ダニエル9章1〜3、20〜27節「イスラエルの救いのための七十週?」

2023年8月13日 

宗教改革者マルティン・ルターはかけがえのない教師ですが、一つ大変残念なことがあります。彼は改革運動の初めはユダヤ人に対して同情的で、「イエスは生まれつきのユダヤ人であった」という文書では、カトリックはユダヤ人を犬のように扱い、福音を語って来なかったから彼らは回心できなかったと言いました。

ところがユダヤ人は、宗教改革運動に乗じてキリスト者に働きかけ、安息日をユダヤ伝承で守るように教えたり、割礼の儀式を復活させたりし、ルターの改革運動の最も恐ろしい敵対者になってしまいました。

それで彼は態度を百八十度逆転させ、国の指導者にユダヤ人の会堂を焼き払い、彼らの家を壊し、商取引から締め出す法律を作るように促しました。彼の最後の説教はユダヤ人の国外退去令をドイツの領主に勧めることでした。残念ながらそれは、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の根拠とされてしまいました。

一方、私が牧師となって間もなく、ある米国出身の元宣教師のご婦人が、「先生は聖書の預言がすべて成就すると信じていますか。たとえば、エゼキエル40章以降のエルサレム神殿の復興を信じていますか?」と問いかけて来られました。私はその問いに明確に答えられませんでした。

福音自由を含む米国の多くの保守的な信仰者は、1948年のイスラエル国家の建設を聖書預言の成就と見て、イスラエルの支援を自分たちの使命ととらえていましたが、エルサレム神殿の再建までをも預言の成就として必要と認識するなら、同じくエルサレムを聖地のひとつと捉えるイスラム教諸国との対立は不可避となります。

その上、中東での戦争のたびに、預言書にある終わりの日の戦争が始まりそうだなどという書籍が書店に平積みにされたことがありました。私はずっと、そのような聖書の読み方がしっくりとは心に落ちずにいました。

それにしても、ユダヤ人は「福音の敵」となっているという見解と、神はユダヤ人を愛し、特別な計画をお持ちであるという見解は、互いに相容れないのでしょうか。

不思議にもパウロはその両面を受け入れるように、「彼ら(ユダヤ人)は、福音に関して言えば、あなたがた(異邦人)のゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者なのです」と言いながら、イスラエルの「救い」に関しての「神の賜物と召命は、取り消されることがない」と記しています (ローマ11:28、29)。

神の救いのゴールは、「新しい天と新しい地の創造」です。そこでは、神の平和(シャローム)が全世界に満ちます。それこそ旧約聖書に記されたユダヤ人の夢であり、私たちの希望でもあります。

ユダヤ人も異邦人も、神の一方的なあわれみと選びによって「神の民」とされました。そこには、神の平和(シャローム)を世界に広げるという使命がセットになっています。残念ながら、それに至るプロセスとしての「大患難期」、「携挙」、「千年王国」などに関する理解は、福音的な教会の中にも大きな見解の差があります。

今回のシリーズでは、「聖書を誤りのない神のことば」と信じる福音的な教会において、聖書から互いに一致できる部分と、解釈の違いが生まれ得る部分に関して、落ち着いて整理することができればと願っています。

1.「あなたの民と聖なる都について、七十週が定められている」

ダニエル書9章は、「メディヤ族のクセルクセスの子ダレイオスが、カルデヤ人の国の王となったその元年」という記述から始まります。これはバビロン帝国滅亡の年、紀元前539/538年を指すと思われます。

このとき、ダニエルは「預言者エレミヤにあった主 (ヤハウェ) のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った」と記されます。

実際、エレミヤ書では、「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える」(25:11)、また「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っているー主 (ヤハウェ) のことばーそれはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:10、11) と約束されています。

つまり、ダニエルはエレミヤの預言によって、これからのイスラエルに大きな希望を見出すことができたからこそ、真剣に神に祈ったのだと思われます。

そこでダニエルは、イスラエルの民を代表して、自分たちの罪を告白し続けます (9:5、6)。その上で、エルサレムの復興を願って驚くほど大胆に、「主よ。あなたのすべての義のわざにしたがって、どうか御怒りと憤りを、あなたの都エルサレム……から去らせてください……ご自身のために、あなたの荒れ果てた聖所に御顔の光を輝かせてください。私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている都をご覧ください」(9:16–18) と神にすがっています。

そのように必死に祈っているときに、8章16節にも登場した御使い「ガブリエルが、すばやく飛んで来て」(9:21)、「ダニエルよ。私は今、悟りによってあなたを賢明にさせようとして出てきた……あなたが特別に愛されている者だからだ」(9:22、23) と告げます。

