自分の意思を殺すのが信仰なのか——宗教2世の問題〜箴言16:9

先日、とっても考えさせられるドラマを見ました(録画)。宗教二世「神の子はつぶやく」というNHKスペシャルのドラマです。取り上げられているのはエホバの証人の家庭です。ご覧になることはお勧めしませんが、 で内容を知ることができます。

「宗教は怖い……」というイメージが満載です。当教会が1989年に立川通りで礼拝を始めたころ、英会話伝道やカウンセリングで多くの未信者の方が教会に足を踏み入れてくれました。しかし、1995年3月のオウム真理教による地下鉄サリン事件でぱったりと未信者の来会が止りました。それは驚くほどの変化でした。

昨年の統一協会、今年はエホバの証人などを巡って「宗教二世」はかわいそうというイメージが広がっています。そして連日のニュースでは、イスラエルの問題が宗教戦争かのように報じられることがあります。宗教は自分の意思を殺し、他の人を殺すことまで正当化できる……というイメージが日本中に広まっています。何が問題なのでしょう……

そのドラマでは、すべての祈りを締めくくることばが、「みこころのままに」という言葉です。私たちの場合は、「イエスの御名を通して、自分の願いごとを表現する」という感じのところが、初めから、「自分の意思を殺す……」というニュアンスになります。

キリスト教会においても、「自分の肉の思いを殺す」「自分の意思ではなく、神の意志を……」という訴えがなされますが、そこにはいつもバランスがあります。たとえば、「自分は伝道者にだけはなりたくはなかったけど、神の不思議な導きで……」というのが美談とされる場合があります。でも、僕の場合は、心から伝道者になりたくて、野村證券のドイツでのある意味で充実した仕事を辞めると決めました。確かに待遇も良く、ヨーロッパに広がる楽しい生活もあったので、「もったいない……」という見方もできました。

ただそれは、決して、自分のやりたいことを諦め、しぶしぶ、神のみこころに従ったというわけではありません。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」(ピリピ2:13) と記されているように、「やりたい」という「志」を立てさせてくださったのは、神であると信じています。

箴言16章9節にも次のように記されています

人は心に自分の道を思い巡らす。
しかし、主が人の歩みを確かにされる。

ここでも「自分の道」を「思い巡らす」ことから、主がその後を導いてくださるという流れになっています。

伝道者の書11章9節(私訳)のことばは感動的です

若者よ。あなたの若さを楽しめ。
若い日にあなたの心をしあわせにせよ。 
あなたの心にある道とあなたの目に映るところに従って歩め。
ただ、神は、これらすべてにおいて、
さばきを下されることも知っておけ。

つまり、信仰の歩みとは、自分の心の奥底から湧き上がる思いを、最初から否定したり、押さえつけることではなく、そこに神の導きがあるかもしれないことを優しく受け止め、その思いを、創造主に正直に訴え、主との対話の中で、歩みを進めることなのです。

もちろん、その主との対話のプロセスの中で、多くの計画は変えられてゆきます。ただ、そこで初めて出て来ることばが、「みこころのままに」なのです。最初から、自分の気持ちにふたをして、「みこころのままに」ということは、自分を意思のないロボットに辱めることに他なりません。先のドラマでは、自分の正直な気持ちを認めることも表現することもできなくなった宗教二世の心の葛藤が描かれていました。

そして、宗教一世である親も、しばしば、「神への恐れ」を、健全な意味での畏敬の念ではなく、「みこころに背くと、神の罰が下る」という恐れを感じ、その気持ちを子どもに伝える場合があります。

主のさばきに対する「恐れ」は確かに大切ですが、そこには、主の驚くべき恵みがすでに与えられている……という、圧倒的な恵みが常に先行します。そこでの「主のさばき」に関しては、今度の日曜日のローマ人への手紙2章1–16節から驚くべきことが示されます。ご期待ください。

さらっと読むと、主のさばきが前面に出ているように見えますが、丁寧に読むと、「これほど主が豊かな恵みとあなたへの救いのご計画を備えていてくださるのに、それを軽んじてよいのですか……」という、主ご自身の熱い思いが伝わってきます。

福音を伝えるとき、「最後の審判」から入ると、信仰の決断を促しやすい……という利点があるのかもしれません。しかし、それは、恐怖で心を操作するという恐ろしい歩みの始まりかもしれないと思います。それよりも、今ここで、主が歩んでくださり、あなたの思いを受け止め、あなたの人生を輝かせてくださるという、今、ここにある恵みに焦点を合わせることの方がずっと大切だと思います。

脅しによって心を縛られた宗教二世……それは、心の自由を尊重する私たちの信仰とは対極にあるものですが、世の人々にとっては、同じに見えます。私たちの福音の分かち合い方が問われています。