私たちは心の中に様々な「駆り立て」の言葉を聞き過ぎ、今、ここでの神の語りかけに耳を傾けることができなくなってしまいがちです。
多くの人の心には、常に、「急ぎなさい」「もっと努力しなさい」「強くありなさい」「完全でありなさい」「人を喜ばせなさい」という五つの言葉のどれかが響いていると言われます。人によっては、これが「存在するな」という自己否定の言葉と結びついて、「人を喜ばせている限りは生きていて良い……そうでなければ、生きている資格がない」というささやきを聞き続けるということになります。
しかも人は、自分の心に聞いている声を人に向かって語ります。意地悪な言葉が出るのは、自分を責める言葉ばかりを聞いている結果です。そのような人は、「疲れた者をことばで励ます」(50:4) 代わりに、落ち込ませてしまいます。
私たちはこの世の価値観から生まれている語りかけと、神からの語りかけとを区別する必要があります。そのために聖霊によって、この心が目覚めさせられる必要があります。
1.「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」
49章8–13節では、主(ヤハウェ)がイスラエルを祝福するばかりか、全被造物が主を賛美する様子が描かれていました。
しかしこのイザヤの預言が聞かれるようになった「シオン」と呼ばれるエルサレムの置かれる現実は、「主 (ヤハウェ) は私を見捨てた。主は私を忘れた」と言わざるを得ない絶望的な状況です (14節)。
そのような中で主(ヤハウェ)は「シオン(エルサレム)」に対するご自身の思いを、「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか」と問いかけながら、「たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない」とご自身の断固とした意思を強調します (49:15)。
今も昔も、母に見捨てられて飢え死にする幼児の悲惨が話題になることがありますが、バビロン軍に包囲されたエルサレムでは、「あわれみ深い女たちが、自分の手で自分の子を煮た……それが彼女たちの食物となった」(哀歌4:10) という悲惨が起きたと記されています。それほど、人の心は脆いものです。
いざとなったら母親でさえ何をしでかすかわからないという現実があるということを前提とした上で、主はご自身の愛が、母親の愛にまさるということを強調しておられます。自分の母親の愛情を疑う必要のない方は、それだけで幸せです。
私の場合は、「母ちゃん!」と心の中で呼びかけるだけであったかい気持ちになることができます。しかし、「天のお父様!」と呼びかけるときにそれほどの気持ちにならないのは、自分の不信仰のゆえかもしれないとも思います。
事実、創造主はここで、ご自身の愛が母の愛にまさると強調しておられます。それを心の底から味わうことこそ、私たちの信仰の基本です。
そればかりか、「見よ。わたしは手のひらにあなた (シオン) を刻んだ」と記されます(49:15)。文語訳は「われ掌(たなごころ)になんぢを彫刻(ゑりきざ)めり」です。それは人が恋人の名を手のひらに刻むかのような表現です。
同じように主は私たちに「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43:4) と語りかけられます。
さらに「あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」とは、目に見えるエルサレム城壁が崩れ去っている中で、神ご自身がその城壁となっておられるという意味です。
霊の目が開かれるとは、敵に取り囲まれた預言者エリシャを「火の馬と戦車が取り巻いている」(Ⅱ列王6:16、17) という現実が見えることです。
詩篇34:7にも「主 (ヤハウェ) の御使いが陣を張り、主を恐れる者を囲んで助け出してくださる。味わい、見つめよ、主 (ヤハウェ) のすばらしさを。幸いなことよ、主に身を避ける人は」(私訳) と記されます。
ところで、主に逆らい、主ののろいを受けたときの悲惨が、申命記28章32節では、「あなたの息子と娘はほかの民に渡され、あなたの目は絶えず彼らを慕って衰えるが、あなたはどうすることもできない」と描かれますが、まさにイスラエルの民は自業自得でそのような悲惨を体験してしまいます。
エルサレムがイスラエルの子らを失い、彼らがバビロン捕囚となったのは、その創造主の警告を聞こうとしなかったために他なりません。
私たちもこの地で神のさばきを体験するかもしれませんが、神の民にとっての苦しみはごく短期間に過ぎず、永遠の視点から見るなら、私たちは神の圧倒的な力によって守り通されているということは確かなのです。
そのことが49章17、18節で、「あなたの子どもたちは急いでやって来る。あなたを破壊し、廃墟とした者たちは、あなたのところから出て行く」と記されます。これは大切な子どもの回復と、エルサレムを滅ぼした敵の退散の約束です。
さらにそれを印象付けるように、子たちの帰還が、「目を上げて、あたりを見回せ。彼らはみな集まって、あなたのところに来る。わたしは生きているー主 (ヤハウェ) のことばーあなたは必ず、彼らをみな飾り物として身につけ、花嫁のように彼らを帯に結ぶ」と描かれます。
