イザヤ57章15節〜59章4節「混乱したこころを神に開く幸い」

2023年11月26日

ある教会の青年が、「教会で出会う人たちは、みんな神を身近に感じているように見えるけど……」と自分の不信仰を恥じていました。私はとっさに、「みんな、信仰生活が長くなるにつれ、クリスチャンらしい言葉使いや、振舞い方が身についているだけで、心の内側はあまり変わっていないと思うよ……」と言ってしまいました。

すると彼は、「あっ、そうなんだ……」と笑っていました。ただ同時に、「不信仰だからこそ、教会に来るのです。その習慣化も大切です」とも付け加えました。

実は、信じたばかりのときの方が、信仰が純粋かもしれません。そのとき、本当に素直に自分の罪と無力さを認め、創造主の前に自分のこころを開いていたのではないでしょうか。しかし人は、信仰生活が長くなるほど、見せかけがうまくなります。

黙示録2章1–5節で、創造主は「エペソにある教会」が、偽りの教えを見破り、厳しい迫害にも耐えていることを称賛しながらも、「あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい」と厳しく迫っておられます。

それは多くの日本の教会にも適用できます。なぜなら、日本人はその場その場の空気を読んで、それに合わせた行動がとれるように小さなころから訓練されているからです。

エデンの園でのアダムの罪の結果は、まず神から自分を隠すことに現れました。それに対し、信仰の成長の鍵は、自分の偽善性を認めることにあるのではないでしょうか。

1.「悪しき者は……鎮まることができず……平和がない」

57章15節では、主(ヤハウェ)のみ教えの核心が、「わたしは高く聖なる所に住む。砕かれて、へりくだった霊とともに。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすため」と語られます。

人の目には低い所に「高く聖なる神」がいてくださるという神秘が、「悲しみの人で、病を知っていた」(53:3) と描かれた「主 (ヤハウェ) のしもべ」であるキリストにおいて明らかにされました。

しかも主は、「永遠にわたしは争わず、いつまでも怒ってはいない。それは、霊がわたしの前で(わたしから出た霊が)衰え果てるから、わたしの造ったいのちの息が」(57:16) と言われます。これは子供を叱責する親の気持ちに似ています。子供が心の底から反省するように厳しく問題を指摘したいと思いますが、生きる気力をなくするほどに追い詰めてしまっては本末転倒です。

そこでの主ご自身の葛藤が、「不正な利得の咎のためにわたしは怒った。わたしは顔を隠して彼を打ち、怒った。しかし彼はなお背いて、自分の思う道を行った。その道をわたしは見たが、彼を癒そう」(57:17、18) と言われます。ここでは不思議にも、「不正な利得の咎」のために主の怒りを受けながらも、自分の道を改めようとしない頑なな者をさえも、主が癒してくださると約束されています。

そして続けて主の癒しの方法が、「彼を導き、彼とその悲しむ者たちに慰めを回復させよう、唇(くちびる)の実を創造することによって」(57:18、19) と記されているのだと思われます(翻訳困難)。「唇(くちびる)の実」とは「賛美の歌」とも解釈でき、多くの信仰者は深い悲しみに沈むようなとき、それによって慰めを受けています。霊的な名曲は多くの場合、絶望的な状況の中で、神からの不思議な啓示のように、一瞬のうちに生まれます。それはまさに神の創造のわざです。

私たちは信仰を回復した結果として、「唇(くちびる)の実」としての賛美を献げることができるようになるのではなく、神によって創造された賛美の歌が、私たちの信仰を回復させてくれるのです。そのことが「大いなる会衆の中でのわたしの賛美は あなたからのものです」(詩篇22:25) と描かれます。

そしてそれをもとにヘブル人への手紙では、新約時代の「いけにえ」が、「ですから私たちはこの方(イエス)を通して、賛美のいけにえを絶えず神にささげようではありませんか。それは、唇の果実であり、この方の御名を告白するものです。善い行いと、分かち合うこと(コイノニア)を忘れてはなりません。そのようないけにえこそ、神に喜ばれているからです」(13:15、16私訳) と描かれています。

そのことが、「『平和 (シャローム) が、平和 (シャローム) があるように、遠くの者にも近くの者にも』と主 (ヤハウェ) は言われる、『わたしは彼を癒す』」(57:19) と記されます。これは「砕かれ、へりくだった霊」(57:15) への語りかけです。

そしてそれと正反対な状況が、「しかし悪しき者は、荒れ狂う海のようだ。それは、鎮まることができず、その水は海藻と泥を吐き出すからである。『平安(平和:シャローム)がない』と私の神は言われる、『悪しき者には』」と記されます (57:20、21)。