そこでガブリエルはまず、「あなたの民……聖なる都について、七十週が定められている」(9:24) と言いますが、「七十週」は原文では、「七(複数形 sevens)を七十」と記されています。

レビ記では、ヨベルの年の始まりが、「七年の七倍」(25:8) と表現され、それは49年を意味していましたが、これはそのヨベルの年の十倍の時を意味します。とんでもない期待外れの啓示です。

ダニエルはエレミヤ預言の七十年が終わったので、これからは祝福の時代がやってくると期待していましたが、「背きをやめさせ、罪を終わらせ、咎の宥めを行い、永遠の義をもたらし、幻と預言を確証し、至聖所に油注ぎを行うため」(9:24) という、神の救いのご計画が完成するまでに、なお、「七の七十倍」の時が、必要だと告げられてしまったのです。これはダニエルにとってはショックでした。

レビ記26章には、神のさばきを受けながら、なお、神のことばに心を開かないなら「七倍の懲らしめ」が来ると警告されていましたが、彼はそれを思ったかもしれません。

また、イエスは「七回を七十倍するまで」赦すということで (マタイ18:22) と、これを無限の意味で用いました。

多くの人は、バビロン捕囚は七十年で終わったと思っていますが、ペルシア、ギリシア、ローマの支配と、バビロン捕囚のような状態は続いていったのです。

さらにこの「七の七十」は三つに区分されます。第一は、「エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが七週」(9:25) という記述です。これは先の七年の七倍」というヨベルの年に相当します。

ここでの「油注がれた者」とは「救い主」の登場という以前に、神がみこころの「君主」を立て、エルサレムでの礼拝と政治が正常化させることを意味します。それはすべての借財がゼロになり、最初の秩序が回復されるという意味で、民の解放を告げるヨベルの年の実現を示唆します。

しかし、それで問題は解決するわけではありません。

その後、苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される」(9:25) と記されますが、これは、その数字に象徴的な意味を読み取れない「七の六十二倍」で、この期間にはエルサレムの再建は進みますが、苦難は続くと言われているのです。

しかもその後に、「その六十二週の後、油注がれた者(先の君主)は断たれ、彼には何も残らない」(9:26) と記されます。これはダニエル8章11節での神に敵対する王が「常供のささげ物を取り上げた」ということと同じと思われます。

さらに「次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。その終わりには洪水が伴い、戦いの終わりまで荒廃が定められている。彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物をやめさせる」(9:26、27) と記されます。

これはしばしば、七年間の大患難期と言われ、その中でも特に「半週」、つまり、三年半が「いけにえとささげ物をやめさせる」という信仰の大迫害の時期と解釈されます。

ただし、「一週」とは厳密には「一つの七」と記される七十分の一という短期間を、また「半週」も苦しみの期間が限定的であることを指し、具体的な年数は象徴表現の解釈に過ぎません。

しかも、これは世の終わり以前に、イエスの時代の人々が既に知る苦難を指すとも考えられます(次の論点)。

ただ最後の状況が、「忌まわしい(憎むべき)ものの翼の上に、荒らす者が現れる。そしてついには、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる」と描かれます。それは神に反対する勢力が権力を掌握して、忌まわしい偶像礼拝を確立した直後に、その権力が神によって滅ぼされるという意味でしょう。

2.終わりの時代に延期された七年の大患難期という解釈

イエスの少し後の時代のヨセフスは、この預言が、ギリシアの王アンティオコス・エピファネスが紀元前167年にエルサレム神殿を荒らし、いけにえが三年間、差し止められ、その後、ユダ・マカベオスのもとで神殿がきよめられたことを指すと述べながら、同時に、「ダニエルはまた同じ仕方で、ローマ人の帝国について、すなわち彼らの手によるエルサレムの陥落と神殿荒廃について書き記した」(ユダヤ古代誌10:276) と言っています。

そしてイエスの時代のユダヤ人たちは、この預言を根拠に、神殿が一時的にローマ軍に占拠されることがあっても、神は最終的な勝利を与えてくださると信じて、独立運動を激化させました。

その結果、紀元70年にエルサレム神殿が廃墟とされてから今に至るまで、神殿を失ったままになりました。

ところで、七週と六十二週とを合わせると69週(483年)になりますが、前世紀の米国の保守的な学者たちは、ネヘミヤ2章に記されたエルサレム城壁の再建をペルシア王アルタクセルクセスが命じた紀元前445年から、イエスの十字架の年まで483年になると言います(一年を360日で計算)。

