私は大学の交換留学制度によって約一年間の米国留学中に、イエス様を自分の人生の主とする信仰告白に導かれました。その時点では聖書をほとんど読んだことがありませんでした。旧約聖書の構成など知りもしませんでした。
キャンパス・クルセードという熱い伝道団体の宣教師が提示する「四つの法則」という薄く小さいガイドに従って、「イエス様を信じたら、救われる」と聞いて、決心の祈りを導かれました。
そのとき「信じる」とか「救われる」ということばがどれだけ深い意味を持っているかなど知りもしませんでした。
単純にこれから「イエスにすがって生きる」ことで、この世のしがらみや同調圧力から自由になれるのではないかと期待できました。つまりその時点でも、本質的なことは捉えられていたのだと思います。
福音は単純です。しかしそこに私たちの人生を変える真理が秘められています。そのすべては、イエスがどのような方で、どのような生き方を示されたかという、イエスを知ることの中に凝縮されています。
1.この手紙の背景
パウロは第三回目の伝道旅行の最後のコリント滞在中にこの手紙を書きました。それは使徒の働き20章2、3節に示唆されている紀元57年頃でした。
彼はまだ一度もローマには行ってはいませんでしたが、そこに生まれたキリスト者の交わりのことは聞いていました。それは、エルサレムで福音を聞いたユダヤ人が始めた集まりだったでしょうが、紀元49年にユダヤ人が一時的にローマから追い出されることがあり (使徒18:2)、ローマ教会の中心は異邦人クリスチャンが大多数になって行きます。
その後、多くのユダヤ人が再びローマに戻れるようになる中で、ユダヤ人クリスチャンの人数も増えます。そこにエペソでパウロから福音を聞いたアクラとプリスキラも含まれます (使徒18:2、ローマ16:3)。
ただそこで、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンの間に軋轢が生まれます。そのことが、14章1節の「信仰の弱い人を受け入れなさい」ということばの背景にあります。それは、ユダヤ人の食物律法などの習慣を引きずっているユダヤ人クリスチャンを、「信仰の弱い人」と敢えて逆説的に呼ぶことによって、彼らを受け入れるようにという勧めです。
パウロは、本当はすぐにでもローマに行きそこからローマ帝国の最西部のスペインにまでの伝道を考えていました (15:23、24)。ただこの時は、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンを和解させることに命を懸けて、エルサレム教会にギリシア人クリスチャンから集めた献金を自分で届けようと必死になっていました (15:25–27)。
ガラテヤ書やコリント書の場合は、パウロがすでに福音を直接伝えた上で、そこで起きた疑問に答えるように記されています。しかしこの手紙は、彼がまだ会ったことがない人々が大多数を占める教会に、まず福音の基本を明らかにする必要も示されて書かれています。
しかもこの手紙が記された時に、人々が手にしている聖書は旧約しかありません。このような事情を理解しないとこの手紙で記されている福音の核心を読み間違えてしまいます。すべての手紙の背景にはその教会固有の問題があります。
2.「信仰の従順をもたらすため」
最初にパウロは自身のことを「キリスト・イエスのしもべ、召された使徒、神の福音のために選び出された者」と紹介し、その「福音」の由来を「(神が)あらかじめ約束されたもの、ご自分の預言者たちを通して聖書の中に」(1:2) と記します。
さらにその内容を「それは御子に関することで、この方は肉によればダビデの子孫として生まれた方、また聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力とともに神の御子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです」(1:3、4) と記します。
つまりイエスは、人としてはダビデの子であり、神の子として公に示されるためには身体の復活が必要であったと描かれているのです。
使徒の働き13章33節ではパウロの語った福音が、「神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、『あなたはわたしの子、わたしが今日、あなたを生んだ』と書かれているとおりです」と記されています。
そこでの『生んだ』とは、王として即位させたという意味で、イエスが王として、全世界を「鉄の杖」で力強く従えることを指しています (詩篇2:7–9)。そこにはイエスが全世界の王として、神の敵をさばく再臨のときのことまでもが示唆されています。