原文では「悪しき者」(複数形)ということばが、この文書の初めと終わりに記されますが、彼らはこの世的には「有能な善人」として見られるのかもしれません。しかし、彼らは自分の力で生きようとして神を求めないという意味で、「悪しき者」と呼ばれるのです。

つまり、「私は神の助けがないと生きて行けない……」と思う人が「正しい人」で、「神に祈らなくても、どうにかやって行ける……」と思う人こそが「悪しき者なのです。その差は、主の前に静まろうとするときに現れます。

少なくとも私は気分が落ち込むとき、ドイツでは制限時速のないアウトバーンを時速180キロで愛車BMWを走らせ、トヨタやVW車を追い抜いて気分を高め、神学校で学ぶようになっても、神学議論で仲間を圧倒することで心の平衡を保とうとしていました。

当時の私は、静まろうとすると、心の奥底に押し込めていた不安や怒りなどのマイナスの感情が沸きあがって来るばかりでした。その頃の私は、「この世で成功することが証しになる……」などと強がり、自分が善意で行動しながらも、人を傷つけてしまう者であることが分かっていませんでした。

ところが、牧師としての働きに悩み、自分の中には神に喜ばれる信仰すらもないということが思い知らされ、静まることができない自分を、イエスにあって受け入れることができたとき、静まることが苦痛ではなくなりました。

神の目からは、自分の気持ちに蓋をしていることができるような「この世の善人」こそが「悪しき者」なのです。その隠された正体は、静まろうとするときに明らかになります。

では、そのようなときに、どのようにしたら静まることができるのでしょう。それは、たとえば、「主よ、私は静まることができません!」と告白することから始まるかもしれません。また、「主よ、私は、このことが気になってたまりません……」「主よ、私の心にはこんな醜い思いが湧き上がっています……」と、湧き上がるすべての思いを正直に打ち明ければ良いのです。

なぜなら聖書で描かれた「悪しき者」とは、自分で自分の問題に整理をつけようとする人のことであり、「正しい人」とは、自分のすべての問題を主に祈ってゆく人のことだからです。

また多くのまじめな信仰者は、自分の心の闇に圧倒されることがあるかもしれませんが、解決は簡単です。正直にその葛藤を告白し、祈りの最初か最後に、「主よ、どうしましょう……」と付け加えればよいのです。

そのようにして自分の心の内側にあるすべての醜い思い、抑圧された不安などを、一つひとつ主に明け渡して行くとき、結果として、「すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:7) という不思議を体験することができます。

2. 「わたしの好む断食とはこれではないか……」

58章初めで、主(ヤハウェ)は著者である預言者イザヤに、「精一杯大声で叫べ……わたしの民にその背きを、ヤコブの家にその罪を告げよ」と述べます。

そしてその直後に、皮肉を込めて、「(ところが、)このわたしを、彼らは日ごとに求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行なっている国であるかのように、神の公正を捨てたことのないかのように」(58:2) と言われます。

なぜなら、彼らは自分たちの偽善を認めずに、主に向かって「なぜ、私たちが断食したのに、ご覧にならず、身を戒めたのに、認めてくださらないのですか」(58:3) と、自分たちの信仰深さを訴えているからです。

これはレビ記16章29節に描かれた年に一度の「贖罪の日」を指しますが、預言的にはゼカリヤ8章19節に描かれる年に四回、バビロン捕囚を覚える「断食の日」を指すと考えると臨場感が生まれます。第四の月にエルサレム城壁が崩れ、第五の月に神殿が廃墟とされ、第七の月に総督が過激派に暗殺され、第十の月(前年)にはエルサレムが包囲されたことを思い起こし、自業自得の罪でこの悲劇が起きたことを反省し、ダビデ王国の再建を願いました。

それに対して主(ヤハウェ)は、「見よ。断食の日にあなたがたは自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる(圧迫している)。見よ。争いとけんかのためにあなたがたは断食をしている、不法に拳(こぶし)で殴るためだ」(58:3、4) とその偽善を責めています。

その上で、彼らの断食をあざ笑うように、「あなたがたが今のように断食するのでは、いと高き所に、その声は届かない」(58:4) と指摘しながら、彼らの断食が心の伴わない外見を整えるだけの空しい儀式になっている様子を描いています (58:5)。

これは、まさにイエスの時代のパリサイ人の姿そのものです。彼らは主を全身全霊で愛しているように見せかけてはいますが、それは主に対して自分の敬虔さをアピールする手段にしかなっていませんでした。

そればかりか身近な人の苦しみを見て、「あれは自業自得だ……神にのろわれているのだ……」と軽蔑していました。事実、生まれつき盲目の人が、安息日にイエスに癒されたことの恵みを証ししたときに、彼らは「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」と軽蔑して責めました (ヨハネ9:34)。