そして、キリストの十字架こそが「油注がれた者が絶たれた」(9:26) ことを現すと言います。そして、最後の「一週」の七年が、時代を超えて、終わりの時代に先延ばしにされていると解釈します。

そしてその七十周年目が、イスラエルの民のために、エルサレム神殿が再建された後に、一時的に崩壊し、その後、完成されるという時期として残されており、その前に、クリスチャンはこの大患難の前に天に引き上げられると言います(携挙)。

ただし、「七の七十」を「七十週」と訳して490年と計算し、また神殿の再建ではなく、城壁の再建からイエスの十字架までの年を計算し、残りの七年ないし三年半が、終わりの時代の大患難期を指すという解釈は、文字通りの意味というより、象徴表現の一つの解釈に過ぎません。

それを絶対化するためには別の理由が必要です。それは、黙示録に登場する千年のキリストの支配を、旧約で預言されながら実現していないすべての預言が成就するときと見るという解釈とセットになっています。彼らはこの千年の時代に、エゼキエル40章以降に描かれたエルサレム神殿を中心とした礼拝が守られることになると解釈します。

それは旧約に描かれたダビデ王国が文字通り再建される時代です。それはイスラエル民族にとっての悲願が成就する時です。

ただ、都と聖所が破壊され、偶像礼拝が強要される前に、イスラエルという国ができている必要があり、大患難期とはそのイスラエルの民の信仰が練り清められる期間と見られます。

一方、クリスチャンにとっては旧約預言の成就は切実な願望ではないので、その前に天に引き上げられるのでしょう。とにかく、「千年王国」とは、まだ成就していない旧約預言が成就する期間と見られていたのです。

ただ、そのような解釈を成り立たせるために、ダニエル9章を上記のように解釈するというのは、最初に結論があって、それに合わせて数字の語呂合わせを考えたと批判される可能性があります。

残念ながら、聖書を文字通り解釈すると主張する方が、ある意味で極めて恣意的な解釈をしているとも言えます。

米国の福音自由教会では上記のような解釈が20世紀中ごろまでは大勢を占めましたが、徐々に、千年王国と旧約預言の成就としてのダビデ王国の復興を直接に結びつけることは無理であるという解釈が多数を占めるようになりました。私自身も同じような立場です。

ただそれによると、千年王国の姿が極めて漠然としたものになり、その実現を強烈に意識する必要もなくなってきているというのが現実です。

3.イエスはダニエル書をどのように解釈したか

しかも、地上の神殿は「本物の模型にすぎない」(ヘブル9:24) と言われ、イエスは十字架と復活の後、ご自身の血を天の聖所に携えて入り、そこで仕えておられます (同8:2)。ですから、「目に見えるエルサレム神殿の再建を期待する必要があるのか?」という疑問が生まれます。

イエスもこの書を未来予告ではなく、弟子たちへの行動の指針と励ましとして引用されました。そこではまず、「預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら……ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい」(マタイ24:15、16) と言われます。

これは、エルサレム神殿がローマ軍に汚されるようなことがあっても、決して戦おうとしてはならないばかりか、反対に、速やかに神殿から離れることを勧めたものです。

続けてイエスは、「そのときには・・今に至るまでなかったような……大きな苦難がある……もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます」(同24:21、22) と、苦難の日数が短くされるので、戦う代わりに忍耐して救いを待つようにと勧めました。

そして、「そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり・・天のもろもろの力は揺り動かされます。そのとき……地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見る」(同24:29、30) と、終わりと思われる時こそ、キリストの栄光が現されると言われました。

イエスは、「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです」(ルカ21:28) と言われました。これは、苦難の激化は、救いの完成が近いしるしであるという意味で、この書のテーマです。

実際、ダニエルの友人が偶像礼拝を拒否して燃える炉の中に投げ込まれなければ、イスラエルを滅ぼした王ネブカデネザルがその神を崇めはしませんでした。

またダニエルがライオンの穴に投げ込まれなければ、彼を救う神の栄光は現されませんでした。

バビロンがエルサレムを破壊しなければ、ユダヤ人を救う神の栄光は現されませんでした。

クリスチャンが迫害されなければ、死を恐れない復活信仰は表されませんでした。神の民の苦難こそは、神の栄光の現れのときなのです。

つまり、イエスが示したダニエル書の解釈は、敵と戦うことではなく、神が苦しみのときを短くしてくださることを信じて、苦しみに耐えることなのです。神の民を迫害する圧倒的な神の敵が勝利したと思えた瞬間、その神に敵対する勢力は神ご自身によってさばかれるからです。