さらに1章5、6節では続けて、「この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人(あらゆる国の人々)の中に信仰の従順をもたらすためです。それらの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました(あなたがたはイエス・キリストによって召された人々です)」と記されます。
つまり、宣教の目的は、より多くの人を天国に導くという以前に、人々を「王なるイエス」に対する「信仰の従順」へと導くためなのです。この手紙の最後の16章26節でも、旧約の預言の奥義が啓示された目的が、「すべての異邦人に信仰の従順をもたらすため」と記されています。
「従順」のギリシア語は「聴く」の派生語で、そこにはすべてのユダヤ人が暗唱しているはずの、「聞け、イスラエルよ。主 (ヤハウェ) は私たちの神、主 (ヤハウェ) は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい」(申命記6:4、5) があると思われます。
とにかく、「イエスを救い主として信じるだけで天国に行ける」というような表現には、時に注意が必要です。「信じる」という中には、「よく聞いて、愛して、従う」という私たちの全存在がかかっているからです。「善い行いができなくてもよい」ではなく、「福音」の中には、この地でイエスに「従う」という「愛の行為」を生み出す「力」が込められているのです。
そして、1章7節になって初めて手紙の宛先と最初の祝福の挨拶が「すべてのローマにいる、神に愛され、召された聖徒たちへ。恵みと平安があなたがたにありますように、私たちの父なる神と主イエス・キリストから」と記されます。
パウロはこの手紙をすべてのローマにいる「神に愛され、召された聖徒」に向けて書いていますが、それはそのまま私たちに適用できます。私たちすべてが「神に愛され、召された」ことによって「聖徒 (saints)」とされているのです。
カトリック教会では、特別に聖人として教会で認められた人を「聖人」と呼びますが、すべての召された信仰者は「聖人」なのです。ひょっとしたら私たちは互いを呼ぶときに英語での Mr. とか Mrs. の代わりに「聖……」と呼び合っても良いのかもしれません。
しかもパウロは手紙を書く場合にも「恵みと平安」を祈っています。ギリシア語訳聖書で「恵み(カリス)」と訳されている旧約の言葉は多数ありますが、その基本は、特別に選んで恩恵を施すという意味があります。それは神の救いがすべて神に一方的な選びから始まることを示唆します。
そして「平安」とは明らかにヘブル語のシャーロームの訳として用いられていることばです。これは神の救いの計画のゴールを表すことばです。
エペソ書やピリピ書など他のパウロの手紙では、この手紙の1節と7節のことばが続けて記されています。ですから新改訳でも共同訳でも、2–6節が罫線で挟まれるように記されています。
つまり、パウロは手紙の最初の定型文の中に、この手紙の要約を記すかのように、自分の福音理解の核心を熱い思いで記したと言えましょう。そこに、「信仰の従順をもたらすため」ということばの重さが込められています。
3.「それは御霊の賜物(カリスマ)をいくらかでも分け与えるため」
1章8節でパウロは、「まず初めに、私の神に感謝します、イエス・キリストを通して、あなたがたすべてについて。それは全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです」と記します。彼はまだ会ったことのないローマの教会の人々の信仰を伝え聞いて、神に感謝をしていることをまず述べます。
続けて、「神が私の証しです、その方に私は霊において(心から)仕えています、御子の福音に」と述べています。
その上でその内容を「私は絶えることなくあなたがたのことに思いを向けています。祈るときにはいつも願っています、神のご意思(みこころ)によって、今度こそ道が開けて、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと」(1:9、10) と記します。
ここにローマ教会を一日も早く訪ねたいという彼の熱い思いが記されています。
さらに続けて、「私はあなたがたに切に会いたいと望んでいます、それは御霊の賜物(カリスマ)をいくらかでも分け与えるためであり、それによってあなたがたを強くする(確立する)ためです」(1:11) と記されます。
「賜物(カリスマ)」とは「恵み(カリス)」の派生語で、「恵みの具体的な現れ」としての何らかの働きが意味されますが、12章6–8に記された具体的な「預言」「「奉仕」「教えること」「奨励」「指導」「慈善」などの働き以前に、ローマにいる信徒たちの「信仰で不足しているものを補う」(Ⅰテサロニケ3:10) ことによって、彼らの信仰を「確立する」ということを意味すると思われます。
先にパウロは、自分が神に「霊において(心から)仕えている」(1:9) と記していますが、彼が福音のために自分の心と身体のすべてを献げることができている理由は、そこに聖霊ご自身の働きがあることが示唆されています。聖霊は人の心を動かすのです。
