あなたは、「イエスを救い主と信じることによって、何が変わるのですか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょう。
私はしばしば、「どの人の人生にも闇の時期が訪れます。しかし、イエスに信頼する者は、痛み、苦しみ、悲しみの中にも、喜びと平安と希望を見いだすことができます。それを知ることで、損得勘定を超えて目の前の課題に真正面から向かう勇気をいただくことができます」と答えるようにしています。
預言者イザヤは、イエスの十字架への歩みの中に、「ユダヤ人の王」としての威厳を見させてくれます。
1.「彼らは、主 (ヤハウェ) がシオンに戻られるのを目の当たりに見る」
52章3節ではイスラエルの民が神のみこころひとつで、奴隷状態から解放されることが、「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される」と約束されます。
続けて「アッシリア人がゆえなく彼らを苦しめた」と描かれますが (52:4)、それは主ご自身が彼らを懲らしめ、反省させるために行ったことでした。
ただ当時の人々は、エルサレムの滅亡はイスラエルの神、主(ヤハウェ)が無力であった結果だと思うので、主(ヤハウェ)は、「わたしの名は一日中、絶えず侮られている」(52:5) と言われます。
それに対して主の救いが、「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。それゆえ、その日彼らは、わたしが『ここにわたしがいる』と告げる者であることを知るようになる」と描かれます (52:6)。天地万物の創造主に祈りながら、その方に、「ここにわたしがいる」と言っていただけるのは、何という平安(シャローム)でしょう。
52章7節からは詩文になり、その最初は、「なんと美しいことよ、山々の上にあって、良い知らせを伝える者の足は、平和(シャローム)を聴かせ、幸いを知らせ、『あなたの神が王となる(治める)』とシオンに告げる救いを聴かせる」と記されます。
ここでの「救い」とは、今までご自身を隠しておられたイスラエルの神が、「シオン(エルサレム)」から世界全体を「治める」ようになること、「良い知らせ(福音)」とは「あなたの神」の「王」としてのご支配が明らかになることです。
40章9–11節でも「良い知らせ」とは、「主 (アドナイ) ヤハウェは力をもって来られ、その御腕で統べ治める……主は羊飼いのように、その群れを飼い……御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(11節) と描かれます。主(ヤハウェ)の力強さと優しさの両面が人々の目に明らかにされることこそが「良い知らせ」の核心なのです。
そこには、主がこの世界の歴史を導きご自身の「平和(シャローム)」を必ず実現するという希望があります。なお、「その足は、平和を聴かせ」とありますが、パウロはこれを基に「足には平和の福音の備えをはきなさい」(エペソ6:15) と勧めました。私たちは「平和の福音」を身近な人との関係の中で味わい、その「平和」を広げるために召されたのです。
52章8節では、「あなたの見張り人たちの声、声を張り上げ、ともに喜び歌っている。彼らは、主 (ヤハウェ) がシオンに戻られるのを目の当たりに見るからだ」と記されます。それはエルサレムが廃墟とされたのは、主(ヤハウェ)の栄光がエルサレムを立ち去ったからであり (エゼキエル11:23)、その救いは、主の栄光が戻ってくることによって実現すると理解されていたからです (同43:2、4)。
イエスのエルサレム入城こそは、「主 (ヤハウェ) がシオンに戻られ」たということを現すものでした。エルサレムの人々はそのとき、この預言を成就するかのように「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」(マタイ21:9) と「喜び歌い」ました。それはイエスがエルサレムをローマ帝国の支配から贖う救い主だと思われたからでした。
しかし、神はそれ以上に、イエスの十字架と復活によって「悪魔という死の力を持つ者を無力化し、死の恐怖によって一生涯奴隷となっていた人々を解放する」(ヘブル2:14) という不思議な救いを実現してくださいました。イエスの復活こそ、悪魔と罪と死の力に対する勝利です。それこそがイエスのエルサレム入城の結果です。
52章9節では、「エルサレム」が「廃墟」の状態から「贖われた」ことが述べられ、さらにそのような救いが実現した理由が「主 (ヤハウェ) は聖なる御腕をすべての国々の前に顕わにされた」(52:10) と説明されます。
これは40章10、11節では「その御腕で統べ治める……御腕に子羊を引き寄せ」と約束されていたことの成就に他なりません。
またそれは51章9節で「目覚めよ……主 (ヤハウェ) の御腕よ」と訴えられていたことの結果とも言えます。
それがさらに、「地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見る」(52:10) と描かれます。私たちはイエスにおいて実現した「神の救い」をどのようなものとして見ているかが問われています。
