語70人訳聖書では、ここは「盲人の目が開かれる」と訳され、ルカ4章でのイエスのことばではそれが用いられています。

また、「主の恵みの年とわれらの神の復讐」は本来セットになっています。それは、神のさばきが神の民の敵への「復讐として描かれ、それが神の民にとっての「救い」と同義語になっているからです。

ルカ福音書4章16節以降では、イエスは宣教の初めにナザレの会堂でこの箇所を読んだ上で、たった一言、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」(21節) と言われました。そして主の多くのみわざと説教のすべては、イザヤの預言を成就させるものでもありました。

初代教会の時代に、弟子たちが読んだ福音書とは、イザヤ書であったとも言えましょう。彼らは、この書を読みながら、イエスがこれらの預言を一つひとつ成就されたことを知って神をあがめたのです。

ただし、主は、このとき、イザヤ書には記されている「われらの神の復讐の日を告げ」の直前で、朗読を止めておられます。それは「神の復讐」は、ご自身の十字架と復活の後の、再臨で成し遂げられることだからです。

61章3節では続く二つの働きが、「シオンの嘆く者たちに施すため、すなわち、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの霊の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」と描かれます。

まさにイエスにあってこれらの三種類の人生の嘆き苦しみの表情が、栄光と喜びと賛美へと変えられたのです。この主にある逆転は、理屈ではなく、信仰生活で体験させていただける恵みです。

そしてその結果が、「彼らは義の樫の木、美しさ(栄光)を現わす、主 (ヤハウェ) の植木と呼ばれる」と記されます。

「主 (ヤハウェ) の霊がわたしの上にある」ということばは既に私たちに実現しています。復活のイエスは恐れ閉じこもっていた弟子たちに息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」と言われ、弟子たちをイエスの代理として、世の人々を罪の支配から解放するための働きへと遣わされました (ヨハネ20:22、23)。

神はご自身の力で、この「天と地」を、「新しい天と新しい地」へと変えてくださいます。そのとき世界には神の平和と喜びが実現します。それは一方的な神のみわざですが、その働きの一部を私たちに担わすために、ご自身の霊を与えてくださいました。これは成功が約束された特権の働きです。

なお、「貧しい者に良い知らせを伝える」とは、「うちひしがれた心を包む(心の傷ついた者を癒す)」という寄り沿いのミニストリーから始まります。これは訓練を積めば誰にでもできます。人々に行動の変化を促す以前に、絶望を味わっている人に寄り添うという働きです。

現在のインターネット社会で、人々がますます孤立しています。情報はあふれるほどありますが、寄り添ってくれる人がいません。そこに私たちの働きの場があるのです。

3.「そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる」

61章4–6a節では、「彼らは昔の廃墟を建て直し、かつての荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国の人は立ってあなたがたの羊の群れを飼い、異国の民があなたがたの農夫、ぶどう作りとなる。

しかし、あなたがたは主 (ヤハウェ) の祭司と呼ばれ、われわれの神に仕える者と言われる」と記されます。

これも虐げられていたイスラエル人がエルサレムを復興し、この世界を治める立場へと引き上げられるという約束です。

なお使徒ペテロはこの最後の表現を、異邦人を含めたすべてのクリスチャンに当てはめ、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です……以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています」(Ⅰペテロ2:9、10) と記します。

イザヤ預言が私たち異邦人に成就したのです。

そして主は、イスラエルの民に豊かな祝福を与える様子を、61章6b、7節で、「あなたがたは国々の財宝を味わい、彼らの富を誇る、恥に代えて、二倍のものを。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。

それゆえ、人々は自分の地で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが自分のものとなる」と描きます。

40章2節ではイスラエルの救いが、「そのすべての罪に代えて、二倍のものを主 (ヤハウェ) の手から受けている」と記されましたが、それが成就するのです。失ったものの二倍の恵みが与えられるのです。

61章8節ではその圧倒的な回復の理由が、「それは、わたしは主 (ヤハウェ) 、公正(さばき)を愛し、不法な略奪を憎むからだ」と説明されます。

それに続けてみわざの核心が「わたしは真実を持って彼らに報酬を与え、永遠の契約を結ぶ」と描かれ、その結果が「彼らの子孫は国々のうちで知られる、その末裔も諸国の民のうちで。彼らを見る者はみな認める、主 (ヤハウェ) が祝福した子孫であることを」(61:9) と告げられます。

キリストがこの「永遠の契約」を、イスラエルと異邦人をも含む新しい神の民と結んでくださいました。それは私たちに聖霊が注がれ、内側から造りかえられ、神の民として完成されるという約束です。

61章10節の「主 (ヤハウェ) にあって私は大いに楽しみ、このたましいも私の神にあって喜ぶ。それは、主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ」とは、「私」個人または「救い主のことば」としても解釈できます。

