イエスの復活の記事は、各福音書によって描き方が異なり、明らかな矛盾も見られます。そのために私は以前、聖書を誤りのない神のことばであると信じられなくなったことがあります。しかし、誰に目にも矛盾と見える記述がそのまま残されているということ自体が、聖書が弟子の集団の中で編集されたものではなく、目撃者の記録をそのまま残そうとしたことの証拠とも言えましょう。
私たちはマタイを読むときにはマタイの気持ちに、ヨハネを読むときにはヨハネの気持ちになって読み、そこに見られる矛盾に関しては、時が来たら分かると期待し、無理に調和させようとせず、それぞれに描かれたストーリー自体を味わうべきでしょう。
そのような目でマタイを読むときに「大きな石」が鍵になるということが分かります。アリマタヤのヨセフが、イエスのからだを「新しい墓に納め……入り口に大きな石を」置き、その上でユダヤ人の宗教指導者が総督ピラトに願って番兵を出してもらって「封印をし」、そこに御使いが現れて「石をわきに転がし」、女たちに空(から)の墓を見させ、祭司長たちは空の墓の意味を考えることもなく弟子たちが盗んだという嘘の噂を広めたというものです。
冷静になると分かりますが、「大きな石」と「空(から)の墓」ほど明確な復活の証明はありません。祭司長たちの必死の努力も空しく、イエスの復活の証しは一人の女性から全世界に広められました。
1.「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りてきて石をわきに転がしたからである」
28章1節には、「さて、安息日が終わっての週の初めの日の明け方のことですが、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見るために行った」と描かれます。
27章56節ではイエスの十字架の目撃者として「マグダラのマリア、ヤコブとヨセの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた」と描かれ、61節では「マグダラのマリアともう一人のマリア」が、イエスのからだが「新しい墓」に葬られるようすを目撃したと記されました。その彼女たちがイエスの復活の証人としてここで登場するのです。
なおマルコの並行記事では彼女たちの前夜の行動が、「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った」(16:1) と描かれます。彼女たちはイエスの遺体に香料と香油を塗ることができなかったことを悲しみ、安息日明けの土曜の日没後に香料を買い求めていたのでしょう。
そこでは続けて、「そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた」(16:2) と描かれます。彼女たちは「朝早くまだ暗いうちに」(ヨハネ20:1)、墓に向かっていました。そして神は、そのような切ない思いを用いて、彼女たちを最初の復活の証人としようとしておられます。
当時の安息日であった土曜日に、彼女たちは休まざるを得ませんでした。それが益とされたのです。しかもマルコの記事では、女たちは墓に着いたとき、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と、「みなで話し合っていた」と描かれます (16:3)。
彼女たちはそんな当然のことも事前に考えることもなく行動してしまいました。しかし、ときには、そのように熱い情熱だけで動き始めることが、神によって用いられることがあります。
そしてその後のことが、マルコの並行記事では、「ところが、目を上げて見ると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった」(16:4) と描かれます。
またルカの記事でも、「彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。見ると、石が墓からわきに転がされていた」(24:1、2) と描かれています。
ところがここでは、マタイでの固有の記事として、「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りてきて石をわきに転がしたからである。そしてその上に座っていた。その姿は稲妻のようだった。またその衣は雪のように白かった」(28:3、4) と描かれています。
「大きな地震」とは、イエスが「大声で叫んで霊を渡された」と記された直後に、「地が揺れ動いた。そして岩が裂けた。そして墓が開いた。そして、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った」(27:51、52) と描かれていたことを思い起こさせます。
何と、死者たちの復活を起こしたと同じような「地震」が女たちの前で再び起きたというのです。ただ、それは御使いが天から降りてきて、大きな石を転がしたことによるものでした。