52章11節の、「去れ。去れ。そこから出て行け」とは、捕囚の国バビロンを出て、エルサレムに向かって旅をすることを意味します。「汚れたものに触れてはならない……身を清めよ。主 (ヤハウェ) の器を運ぶ者たち」とは、レビ人に対する語りかけです。彼らは主の宮の奉仕に聖別されていたことを忘れ、この世での働きばかりに目が向かっていたからです。
その上で、「慌てて出なくても、逃げるように歩かなくてもよいのだから」(52:12) と勧められているのは、出エジプトの際に食料の準備もできないまま、エジプト人から急き立てられて追い出された (出エジプト12:33、39) こととの対比です。
そこでの安心感が、「主 (ヤハウェ) があなたがたの前を進み、イスラエルの神がしんがりとなられるから」(52:12) と描かれます。私たちも、やがて実現する新しいエルサレムに向かっての旅へと召されていますが、それは「はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白する」(ヘブル11:13) という歩みです。
その旅の成功の鍵は、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2) という勧めにあります。それは自分の中にある不信仰な思いも正直に打ち明けるということも含む歩みです。
その際、自分個人の救い以前に、この世界全体が平和(シャローム)と喜びの完成に向かっているということを覚えるべきです。
2.「見よ。わたしのしもべは栄える」
これに続く箇所は、「主 (ヤハウェ) のしもべの歌」として多くの人々から愛読されてきた所で、旧約聖書しか信じないユダヤ人がイエスを救い主として信じる際に最も多く用いられる預言です。
私たちはこれを最初からキリスト預言として読んでしまいがちですが、もっと原点に立ち返って、私たちと同じ不自由な肉体に縛られていた人間イエスが、このみことばをどのようにお読みになったかを考えるべきでしょう。
イエスはこのみことばをそのまま生きることによって「世界の救い主」になられたということを覚えるべきでしょう。
この歌は、不条理な苦しみの中で、その苦しみに積極的な意味を生み出す力を持っています。
ビクトール・フランクルという有名なユダヤ人の精神科医がウィーンに住んでいました。彼はヒトラーが進軍する前に米国行きのビザを取得していましたが、年老いた両親を残して亡命してよいか迷っていました。
あるとき家に帰ってみると、父親が破壊されたユダヤの会堂の瓦礫から拾ってきた大理石がテーブルの上に置いてありました。そこにはヘブル語のカフというアルファベットが刻まれていました。それは、「あなたの父と母を敬え」の最初のことば「敬え(カベッド)」の最初の文字でした。
彼はこの文字を見たとき、自分の使命は両親とともにウィーンに残ることにあると確信できました。彼は医療技術を用いて秘密警察官の悩みを解決し、両親の抑留を一年間伸すことができたものの、両親とともに強制収容所に抑留されます。
ただそこで彼は医師として、父に最後の痛み止めの注射を打つことができ、「私は、それ以上考えられないほど満足な気持ちであった」と書き残しています。
母はその後、アウシュビッツのガス室送りになりますが、移送直前に母に会い、互いのために祈ることができました。彼は母への感謝の思いを胸に、奇跡的に複数の強制収容所の苦しみを潜り抜け、後にそこでの体験を「夜と霧」などの書物で証ししました。
それは、苦しみの証ではなく、どんな悲惨な状況に置かれても、人間は高貴に、自由に、麗しい心情を持って生きることができるという「神のかたち」に創造された人間の生きる力の証しでした。
それは、「何のために生きるのか……」という問いに答えを持っている人は、最後の瞬間まで、真の意味で生きることができるということの証しでした。彼はその後、この「生きる意味の心理学」によって、多くの人に希望を与えながら、92歳に至るまで幸いな生涯を全うしました。
ヒトラーはドイツ国民の怒りと憎しみとねたみの感情を煽ることによって権力を握りましたが、フランクルは、理不尽な苦しみに耐えることで、「神のかたち」に創造された人間の尊さを証しできました。彼は強制収容所の苦難を通してヒトラーに打ち勝ったのです。
二千年前のイエスの幼児期にも、何千ものユダヤ人がガリラヤ地方で独立運動に参加し、十字架にかけられました。ローマ人にとって十字架は、法の秩序と平和を守らせるための脅しのシンボルでした。しかし、その脅しは、キリストとその弟子には通用しなくなり、ついにはローマ帝国自体が十字架にかけられたイエスを救い主と信じるようになりました。
イエスの受難のシーンには、真の王者の姿が描かれています。ハエを殺すように人を殺すことができたローマの百人隊長はそれに気づきました。なぜなら、真の王の権威とは、民を救うためには自分のいのちを差し出すことができるという生き様に現されるからです。
52章13–15節こそ、この主のしもべの歌の勝利を示しています。そこには、「見よ。わたしのしもべは栄える。高められ、上げられ、はるかにあがめられる。多くの者があなたを見て唖然とするほどに、その見ばえも失われて人のようではなく、その姿も人の子らと違っていたのだが……。