この世の権力が私たちを迫害するのを神が許しておられるのは、神の力がこの世の権力を徹底的に圧倒していることを示すためです。

4.「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。」

ダニエル12章1節では、「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君 ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる」と記されます。

これは前節に描かれたエルサレムの絶体絶命の時を指しています。それは同時に「いのちの書に……その名が書き記されている者」(黙示3:5、13:8、20:15) の救いの時でもあります。

そこでは「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と永遠の嫌悪に。賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる」(12:2、3) と描かれます。

これこそ旧約における復活の記事の代表です。ここで、栄光の復活にあずかることができるのは「賢明な者たち」、大迫害の中で真の神を礼拝し続けた人です。それは「巧みなことばを使う」権力者たちの惑わしに対するさばきの時です。

イエスはこれをもとに、「畑の毒麦のたとえ」(マタイ13:24-30、36-43) で、神の畑に蒔かれた毒麦を抜き取ろうとして良い麦を抜き取る可能性があることを指摘して、最終的な神のさばきに任せることを勧めました。

そこでイエスは毒麦のような人々に囲まれて誠実を全うする人に関して、「正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます」(同12:43) と保証されました。これこそイエスがダニエル書から語ったことです。

ところで、このとき、10章以来ダニエルに語ってきた「一人の人」は、「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回る」(12:4) と不思議なことを言いました。これは、ダニエルに啓示されたことは、キリストを通してしか理解できないことを指します。

そして12章8節でも「私はこれを聞いたが、理解することができなかった」と記されます。多くの未来予言が、この書の数字の解釈から生まれますが、それはダニエルさえ理解できなかったことの推測に過ぎません。

さらにダニエルが、「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう」と尋ねたことに対し、「ダニエルよ。行け。このことばは終わりの時まで秘められ、封じられているからだ。多くの者は、身を清めて白くし、そうして練られる。悪しき者どもは悪を行い、悪しき者どものだれも理解することがない。

しかし、賢明な者たちは理解する。常供のささげ物が取り払われ、荒らす忌まわしいものが据えられる時から千二百九十日がある。幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は」(12:9–12) と言われます。

ここで、「賢明な者たちは理解する」とは、「千二百九十日」とか「千三百三十五日」という数字自体に込められた意味のことではありません。12章7節での「一時と二時と半時」とは三年半、つまり、当時の太陰暦で一年を360日とすると1260日であり、「千二百九十日」とはそれより30日長い期間、また、「千三百三十五日」とはそれよりさらに45日間長い期間を指します。

つまり、もうこれで苦しみの期間が終わると待ち焦がれながらも、さらに30日、さらになお45日間続くことがあるかもしれない不安を受け止め、忍耐して待つという「理解のことが記されているのです。

ですから、「賢明な者たち」とは、神の民の苦しみの時期は、常に、限られた期間に過ぎないということを「理解して」、迫害に耐えることができる人です。

ダニエルは70年間の終わりに神の大いなる祝福が来ると期待しましたが、御使いは救いの完成までには、新たな七の七十倍の時が必要であることを示しました。

これはイスラエルの最終的な「救い」以前に、私たちの人生に適用できるかもしれません(すべてをキリストの再臨に結びつける必然性はないという意味です)。

イスラエルの民が自業自得で70年間のバビロン捕囚の苦しみを通ったと同じように、私たちも自業自得で苦しむことがあります。そして、そこで私たちも神の前に悔い改め、神の救いを慕い求めました。そこであなたは、キリストの十字架によって「救われた」と宣言されます。しかし、ふと現実を見ると何も変わっていないように思えることがあります。

そこで、「七十週」の時間が示されます。最初の七週の人生の建て直しの期間を終えても、なお多くの問題が残っています。そこに劇的な成長の見えない六十二週が続きます。

ただその後に突然、激しい苦難に会うことがあります。しかしその期間は、七十分の一またはその半分という短期間で終わり、神は突然、劇的な救いを実現してくださいます。

この最後の苦難は、罪への罰ではなく、この世の悪に対する神の劇的な勝利の宣言のときです。私たちはこの最終的な救いの完成のことを思いながら、「約束してくださった方は真実である」ことを思い、「しっかりと希望を告白」しながら、愛と善行を促すために、互いに注意を払おう」と言い合えるのです (ヘブル10:23、24)。

バビロンに捕囚とされたダニエルに、神の民はバビロン滅亡後も、次々と起こる大帝国の下で苦しみ、その後で、最終的な救いを受けると示されました。それは人間の期待を一見裏切るような、神の救いのご計画なのです。