多くの人は自己嫌悪に陥る中で、主 (ヤハウェ) ご自身が、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」と語りかけられることに安らぎを発見します。
私たちはこの地では様々な不安や不条理に直面せざるを得ません。しかも、しばしば、その一部は、サタンの攻撃というよりも、自分が蒔いた種であり、その被害は私たちの家族や身近な人にも及びます。
しかし、自業自得で、自分の責任で大切なものを失ってしまったような絶望感の中で、なお、主が失ったものを取り返してくださるという恵みがここに約束されています。
2.「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」
49章19節では、シオン(エルサレム)に対する祝福の回復が、「あなたの廃墟と荒れ跡と滅びた地は、今に、住むには狭すぎるようになり、あなたを呑み込んだ者たちは遠くへ離れ去る」と描かれます。
そしてその結果が、「再びあなた (シオン) の耳に、子を失ったときの子らが言う、『この場所は私には狭すぎる。私が住めるように場所を広げてください』と」(私訳) と記されます。
ここでは「耳」がテーマです。これは先に失われたと思っていた子らが集められた結果、その子らが、かつて子を失ったと嘆いていたシオンの「耳」にささやくように、エルサレムの居住地を広げるように再び願うというのです。
その際、「あなた (シオン) は心の中で」「だれがこの者たちを私に生んでくれたのだろう。私は子を失った、子を生めない女、捕囚のさすらい者であったのに。だれがこの者たちを育てたのだろう。私はただひとり残されていたのに、この者たちはどこから来たのだろう」と「言う」と描かれます (49:21)。
「だれが」という問いは、当然、「主 (ヤハウェ) がそうしてくださった」という応答を生みますが、主の一方的なあわれみをそのように思い起こすのです。
さらに49章22節では、「主 (アドナイ) ヤハウェ」が、「見よ。国々に向かってわたしは手を上げ、国々の民に向かって旗を揚げる。あなたの息子たちを彼らは懐に抱いて来る。あなたの娘たちは肩に負われて来る」と「言う」と約束され、そこでの立場の大逆転が、「王たちはあなたの守役(もりやく)となり、王妃たちはあなたの乳母(うば)となる。彼らは顔を地に付けて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる」(49:23) と描かれます。
さらにその結果、「あなたは知るようになる。わたしは主 (ヤハウェ) 、わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」と、神の民が真心から主に信頼するようになる様子が描かれます。
ここでは、主の民を踏みつけていた王や王妃たちが「恥を見る」ことの対比で、「主 (ヤハウェ) を待ち望む者は恥を見ることがない」と断言されます。これこそ当時の人々の心に響く「救い」です。
多くの人々はこの地で「恥を見る」ことを恐れ、落ちこぼれないようにと競争しています。しかし、主を待ち望む者は、最終的に勝利者となることが約束されているのです。この約束も、一時的な視点ではなく、神の永遠のときの観点から見るべき約束です。
49章24、25節では、「奪われた物を勇士から取り戻せるだろうか。捕らわれ人を横暴な者から救い出せるだろうか」と問いかけながら、主 (ヤハウェ) ご自身がそれらを回復してくださると固く約束されます。
その際、主は「あなたの争う者と、このわたしが争い、あなたの子らを、このわたしが救う」と、ご自身が私たちの代わりに戦うと約束されます。ですから私たちは、自分で敵と戦う必要がありません。
さらに主の復讐が、「あなたを虐げる者に、彼ら自身の肉をわたしは食らわせる。彼らは甘いぶどう酒かのように自分の血に酔う」(49:26) と、彼らの自滅が描かれます。
その結果、「すべての肉なる者が知るようになる。わたしは主 (ヤハウェ) 、あなたの救い主、贖い主、ヤコブの力強き者であることを」と告白することになります。
ここでは主(ヤハウェ)のさばきが、「彼ら自身の肉を食らわせる」(49:26) と描かれ、その「肉」を用いて、「すべての肉なる者」が、主 (ヤハウェ) の救いを知るようになると約束されます。つまり、23節での「あなたは知るようになる」という約束が、26節では全世界の民が、主を知るようになるという約束に広がっているのです。
私たちは一時的な辱めに屈することがあっても、「主に信頼する者は、恥を見ることがない」という真理は、永遠の観点から断定されることです。イエスご自身も、十字架上で、この世の誰よりも辱めをうけました。しかし、このみことばに信頼して、その辱めに耐えることができました。
そして今や、すべての肉なる者が、イエスの高貴さを何らかのかたちで認めざるを得なくなっています。あなたのまわりの人々も、最終的に、「あなたの神こそが、全世界の支配者であったのに、私はそれを認めなかった」と恥じるようになります。
3.「主ヤハウェは……朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まし……」