先の50章、53章での「主のしもべの歌」では、救い主の苦難が描かれましたが、ここではそれと対照的な「喜び」が強調されます。

ヘブル12章2節では、「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、十字架を耐え忍びました。辱めを軽蔑することによってですが、神の御座の右に着座されたのです」(私訳) と記されますが、イエスは神から与えられた使命に伴う苦しみと同時に喜びをも味わっておられたのです。

喜びの伴わない使命感は、人を息苦しくさせるだけです。私はかつて、伝道者への召しを受けたとき、ヨーロッパ日本人キリスト者の集いの準備会のリトリートで、十字架の犠牲の尊さを熱く長々と語りました。でも、そのときの信仰の友の不快そうな表情が今も忘れられません。救いは喜びとして伝わってゆくということを忘れてはなりません。

そのように福音が広まる様子が、「地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主 (アドナイ) ヤハウェが、正義と賛美をすべての国の前に芽生えさせるからだ」(61:11) と描かれます。

62章1節も油注がれた救い主のことばとして受け止め、「シオンのために、わたしは黙っていない(働くことをやめない)。エルサレムのために、黙りこまない(休まない)。その義が光のように現れ(明るく光を放ち)、その救いがたいまつのように燃えるまでは」(62:1) と記されますが、そこに込められた意味の中心は、エルサレムの救いを全うするという断固たる意思ではないでしょうか。

そして、「そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。そのとき、あなたは新しい名で呼ばれる。主 (ヤハウェ) 御口が名づける名で。あなたは主 (ヤハウェ) の手にある輝かしい冠、あなたの神の手にある王のかぶりものとなる」(62:2、3) と記されます。

ここでのエルサレムが神の義と栄光を表わす都となり、そこは「新しい名」で呼ばれるとは、バビロン捕囚の際に「見捨てられた」とか、「荒れ果てている」と言われたことの対照であり、その新しい名には、「わたしの喜びは彼女にある」という意味が込められると記されています (62:4)。

アブラハムもヤコブも、主によって新しい名を与えられました。私たちにも、「主 (ヤハウェ) の御口が名づける新しい名」があるのではないでしょうか。イエスが洗礼のときに、天の父なる神から、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22) と言われたように、イエスの御霊を宿す私たちに対しても、「あなたの神はあなたを喜ぶ」(62:5) と言われます。

私たちはもちろん、自分の罪深さを認めて、それに涙を流す必要がありますが、それと同時にキリストによって与えられた新しいアイデンティティーを発見し、喜ぶべきでしょう。

「新しい名」とは、たとえば、「鈍感に対する敏感」「恩知らずに対する感謝の心」「自己中心に対する愛の人」などのように、自分の問題点を人間的な意味で逆転させるような努力目標ではありません。

たとえば私は、「不安と孤独」に動かされている自分を発見し「愛と平安」に満たされる状態を憧れ、それを新しい名として受けたいと思ったことがあります。しかしそれでは、今もなお不安と孤独感に襲われる自分の気持ちとの戦いを強化し、自己嫌悪を増すということになりました。

しかし、このままの自分が神に捕らえられ、支えられていると分かったとき、その葛藤から少しは自由にされたような気がします。そのような私にとっての新しい名とは、「抱擁されている者」とか「支えられている者」という名でした。

イエスはルカ6章20–26節にある「平地の説教」で不思議な逆転を語られました。この背後に今回のイザヤ書のことばがあったように思われます。

イエスは弟子たちに、「貧しい人」、「飢えている人」、「泣いている人」、「憎まれ、罵られている人たち」の「幸い」を宣言されました。それは主にあって、「神の国」に入れられ、「満ち足り」「笑い」「躍り上がる喜び」へと変えられるからです。

それと同時にイエスは続けて、「富んでいる」「満腹している」「笑っている」「ほめられている」人々は「哀れ」だと言われました。なぜなら、彼らはこの世の幸せの中で神を求めないため、今後はその恵みを失う道へと進んでいるからです。

もし今あなたが、何かの苦しみに会っているなら、それは主にある大逆転の始まりとも言えましょう。全宇宙の創造主がひ弱な赤ちゃんとなられましたが、私たちはこの無力な赤子に神のみわざを見るようにと召されています。

ルターが作った讃美歌「天より来たりて」では、その神秘が15節に及ぶ歌詞で美しく歌われています。この世で強い者が神の前には弱く、この世で誰よりも弱い者が神の救いのみわざを現すというのです。

それは単なる精神的な慰めではありません。世界は二千年前から神の救いの大逆転の中に足を踏み入れています。クリスマスは救い主の初臨を意味します。

そして、そこには再臨の約束が伴っています。それは、「神の復讐の日」であり、この世の不条理がなくなる日です。それはこの「天と地」が「新しい天と新しい地」へと変えられ、私たちが主の手にある美しい冠」へと変えられる日です。