友人の島崎克臣先生が、「創造の回復」というすばらしいサイトを立ち上げてくださいました。20年余り前からことあるごとに、同じ視点に立っていることを喜び合ってきた仲間です。
その基本は、私たちは知らないうちにギリシャ的な二元論的発想の影響を受け、また仏教的な世界観の影響を受け、この地上の生活を軽蔑するかのような信仰を持っているのではないかということです。
拙著「心が傷つきやすい人への福音」においても、私たちが知らないうちに、「自分で自分の心を律する」という発想に流れ、自分の心の傷つきやすさを軽蔑してはいないだろうかと提言させていただきました。そのような誤解も、ギリシャのストア哲学的な発想、または仏教の禅宗的な発想の影響下にあるように思います。
しかし、聖書の詩篇には、傷ついた心を神に注ぎだす祈りが満ちています。聖書の信仰とは、自分のあるがままの混乱した気持ちを創造主にさらけ出して、主の導きを受け、主との交わりに中で、聖霊にって自分の心を導いていただくことに他なりません。
以前より島崎先生との交わりの中で、わが母校の大先輩、内村鑑三の再臨信仰のことを教えていただいておりました。当時は世界的に、天に引き上げられる希望「携挙」中心の再臨信仰が驚くべき勢いを持っておりました。そのような中で、内村はひたすら聖書の記事に集中し、今、多くの教会が語っているバランスのとれた再臨信仰を、百年余り前に既に語っています。
以下は、島崎先生の記事からの抜粋です。
内村は「キリスト再臨を信ずるより来たりし余の思想上の変化」(1918年12月「聖書之研究」)という記事を「余の生涯に三大変化が臨んだ」との言葉で始めています。
その第一は1878年の創造主との出会い、第二は1886年の十字架のゆるしの確信、そして、第三は大正7年1918年の再臨理解の深化です。
実は、内村は以前より再臨を堅く信じていました(1904年7月「聖書にいわゆる希望」参照)。しかし、この1918年の体験は、以前のものと違うようです。内村は次のように書いています。
余はキリストの再臨を確信するを得て、余の生涯に大革命の臨みしことを認むる。⋯⋯ここに余は「見よ、すべての事、新しくなれり」と言うことができる。ここに余は旧き世界を去りて新しき世界に入りし感がする。余の宇宙は広がり、余の前途はひらけ、新たなる能(ちから)は加わり、眼は明らかになり、余の生涯の万事が一新せしを感ずる。
ああ余はついに聖書を解し得て余の生涯を終わりを得るを知って神に感謝する。
黙示録5章9、10節でもキリストの贖罪のみわざの目的が以下のように記されています
あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。
彼らは地を治めるのです。
つまり、私たちはこの混乱に満ちた世界から解放されるためにイエスを救い主として信じているのではなく、「地を治める」ために贖われているのです。
ファニー・クロスビーの最も有名な讃美歌はキリストにある新生体験を喜んで証しするすばらしい讃美歌です。ただその二番では、「携挙の幻が目前に迫っている」と歌われています。それで、その神学的な影響を少なくして、なお彼女の新生体験を生かした翻訳を作ってみました。内村的な体験を顕わにした訳となります。当教会では以下の歌詞で歌っています。これこそ「地を治める」という信仰の神髄の歌となります。
「祝福の確信」(Blessed Assurance)
曲 讃美歌529、聖歌232
- 祝福の確信、イエスは今、わが王。
世のすべて治むる 主のうちに生かさる。
This is my story, this is my song 救い主たたえん
This is my story, this is my song 御救いを喜ばん - この身、主に献ぐは たぐいなき喜び
憧れの御国の いのち今、始まる
This is my story, this is my song 救い主たたえん
This is my story, this is my song 御救いを喜ばん - 主の愛に包まれ わがいのち やすけし
闇の世に生かさる 主のちから わがもの
This is my story, this is my song 救い主たたえん
This is my story, this is my song 御救いを喜ばん