それは旧約の預言の成就の立場から異邦人に聖霊が与えられることの意味を知るということかと思われます。
たとえば、申命記30章6節では、イスラエルの信仰がバビロン捕囚以降に堅くされることが、「あなたの神、主 (ヤハウェ) は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる」と記されています。
つまり、「聞きなさい、イスラエル」以下の命令を実行でるようにするのが「聖霊」の働きであり、そこにキリストの福音の核心があるのです。
また、エゼキエル36章26、27節では、神がイスラエルを回復するときの約束として、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える……わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする」と約束されています。
それは、神が与えた「十のことば」を中心とする律法を守り行うことができるために、彼らに神の霊、聖霊を与え、彼らが自分の心の奥底から神の律法を喜ぶことができるように変えられることを意味します。
1章12節は先の「切に望んでいます」ということに続く内容で、「それはともに励ましを受けるためです、あなたがたの間で、あなたがたと私の互いの信仰によって」と記されています。
それはパウロが御霊の賜物を彼らに分かち合うということと同時に、「互いの信仰」によって、自分と彼らの両方が「ともに励ましを受ける」ということを「切に望んでいる」という意味です。
信仰は相互関係の中で成長するからです。
さらにパウロは、「私はあなたがたに知らずにいて欲しくはありません、兄弟たち、私は何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。それはいくらかの実を持つことができるためです、ほかの異邦人たちとの間でと同じように」(1:13) と記します。
ここで彼は、ギリシアの諸都市における伝道で、多くの実を得ることができたと同じように、すでに教会が誕生しているローマでも同じような宣教の実を見たいという思いが、彼の切なる願いとして記されています。
ここでの「実」とは信者の数が増えるというよりも、先にあった「御霊の賜物が与えられる」結果としての「果実」と言えましょう。私たちは「宣教」の「実」を、「信仰」を「確立(強く)する」という「御霊の賜物」の観点から見ているでしょうか。
4.「義人は信仰によって生きる」=「正しい人は(神の)真実によって生きる」(ハバクク2:4別訳)
1章14、15節は、「ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、私は負い目のある者です。ですから私としては、切望しているのです、ローマにいるあなたがたにも」と記されています。
これは、パウロが初代教会の信仰者を迫害してしまったことから生まれている「負い目」を指していると思われます。
彼はまさに聖霊に動かされて、ローマで宣教することを「切に望んで」いたのですが、同時に、聖霊ご自身がこの時点では、パウロの道を「妨げ」(1:13) ていたのだと思われます。それはエルサレムでのユダヤ人中心の教会が、パウロの働きを十分に理解していないという現実があったからです。
それでパウロは今、ギリシア人の諸教会からエルサレムの聖徒たちのためへの献金を集め、それをエルサレム教会に自分で持って行くことによって、異邦人とユダヤ人クリスチャンを一つにできると考えました。
使徒の働きの終わりは、「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエスのことを教えた」と記されます (28:30、31)。
それはこの手紙を書いた五年近く後のことと思われますが、このときパウロは、ユダヤ人に捕らえられ、ローマ帝国を混乱させるものとして告訴され、皇帝に上訴し、その判決を受けるためにローマに囚人として護送されていました。
パウロがローマに行きたいという願いは、そのような意外な形で成就されることになります。しかし、聖霊はパウロの心の中にローマをぜひとも訪ねたいという熱い思いを与えながら、その道をふさぐことで、彼がこのような手紙を書かざるを得ない状況を作ったのです。
パウロがローマにすぐに行って福音を伝えたら、確かに多くの実を見ることができたでしょうが、そうなればこのような手紙が記されることにはなりませんでした。
ローマ人への手紙こそは、現代の私たちにとって最大の宝となる福音の解説の文書です。私たちの中にも、聖霊は何らかの熱い思いを与えることがあるかもしれません。しかし、それが期待通りに進まないことを通して、その働きが人間的な思いを超えて大きく広がり、より豊かな「果実」を生み出すという不思議を体験できるのではないでしょうか。