そのように、彼は多くの民を驚かせ、王たちはその前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ」と記されています。
これをキリスト預言として見るとき、イエスの復活と天の御父のもとへの昇天という勝利の歌から始まっていると言えます。「主 (ヤハウェ) のしもべ」としての「栄光」は、この世の常識の逆転によって現されます。
私たちは無意識にせよ、この世的な成功の基準によって自分の価値を測ってはいないでしょうか。イエスの十字架と復活は、世界の価値観を変えました。私たちは世の不条理に振り回され、敗北者の道を歩むように見えても、「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37) とされているのです。
3.「蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」
イエスの十字架の場面では、ローマの兵士たちが「イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、それから、『ユダヤ人の王様。万歳』と叫んで敬礼し始めた。また葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ」(マルコ15:17–19) と嘲弄するようすが生々しく描かれます。
イエスは、そのような嘲りを受けながら、イザヤ53章1–3節を思い巡らしていたのではないでしょうか。
そこには、「だれが私たちの聞いたことを信じたか。主 (ヤハウェ) の御腕は、だれに現れたのか。彼は御前で若枝のように芽生えたが、乾いた地から出ている根のようだった。見とれるような姿も、輝きも彼にはなく、私たちが慕うような見栄えもない。蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」と記されています。
イエスはご自分を「主 (ヤハウェ) の御腕の現れ」と意識しながら、主の救いは、人々の嘲りや罵りに耐えることによって実現できると信じておられました。まさにイエスは神によって立てられた真の王としての自覚を持つからこそ、嘲りに耐えることができたのです。
私たちは、自分の存在価値を高く評価する方の語りかけを聞き続けることによってのみ、不当な非難に耐えることができます。イエスの苦しみにはイザヤの苦難のしもべの姿を実現するという創造的な意味がありました。
そして4節では、主(ヤハウェ)のしもべの苦難の意味が、「まことに、彼が負ったのは私たちの病(弱さ)、担ったのは私たちの悲しみ(痛み)」と記されています。つまり、主の苦しみは、私たちの「病」や「悲しみ」を引き受けるためだったというのです。
マタイ8章16、17節では、「イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒された。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『彼は私たちのわずらい(協会共同訳「弱さ」)を担い、私たちの病を負った』」と記されています。
ヤナセタカシさんは、アンパンマンが自分の身を削って人を助けることを描いていますが、イエスの場合も、人を癒す働きが、驚くほどご自身の体力を消耗させたとともに、十字架の死に近づく歩みとなっていました。
ところが、当時の人々は「苦難」を神からの「罰」だと思い、その反応が、「だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと……」(53:4) と描かれます。
しかし、このとき人間としてのイエスは、不当な判決を受け、その直後に厳しい「むち打ち」の刑を受けながら、5節のみことば、「彼は、私たちの背きのために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちの平和(シャローム)、その打ち傷が私たちの癒しとなった」を味わっていたのではないでしょうか。
イエスは、ご自分が不当な苦しみに耐えることが、すべての人にとっての「平和」と「癒し」を生み出すと確信していました。
さらに、その意味がここでは続けて、「私たちみなが、羊のようにさ迷い、おのおの自分勝手な道に向かって行った。そして、主 (ヤハウェ) は彼に負わせた、私たちみなの咎を」と記されています。
後にペテロはこれを引用しつつ、「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」(Ⅰペテロ2:24、25) と記しています。
ここにキリストの御苦しみの意味と目的が美しく描かれています。つまり、「キリストの打ち傷」によってもたらされた「癒し」とは、この世で一時的に何かの念願がかなうことというより、私たちが創造主のみもとに立ち返り、このままで「神の子」とされるという永遠の救いにあったのです。
4.「彼を砕き、病とする(弱くする)ことは、主 (ヤハウェ) のみこころであった」