50章1節ではバビロン捕囚を前提に、エルサレムを「あなたがたの母」と呼びながら、「あなたがたの母を追い出したというわたしの離縁状は、いったいどこにあるのか」と問いかけられます。そこには、主とエルサレムの関係は切れていないという主の宣言が込められています。
また、「わたしがあなたがたを売ったというわたしの債権者とはだれなのか」ということばで、主 (ヤハウェ) の民の所有者は主ご自身であられるので、その民が完全に売り渡されてしまうことはないという保証がなされます。
もし、主 (ヤハウェ) に負い目があって彼らが売られたのなら、主は何もできませんが、彼らはその咎のために一時的に売られ、追い出されているに過ぎず、回復の希望があるというのです。
そのことが、「見よ。自分の咎のためにあなたがたは売られ、あなたがたの背きのために、母は追い出された(エルサレムは滅んだ)のだ」と言われます。
50章2節での、「なぜ、わたしが来たときだれもいなかったのか。わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか」とは、神が遣わした預言者の声を神の民イスラエルが無視し続けたことを表します。
そして、「わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないというのか」(50:3) とは、彼らが自分たちの神にすがろうとしなかったことこそが、このような悲惨の真の原因であると語ったものです。
人間関係では忙しい人の手を煩わすことは悪いことかもしれませんが、神に対して遠慮することは信頼の欠如として非難されます。申命記では「主にすがる」ということばは「主を愛する」と並行して記されますが (11:22、30:20)、主にすがろうとしないことこそが罪なのです。
さらに続く「見よ。わたしの叱責によって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする……わたしは天を闇でおおい……」(50:2、3) とは、出エジプトの際に海を二つに分けたことから目に見える世界をさばくことに至る、神のみわざを指します。神に不可能はありません。
50章4~9節は、第三の「主のしもべの歌」です。これはキリスト預言であるとともに、私たちの生き方を指し示す歌でもあります。
その最初は、「主 (アドナイ) ヤハウェは、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ます(支える)ことを知るようにさせる」です。なお、疲れた者に力が回復されるのは、すべて神のみわざであり、そこには「主 (ヤハウェ) を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ってゆく」(40:31) という約束が成就します。
しかもそのような主(ヤハウェ)への信頼を、主の「ことばで励ます(支える)」ことができるようになることも、人間の知恵ではなく、主ご自身が「知るようにさせ」てくださることによると、敢えて回りくどい表現が用いられます。
そのために主(ヤハウェ)は、「朝ごとに私を呼び覚まし、この耳を呼び覚まし、私が弟子として聞くようにされる」というのです。主は先に「わたしが呼んだのに、だれも答えなかった」と嘆いていましたが、5節では何と「主 (アドナイ) ヤハウェ」ご自身が「私の耳を開いてくださった」と記されています。
続く表現は、「それでこの私は逆らわず、うしろに退きもしなかった。」と、まず区切るべきでしょう。それは、主のことばに逆らうことも、また臆することもないという意味です。
その上で、「打つ者にこの背中をまかせ」(50:6) とは、不当な鞭打ちを甘んじて受けること、また、「ひげを抜く者にこの頬をまかせ」とは、侮辱のしるしとしてひげを抜こうとする者に抵抗しないことを意味します。
イエスは「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイ5:39) と言われましたが、それは侮辱のしるしとしての手の裏で打つ者に対して、刃向かわないようにとの教えでした。
そのことがここでは、「侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった」(50:6) という生き方として表現されます。そしてそのように無抵抗でいられる理由が、「主 (アドナイ) ヤハウェは、私を助けてくださる」(50:7) という保障として描かれます。
さらにその主の助けを前提として、「それゆえ、私は侮辱されることがない。それゆえ、この顔を火打石のようにした」と記され、その理由が「私は恥を見ることがないと知っているから」(50:7) と説明されます。
これは、侮辱を感じないように心を麻痺させることではなく、主が私を助け、辱めから救い出してくださることに望みを置いて、苦しみに耐えるという意味です。
そのことがまた、「私を義とする方が近くにいてくださる。だれが私と争うのか。さあ、ともに立とう。だれが私をさばく者となるのか。私のところに出て来い」(50:8) と記されます。これはたとえば、周りの人からの不当な非難と侮辱を受けるような中で、父なる神が私に「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22) と語りかけられることに「耳を開く」ことです。
