葦原海さん——自分を生きる喜び〜伝道者の書11章7–10節

友人から面白い本を紹介されました。

葦原ミュウさんの著書「私はないものを数えない——両足をなくした。でも、世界は“できること”であふれている」(サンマーク出版1650円)

16歳のときに交通事故に会い、両足を切断しながら、先日は車椅子でファッションモデルとしてパリコレに出演しています。現在25歳で、SNSフォロアー数70万人というインフルエンサーです。

彼女が書いている以下の文章が感動的です

初めてのことをしたら、新しい経験をしたら、それまで見たことのない世界に出会える。大きさに違いはあっても、それはみんな経験している気がする。

でも、その「初めてのこと」や「新しい経験」って、全部ハッピーですてきなことだけじゃない。
16歳で事故に遭って両足を失う経験は、当たり前だけど「初めてのこと」だった。
それは、人生がぐちゃぐちゃになってしまうような、悲しい経験?
私は、そうは思わない。

起きた出来事は、変えられない。
でも、それをどう受け止めるかは、自分で決められる。
だから私は決めた——両足をなくしたんじゃない。
「足を姫にあげたんだ」って。

受け止めたあと、その新しい世界でどう生きて行くかは、全部、自分の好きなように決めていい。私は、全部、自分で決めた。
両足があってもなくても変わらない、この私、葦原海として。

毎日を楽しむのに、何かが「ある」
とか「ない」とか、あんまり関係なくない?
私はなんとなく、そんなふうに思っている。

葦原海さんのインスタグラムは です。

僕は以前、聖書「伝道者の書」の解説の本を「正しすぎてはならないーLet it be」という題名で書きました。

そこで一番、感動的だと思ったのは、以下のみことばでした。
伝道者の書11章7-10節
ここでの「若者」とか「若い日」ということばは、老年になって食事を味わうことも、他の人との会話もできなくなって「何の喜びもない」と言わざるを得なくなる前のすべての時期を指しています。ですから、伝道者の書のことばからしたら、70歳になった僕も、まだまだ「若い」人間だと思っています。

光は心地良い。日を見ることは、目に良い。

実に、もし人が長生きするなら、                           
暗い日々が多くあるかもしれないことを覚えていながら、         
すべてにあって楽しむのがよい。
すべて起こることは空しいから。

若者よ。あなたの若さを楽しめ。若い日にあなたの心を幸せにせよ。

あなたの心にある道とあなたの目に映るところに従って歩め。

ただ、神は、それらすべてにおいて、さばきを下されることも知っておけ。
あなたの心から苛立ちを去らせ、肉体から災いを取り去れ。              
若さも、青春も空しいから。(私訳)

                
この勧めは、私たちの信仰が窮屈な道徳主義に流れることを修正するために大切な教えです。皮肉にも、神の前に正しく生きようと頑張ることが、結果的に、神を不要にする生き方につながる場合があります。それこそがパリサイ人の問題でした。拙著の中で読者の心に残ってほしかったのは、上記のみことばでした。改めて味わっていただければ幸いです。

僕にとっての信仰とは、いのちの喜びの源です。周りの目を気にせずに、自分のやりたいことに集中できる生き方です。
 
もちろん、神様が望まれること、日本の教会のお役に立てることは何なのかをいつも考えますが、それは、自分の意に反することを行うのではなく、そこには、不思議に自分のやりたいこととの結びつきがあります。

今も、僕には、やりたいことがいくつもあります。そのときに以下のみことばを思い巡らしています

13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
ピリピ人への手紙2章13、14節

「これはやるべきことではないか……」という気持ちと、「これをやってみたい……」という気持ちは、多くの場合、決して矛盾はしないように思いますが、いかがでしょう。「やってみたい」という気持ちをを大切にすることから「いのちの喜び」が生まれるのではないでしょうか。