神をだれになぞらえ、似せるのか〜イザヤ40:18、25

昨晩、スポーツクラブで音楽に合わせて踊りながら、自分の上達の遅さを思い知らされました。そして、ふと、自分の信仰の成長はどうだろうか……と思ってしまいました。そして明け方、不思議な夢を見ました。

神が、いろんな人々を招いて、ご自身の栄光を見せてくださり、それをどのように表現し得るかを尋ねられました。

みんな答えに窮しましたが、ある人々は地上に降って、神の栄光を見せてもらったこと自体を自慢するように話し、人々が神の栄光を現すことができるような立派な像を作るように励ましました。

そのような中で、ふと僕には以下のイザヤ書のことばが思い浮かびました

あなたがたは神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか……わたしをだれになぞらえ、だれと比べようとするのか。
イザヤ40:18、25

神の栄光を証しできるような信仰の成長……という自意識の危なさを改めて気づかされました。

そして、以下のみことばが、改まって心に迫ってきました

主はあなたに告げられた。
人よ、何が良いことなのか、
主があなたに何を求めておられるのかを。
それは、ただ公正を愛し、誠実を愛し、
へりくだって、
あなたの神とともに歩むことではないか。
ミカ6:6

この世では、何かに熟練して、成長することが賞賛されますが、「神のかたち」として生きる……という生き方で、何よりも大切なのは、自分を忘れるということかなと改めて、「夢のお告げ」を受けた気分です。

人は、神に似せて、神のかたちに創造された……ということをずっと思い巡らし続けています。偶像礼拝の愚かしさは、自分自身が「神のかたち」として、神を目に見えるかたちで現わすように生かされているのに、それを何かの像にして表すことで、神と自分を辱めることになるからです。でもそれが、「自分の生き方で神の栄光を現せるように成長しよう……」などという自意識過剰になるなら、本末転倒になるかな……と思わされました。