53章7節では、「痛めつけられても、彼はへりくだり、口を開かない。ほふり場に引かれる羊のように……。毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」と預言されています。
イエスに十字架刑を宣告したのはローマ総督ピラトです。彼は裁判の席でイエスの弁明を引き出すことで愚かな裁判を終わらせたいと思っていましたが、「イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた」(マルコ15:5) と描かれます。
それこそイエスは、人々が期待する救い主の姿ではなく、イザヤが預言した「主(ヤハウェ)のしもべ」の姿を生きておられたということを表わしています。
そしてここでは続けてその意味が、「虐げと、さばきによって、彼は取り去られた。 だが、彼の時代のだれが思い巡らしたことだろう。生ける者の地から絶たれた彼は、わたしの民の背きのために罰せられたことを」(53:8) と記されています。
ここでは明確に、イエスが神の「民の背き」の「罪」を担って、その身代わりとして「罰せられた」と記されます。
53章9節は、「彼の墓は悪者どもとともに設けられた。しかし、彼は富む者とともに葬られた。それは、彼が暴虐を行わず、その口に欺きはなかったから」と記されます。
これは十字架で殺されたイエスが本来は共同墓地に投げ込まれるはずなのに、金持ちのアリマタヤのヨセフの使われていない墓に葬られたことを預言していると理解できます。それこそが、イエスの復活を証明する舞台として用いられました。
53章10節には、「彼を砕き、病とする(弱くする)ことは、主 (ヤハウェ) のみこころであった。もし、彼がそのいのちを代償のささげ物(罪過のためのいけにえ)とするなら、末長く、子孫を見ることになる。主 (ヤハウェ) のみこころは彼によって成し遂げられる」と記されていました。
イエスはご自分を「代償のささげ物」とするのが、「主のみこころ」であると確信していたため、敢えてピラトの前で沈黙を守っていたのです。
そのことをイエスは、「人の子が来たのは、仕えられるためではなく仕えるためであり、自分のいのちを多くの人の贖いの代価として与えるためです」(マルコ10:45) と言っておられます。本来、エルサレム神殿はイスラエルの民の罪を贖うための神が与えたシステムでした。そこで、イエスはご自分の死を通して神殿を完成しようとされたのです。
とにかくイエスは、「主 (ヤハウェ) のみこころ」をこのイザヤ書から味わっておられたと言えましょう。
53章11節では「主のしもべ」の心境がまず、「そのいのちの苦しみから、彼は見て、満足する」と描かれ、さらに主(ヤハウェ)のことばとして、「わたしの義(ただ)しいしもべは、その知識によって多くの人を義とする。彼らの咎を彼自身が担う」と言われます。
そして12節では「それゆえ、わたしは、多くの人々の間で彼に分け与え、彼は強い者たちに戦利品を分け与える。それは、彼がそのいのちを死に明け渡し、背いた人たちとともに数えられたから。だが彼こそが多くの人の罪を負った。そして背いた人たちのためにとりなしをする」と記されます。
イエスが二人の強盗に挟まれて十字架に架けられたのは、「背いた人たちともに数えられた」からであり、また一人の強盗に「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43) と言われたのも、「背いた人たちのためのとりなし」の働きでした。
そしてヘブル人への手紙7章25節では、「したがってイエスは、ご自分によって神に近づく人々を完全に、永遠に救うことがおできになります。それはこの方がいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」(私訳) と記されています。
神のみわざは、私たちが人の「弱さ」に寄り添う、という愛の交わりの中に現されます。すべての人は、「神のかたち」に創造されました。だからこそ、私たちは互いに愛し合うことができます。
逆説的になりますが、「神よ、どうして……」とともに嘆き合っているところに、神の愛が全うされていることがあります。私たちの世界では、目の前から問題が無くなることはありませんが、問題解決を急ぐことが、問題を起こす人を排除するという方向に働くことがあります。そしてそれこそが、この世界に争いを引き起こす最大の原因となっています。
キリストは私たちに問題を解決する力以前に、問題を引き受ける力を与えてくださり、そのただ中に、神の平和(シャローム)が広がって行きます。神は、あなたをキリストに従う者と召され、ご自身の平和(シャローム)のために用いてくださいます。
なお二千年前の多くの人々は十字架刑の脅しに屈し、ローマ帝国による力の支配に従っていました。しかし今や、「十字架」は世界中の人々にとって神の愛のシンボルになっています。
そして多くの人々がキリストの姿に倣うことで、この地に神の平和(シャローム)が広がると信じるようになっています。そこに「あなたの神は王となった」(52:7協会共同訳) という証しが見られています。