1章16節では、「私は福音を恥としません。それは神の力です、それは信じる者すべてに救いをもたらすものです、ユダヤ人をはじめギリシア人にも」と記されています。
「福音を恥としない」と敢えて記されるのは、十字架刑にされた者を「神の子」として人々に語るからです。申命記21章23節には、「木にかけられた者は神にのろわれた者」と記されるように、ユダヤ人にとってイエスの十字架は神に「のろわれた」ことの「しるし」にしかなりません。
しかしパウロはガラテヤ人への手紙3章13節では、「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」と、不思議な論理の展開をします。
その背後には、イザヤ53章10節で、「彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主 (ヤハウェ) のみこころは彼によって成し遂げられる」と記されていたということがあります。パウロはそのように申命記をイザヤ書から解釈したのだと思われます。
なお、4節にあるように、イエスが神の子として「公に示された」のは、死者からの復活によりますが、その復活自体も、世の人々にとっては信じがたいおとぎ話のように聞こえます。
しかし、コリント人への手紙1章18–24節には、「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちにとっては神の力です」と記されながら、イザヤ29章14節のことばが引用され、「神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか……ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、ギリシア人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです」と記されています。
ここでも「福音は……神の力です」という概念が繰り返されます。
そして1章17節には、「それは、神の義がそこ(福音)に啓示されているからです、それ(神の義)は信仰(真実)から(に始まり)信仰(真実)に(進ませます)。それは『義人は信仰(真実)によって生きる』と書いてあるとおりです」と記されます。
これは、マルティン・ルターが、「神の義」ということばに恐怖を覚え、その基準では、自分は地獄に落ちるしかないと怯えていたときに、このみことばによって、福音に啓示された「神の義」が私たちのうちに「信仰」を生み出すとわかったからです。
しかも、そのような福音こそが、「信じるすべての人に救いをもたらす神の力である」と記されています。それこそが宗教改革の原点です。そこでの「神の義」とは「神の救い」と並行して用いられることばで (イザヤ51:6、8等)、神の真実さを表す概念です。
そればかりかここで引用されているハバクク書2章4節のギリシア語七十人訳は、「正しい人はわたし(神)の真実によって生きる」と訳されています。
そしてハバクク書の文脈は、「暴行と暴虐が私のそばにあり、争い事があり、いさかいが起こっています。そのため、みおしえは麻痺し、さばきがまったく行われていません」(同1:3、4) という神の救いが見えない中で、主からの「幻」が示され、そこでその救いの時を静かに待つというストーリーです。
しかもその最後は、「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがない」という大地が不毛になっている状況下で、神の救いの計画が進んでいることを「信じ」、「私は主 (ヤハウェ) にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう」という信仰の応答が記されています (同3:17–19)。
つまり「信仰」とは、目に見える現実の背後に神の救いのご計画を見られることであり、絶望的な状況の中においてなお「喜ぶ」ことができる「力」を私たちの中に生み出す、まさに超自然的な心の働きなのです。
私たちの「信仰」とは、人の心の内側から生まれる信念ではなく、神の「救い」のご計画という「幻」を味わう中から生まれる受動的な応答です。そこには聖霊の働きがあります。
イスラエルの民は、目に見えない創造主を全身全霊で「愛する」ように命じられながら、肉の力ではそれができませんでした。それで、この終わりの日に、神は私たちに「御霊の賜物」を与え、神を愛し、隣人を愛するという「信仰の従順」を与えてくださったのです。
ですから、「信仰」と「行い」を対立的に考えてはなりません。もちろん私たちの信仰は心の奥底での「自分で自分を変えられない」という自己不全感や、ただイエス様に「すがる」しかないという絶望感から始まりますが、そこから生まれる偉大な聖霊のみわざへの期待を忘れてはなりません。