そのような偽善に対し、主(ヤハウェ)は「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みる(直訳「から身を隠さない」)ことではないか」(58:6、7) と仰せられます。

それは、主のあわれみを知ることこそが主を愛することの核心ですから、主を愛することと隣人を愛することは、本来必ず並行して進むはずだからです。

実際イエスは、何度にもわたってイザヤとほぼ同じ時代に記されたホセア6章6節を引用しながら、パリサイ人に向かって、「『わたしが喜びとするのは真実の愛(引用元のヘブル語では「ヘセド」)。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」と言われました。それは、神の真実の愛(慈愛、あわれみ)を知ることこそが信仰の核心であると、彼らの聖書解釈を正すことでした (マタイ9:13、12:7参照)。

そして、隣人愛の伴った礼拝をするときの希望が、「そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復(健やかさ)速やかに起こ(現れ)る。あなたの義があなたの(顔の)前を進み、主 (ヤハウェ) の栄光が、あなたのしんがりとなる」と記されます (58:8)。

神に属するはずの「光」「回復(健やかさ)」「義」「栄光」という四つのすべてが私たちを「取り囲む」というのです。かつて、「主 (ヤハウェ) があなたがたの前を進み」と言われたことばが「あなたの義があなたの前を進み」となり、「イスラエルの神が……しんがりとなる」が、「主 (ヤハウェ) の栄光が」と言い換えられています (52:12参照)。

つまり、そのとき私たちは自分の良心に恥じないことを堂々と行い前進しながら、私たちの後には、自分の栄光ではなく、「主 (ヤハウェ) の栄光」が見られているという真の証しの生活ができ、福音が広まってゆくのです。

これをもとに使徒パウロは、「キリストの愛が私たちを取り囲んで(捕らえ、駆り立てて)いるからです……ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、そこには新しい創造があります(その人は新しく造られた者です)」(Ⅱコリント5:14、17別訳) と記しています。

しかもそこで、「そのとき、あなたが呼ぶと主 (ヤハウェ) は答え、び求めると、『わたしはここにいる』と言われる」という主との親密な交わりが回復されます (58:9)。

またそれに続いて、6節以降のことが言い換えられながら、繰り返され、「もし、あなたの間から、くびきを除き去り、虐げの指をさすことや、邪悪なことばを取り去るなら、また、飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる」と美しく描かれます (58:9、10)。

イエスは、ご自身が終わりの日のさばきの座に着かれる時、「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタイ25:40) と、貧しい人を助けることとイエスに仕える事を切り離せないことと言われました。マザー・テレサは、このみことばをもとに「神の愛の宣教者会」を始めました。

しかも58章11節では、「真昼のようになる」ことが、灼熱の太陽をイメージさせることがないように、「主 (ヤハウェ) は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でもたましい(新改訳2017年版「食欲」)を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の枯れることのない源のようになる」とも言われます。

ここでの「たましいを満たし」とは、どのような厳しい状況に置かれていても、神ご自身がたましいの奥底に喜びと潤いを与えてくださることを意味します。それはあなたにエデンの園の祝福が回復されることです。

これをもとにイエスは、サマリヤのスカルの井戸で、孤独なひとりの女性に、「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4:13、14) と言われました。

この新訳の時代、私たちはいつでもどこでも主(ヤハウェ)の御名をイエスにあって「呼ぶ」、また「叫び求める」ときに (58:9)、いのちの喜びを体験することができます。いのちのみなもとである聖霊ご自身が宿っているからです。

また、「あなたがたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、代々に先立つ礎をあなたが築き直し、『破れを繕う者、市街(通り)を住めるように回復する者』と呼ばれる」(58:12) と約束されていますが、これは、彼らが今まで、神の目からは町の破壊者、破れを広げる者であったのと対照的です。

3.「そのとき、あなたは主 (ヤハウェ) をあなたの喜びとする」

そして最後に、主(ヤハウェ)は安息日律法の回復を勧め、「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄(は)えある日』と呼び、これを尊んで自分の道を行かず(新改訳第三版「旅をせず」)、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは (ヤハウェ) をあなたの喜びとする。それは、『わたしは地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地で養う』と主 (ヤハウェ) の御口がそう語られるから」(58:13、14) と記されます。

これは、安息日を守ることによって、ダビデ王国が回復されるとも解釈できます。ただし、このみことばをもとに、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちは、安息日を守ることに必至になり、たとえば、敵の攻撃を受けるような中でも礼拝をし続けて剣で殺されたということが美談になるほどでした。そのような中で、安息日に歩くことが許される距離を規定するなどという聖書にはない戒律を数多く作るようになりました。