「私が神の子とされた」という「救い」とは、父なる神からイエスへの愛の語りかけが、罪人である私への語りかけとなったということです。
ただし、人の声を聞かない者は、神の御声を聞くこともできなくなりますから、私たちは人の非難の声に対して心を麻痺させることを求める代わりに、人からの嫌なことばにも素直に耳を傾けながら、それ以上に、神からの愛の語りかけに耳を傾け続けることではないでしょうか。
4.「見よ。主ヤハウェが、私を助けてくださる。だれが私を不義に定めるのか」
50章9節では同じような意味で、「見よ。主 (アドナイ) ヤハウェが、私を助けてくださる。だれが私を不義に定めるのか。見よ。彼らはみな衣のように古び、シミが彼らを食い尽くす」と記されます。私に敵対する者に対する神のさばきを知っているからこそ、敵のあざけりや迫害に耐えることができるのです。
その反対に、主のさばきを信じられない者こそが、自分で反撃する必要を感じると言えましょう。
イエスがローマ総督ピラトのもとで裁判を受けたとき不利な証言が次々と出されましたが、「それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた」(マタイ27:14) と描かれます。
イエスはこのとき、この「主 (ヤハウェ) のしもべの歌」を、心に思い巡らしていたのではないでしょうか。イエスは、嘘の証言をする者に対する神のさばきを知っておられ、また、神ご自身がイエスを義としておられることを知っていました。また、ユダヤ人の反乱を恐れて不当な判決を下す総督ピラトの臆病さをもよく知っておられました。
イエスの沈黙は、神がご自身の傍らにおられることの余裕から生まれていると言えましょう。
50章10節では、「だれが、あなたがたのうちで主 (ヤハウェ) を恐れ、そのしもべの声を(よく)聴くだろうか」と、「主 (ヤハウェ) を恐れる」ことと、「主 (ヤハウェ) のしもべの声」を「聴く」ことが同じ意味かのように並行して記されます。
その上で「闇の中を歩くのに光を持たない人は、主 (ヤハウェ) の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め」と勧められます。
これは、たとい「闇の中を歩き、光を持たない者」も、十字架に死んで復活したイエスを見上げるとき、「主 (ヤハウェ) の御名に信頼し、自分の神により頼む」ことができるという意味とも言えます。
それと対照的な生き方が、「見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。歩いてみよ。自分たちの火の明かりを持ち、火をつけた燃えさしを持ちながら」(50:11) と描かれます。
これは自分の力により頼む者が自滅への道を歩んでいるというアイロニーです。神のさばきは、人に自分の望むままを行わせ自滅へと導くということに他なりません。
しかし私たちはイエスの復活を見るとき、この悪循環から救い出されます。そこでは、どのような苦しみにも出口があり、どのような闇も光に変えられるという証しがあるからです。自分の知恵や力ではなく、主に信頼する者こそが、「恥を見ることがない」からです。
イエスはこれらのことばを思い巡らしながら、人々からの罵詈雑言に黙って耐えておられました。私たちもその模範に習うように召されています。それは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった」(Ⅰペテロ2:22、23) という生き方です。
主はご自分が苦しみを担うことで人を生かしてくださいました。私たちは自分を生かすために人を押しのけ、非難してはいないでしょうか。それは無意識のうちに心の内側で自分を非難し、軽蔑することばを聞いていることの結果です。
「主 (アドナイ) ヤハウェは……朝ごとに、私を呼び覚まし……耳を開かせ」、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43:4) と語りかけてくださいます。それに耳を開きながら、同じことばを隣人に語りかけたいものです。
自己嫌悪と傲慢はコインの裏表と言えます。人は自己嫌悪に陥った反動として、自分は愛されるに値する人間だと証明しようと、この世の空しい名誉や富や権力に憧れるようになるのではないでしょうか。
「主 (アドナイ) ヤハウェは、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを知るようにさせる」(50:4) という約束をイエスの御霊が私たちのうちに成就してくださいます。
それはこの耳が朝ごとに呼び覚まされることから始まります。私たちはこの世の価値観と、神の救いのご計画を見分ける必要があります。主を最も悲しませる罪とは、大きな過ちを犯すこと以前に、主の愛を忘れることです。
主があなたになしてくださった救いのみわざを、また主の期待を忘れることこそが最大の罪です。
あなたの前には新しいエルサレムの祝宴が待っています。世界は喜びの完成に向かっています。主は既に世界の歴史を変えてくださいました。
私たちは既に新しい世界に足を一歩踏み入れており、父なる神は、あなたをイエスの弟、妹と見て、あなたに向かって「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語っておられます。