剣を取る者はみな剣で滅びます〜マタイ26:52

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2023年クリスマス号より

 パレスチナ・ガザ地区を支配するイスラム原理組織ハマスによる2023年10月7日の奇襲攻撃に関して、多くのイスラエルの指導者は、「ナチスによるホロコーストを思い起こさせる卑劣な攻撃であった」と言っています。それはあまりに常軌を逸した蛮行で、映像としては伝えられない残虐なテロでした。これはまさに米国にとっての2001年9月11日の世界貿易センター崩壊に相当する、恐ろしい蛮行と言えます。ただその結果、米国はテロ組織壊滅を目指してアフガニスタン、イラクへの攻撃を始めて多くの一般市民を巻き添えにし、それらの地域に政治的な混乱を引き起こしてきました。そして今、イスラエルも圧倒的な軍事力で、ハマスの殲滅を目指し、ガザ地区の一般市民を巻き添えにしています。今、世界的な世論は、イスラエルに対して驚くほど批判的になっています。
 今から二千年前のイスラエルでは、ローマ帝国による武力支配に対して、多くのユダヤ人が一般市民のふりをして短刀を隠してローマ兵に近づいて殺すというテロ活動が盛んに行われていました。そして、イエスが捕らえられたときにも、一番弟子のペテロが自分の短刀を抜き、大祭司のしもべの耳を切り落としました。ただその際に、イエスは彼に、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのように成就するでしょう」と言われました (マタイ26:52–54)。

 「剣を取る者はみな剣で滅びます」ということばは、武力による問題解決の限界を示すものとして有名なことばです。実際に、武力によって一時的な平和を実現したとしても、人々の心の中に蒔かれた憎しみの種は、時間とともに実を結び、さらなる暴力を引き起こします。そして、イエスのことばは、当時のユダヤ人が暴力によってローマ軍を追い払おうとして、自分の国を滅亡させることになるという冷静な政治的な発言であったとも理解できます。事実、皮肉にも二千年前のユダヤ人は、ローマ軍に対するテロ活動で、ローマ皇帝軍の介入を引き起こして、それから二千年間近く流浪の民とされることになりました。

 しかし、「剣を取る」ことが、常に悪かと言えば、そうとも言い切れないところがあります。2022年2月24日に、ロシアは「特別軍事作戦」と称して、ウクライナへの全面侵略を開始しました。あのとき、多くの世界中の人々が、「ウクライナという国が無くなるかもしれない……」と心配しました。しかし、ウクライナの人々が命がけで抵抗し、それに西側諸国の軍事支援が加わって、今も国が保たれています。そのとき、ウクライナに宣教師として派遣されていた船越先生ご夫妻は、周りの人々の勧めに逆らって、敢えてウクライナに残ることを決意され、それによって多くのウクライナの方々から受け入れられ、今もすばらしい働きを展開しておられます。現在、彼らは傷病兵の霊的なケアーにも心を注いでいます。
 でも、そこで船越先生ご夫妻は、「剣を取る者はみな剣で滅びます」という説教をできるでしょうか。なぜなら、あのときウクライナの人々が「剣」を取ってロシア軍に立ち向かわなければ国がなくなっていたはずだからです。
 よくよく見ると、イエスのペテロに対することばは、武力による解決の全面否定ではありません。イエスは、必要ならば、「十二軍団よりも多くの御使い」を天の父から送ってもらって、敵を打ち破ることができると言っておられるからです。ですから、確かに、「神のみこころに沿った戦い」というのは、あるとも言えましょう。ただ、それを絶対化すると、ハマスと同じように、イスラエルという国をせん滅することが「アラーのみこころ」ということになって、戦争犯罪を正当化することにもなり得ます。そして米国もイスラエルも、全面的な軍事行動をあくまでも正当化している点では同じ矛盾を抱えているのかもしれません。

 ディートリッヒ・ボンヘッファーというドイツの神学者は、第二次大戦開戦直前、米国への亡命が認められながらも、敢えて、ドイツに帰国して、ついにはヒトラー暗殺計画に加わり、それが失敗して、終戦直前に絞首刑にされます。この行動の正しさを巡ってボンヘッファーの評価は分かれます。しかし彼は、自分の行為を決して正当化しようとはせず、この罪の責任を自分で負うと言っています。ただ彼としては、「苦しむ者との連帯を拒否して」、自分の身の安全を守ることは別のより大きな罪になると自覚し、「殺人機械から運転士を引き離す」、つまり、ドイツの軍事力を殺人機械のように使う指導者ヒトラーを、そこから引き離すことによってしか、世界を守ることができないという思いで、この暗殺計画に加わったと言われます。ボンヘッファーは自分の行為を正当化できないと思いながらも、それを避けることはより大きな罪を犯すことになると感じてこれに加わりました。今も、彼の行動を正当化して良いかの判断は分かれます。
 しかし、ここで絶対に忘れてはならないことがあります。それは、ボンヘッファーは米国への亡命のチャンスを自ら捨てて、矛盾のただ中に入って行ったということです。同じように船越先生ご夫妻も、当初の国外退避の要請を断って、ウクライナの地に留まり、ウクライナの人々とともに苦しもうとしておられます。私たちは、問題から離れた地に自分の身を置くことによって、自分を正当化できます。しかしそのような傍観者意識こそが、この世界の問題を広げていると言えないでしょうか。周りの人々から批判されようとも、「私は、こうするしかない……」という謙虚な思いで行動する人の中に、御霊の導きがあるような気がします。