そしてそのような表面的な熱心さを求める中で、先の「断食」の場合と同じように、貧しい人々がかえって苦しむということが起こっていました。ところがこのイザヤの記述では、安息日に関して「喜びの日」「栄(は)えある日」という祝祭の面ばかりが強調されています。

イエスが安息日に敢えて人々を癒されたのは、そのような安息日の喜びを回復するためでした。一方、イエスの時代のパリサイ人は、ローマ帝国の支配という現実を憎みながら、ダビデ王国の復興を夢見ていました。

しかし安息日は、神が既に創造してくださった世界を「喜ぶ」ことを何よりも大切にしながら、同時に、様々な世界の悲惨にしっかり目を向けて「私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています」(ローマ8:23) と描かれる日です。

本来の安息日には、喜びと悲しみが同居します。喜びの反対は、悲しみや「うめき」ではなく、無感動ではないでしょうか。パリサイ人は、生まれつきの盲人の目が開かれたときに、感動する代わりに、イエスが安息日に医療行為という労働をしたと責め立てました。

私たちに求められているのは現状を正そうと頑張る前に、世界の問題を冷静に観察し、そこで「うめいて」、その問題を創造主に祈って委ねることです。

ただそれと同時に、主ご自身が「わたしは新しい天と新しい地を創造する……だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」(65:17、18) と約束されたことに思いを向けて、今始まっている「新しい創造」をそこで「喜ぶ」ことです。

安息日にすべての労働から身を引く必要があるのは、神の恵みを思い起こし、神のみわざに心を開くためです。そしてそれこそが、他の六日間の仕事をより充実したものにすることにつながります。それは、日々の仕事を、創造主からの課題として受け止められるからです。

59章初めでは、「見よ。主 (ヤハウェ) の手が短くて救えないのではない。その耳が重くて(遠くて)、聞こえないのではない。それはむしろ、あなたがたの咎が、あなたがたとあなたがたの神との仕切りとなり、その罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(59:1、2) と記されます。

ここでは「救い」が何よりも、「咎」と「罪」の問題が解決され、神との交わりが回復されることにかかっていると説明されています。人が絶望的な状況になった時、目の前の問題を解決することに夢中になる傾向がありますが、何よりも大切なのは、すべてを支配しておられる創造主との関係をきよく保つことにあります。

それは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31) と記されている通りです。神にとって不可能なことはありません。問われているのは、その方が味方になってくださっているかという、神との関係です。そして、イエス・キリストが十字架で成し遂げてくださった神との和解こそ、この問いに対する答えでした。

その上で、59章3、4節ではイスラエルの民の流血の罪の現実が生々しく描かれています。特に「義をもって訴える者はなく、真実をもって弁護する者もいない」とは、人々が自分の身を守ることばかりに夢中になり、人の権利が踏み躙られている状態を見過ごす現代の日本にそのまま適用でします。

積極的に人を傷つけはしない人でも、この点では自分の正義を主張できなくなる人が多いのではないでしょうか。

そこでは続けて、「空しい(不毛な)ことに頼り、嘘を言い、邪悪をはらみ、不正(不義)を産む」(59:4) と記されますが、問われているのは、そのような偽善を素直に認め、神の前に自分たちの罪を告白することです。人は自分を正当化する議論ならいくらでもできますが、それこそが「空しい(不毛な)」ことです。

その結果、人は心の奥底に「邪悪をはらみ」、「不正(不義)」を産むことになるのです。大切なのは、何よりも、神の前で自分の心を開いてゆくというプロセスではないでしょうか。最初の人間アダムは、明白に神の命令に背いていながら、自分の罪を認めることができませんでした (創3:12)。

イエスの時代のパリサイ人も、自分を正当化することに長けているばかりでした。主の御手を妨げる最大の罪とは、自己義認です。自分の罪と咎と偽善、醜い思いのすべてを認めることができないことこそが、最大の救いの障害になるのです。

創造主の前に心と思いを開くとは、秋の優しい光の下での日光浴のようなものです。私たちは自分の心の傷も、疑いも、罪責感も、恥の思いも、すべて神の愛の光のもとに開いて行くことができます。

そこで、イエスの十字架に思いを向けると、このままの私たちに神が大きな口付けをしてくださっているのがわかります。信仰の核心とは、問題を抱えたままのこの私が神の愛の光に捕らえられていることを覚えることに他なりません。そしてその神の愛の眼差しをもって、自分の隣人を見るようになることです。

そこから真の隣人愛が生まれます。信仰的な強がりや自己義認の思いで、神の愛の光を遮(さえぎ)ってはなりません。