しかもそれは、イエスの復活のからだが墓の外に出るためではありません。それは「血肉のからだ」と対比される「御霊のからだ」であり、「朽ちることのない」、「栄光ある」もので、どのような壁をも通り抜けることができました。墓の石が取り除けられたのは、イエスの弟子たちに「墓に何もない」ことを指し示すために他なりませんでした。
しかも、そこに現された御使いは「その姿が稲妻のようだった」と描かれますが、かつてダニエルに現れた御使い以上の「一人の人」の姿が、「顔は稲妻のようにまぶしく」と描かれ (10:6)、またその前に彼に見せられた「年を経た方」の姿が「その衣は雪のように白く」(7:9) と描かれていました。
それからすると、ここに現れた御使いは最高位の存在とも言えます。そして、それに対する番兵たちの反応が、「その恐ろしさに番兵たちは震え上がった。そして、死人のようになった」と描かれます (28:4)。
つまり、御使いは自分の姿を、女たちばかりかローマ軍の兵士たちにも見せたというのです。墓の入り口に「大きな石」が置かれ、兵士たちによって番をされていたことが、このような御使いの栄光の出現を生み出す舞台となったのです。
2.「ここにはおられません。よみがえられたからです」
続く文章は、「御使いは女たちに答えて言った」と記されます。それは女たちの疑問や恐怖に「答える」という意味です。
語られた内容が、「あなたがたは恐れる必要はありません。十字架につけられたイエスを捜しているということは分かっています。ここにはおられません。よみがえられたからです、それは彼が言っておられたとおりです。さあ(来て)、置かれていた場所を見なさい」(28:5、6) と記されます。
御使いは、まず恐怖に満たされた女たちの心を静めるため、彼女たちがイエスのからだを捜し求めているという気持ちに寄り添ったことばを述べます。その上で、「ここにはおられません。よみがえられたからです」と簡潔に説明し、それはイエスご自身が以前から語っておられたとおりであると思い起こさせました。
そしてさらに、彼のからだが置かれていた場所を自分の目で見るようにと促しました。女たちがまず確認する必要があったのは、彼女たち自身がイエスの葬られた場所を三日前にきちんと目撃していたということと、その場所が空っぽになっていたということに他なりません。
彼女たちが確認できた「空(から)の墓」こそが復活の証拠なのです。
私が35年前にイスラエルを旅行し、イエスの墓をイメージさせる「園の墓」の中に立った時、そこには、空の墓とともに、「He is risen. He is not here」(マルコ16:6) と書いた小さな看板が掲げられていました。そこで、私は、電流が身体を走るように、イエスの復活を、心で実感することができました。
実はその少し前、カトリックとギリシャ正教が共同で管理する聖墳墓教会を見学しました。長い列を作って、金色に飾られた墓の中を見て、そこから出てその裏に回ったところ、ギリシャ正教の僧侶が、僕の手をとって、「この石は、イエスが横たわっていた頭の先にある石に通じる……これに触れるとご利益がある」ということを示していました。僕はその手をとっさに、やさしく振りのけましたが、彼の足元には献金箱が置いてありました。
何とも情けない思いになったその後に、このシンプルな園の墓を訪ねて、先のような深い感動を味わうことができたのです。
イエスは今、エルサレムの墓の中にいるわけではありません。また、天にも届くような荘厳なカトリック教会の中にいるわけでもありません。イエスは今、私たちの交わりのただ中におられます。それは、「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:20) とイエスが言われたとおりです。
復活する前のイエスは、現在のパレスチナのごく一部の地域しか歩くことができませんでした。しかし、復活のイエスは、もう時間と場所に固定される必要はありません。
しかも、イエスはご自身の御霊であり、また父なる神の聖霊である方を通して、いつでもどこでも私たちとともにいることができるのです。
ルカの並行記事では、墓の中に入った女たちに、二人の御使いが現れ、「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか」と問いかけたと描かれています (24:5)。これほど示唆に飛んだことばがあるでしょうか。
今も、「生きている方を死人の中に捜す」ように、イエスを昔の宗教的な偉人、悲劇の主人公としかみない人々が多くいます。彼らはイエスをマホメッドや仏陀などと同じように新しい宗教の開祖と見ています。しかし、どの宗教指導者が、これほど無残な死を遂げたでしょう。それは常識人にとっては、イエスが説いた神は、架空の願望にしか過ぎなかったことのしるしになります。
つまり、イエスの復活を文字通りの歴史的な事実として認めないすべての人は、聖書の教えを道徳や心の願望の教えにしているのです。
とにかくイエスはご自身の復活を、繰り返し弟子たちに予告し続けておられました。それで、御使いはここで「マグダラのマリアともう一人のマリア」に向かって、「急いで行って、彼の弟子たちに伝えなさい」というメッセージを託します。ここで女たちは、「使徒たちのための使徒」とされたのです。
そして託されたメッセージの内容が、「あの方は死人の中からよみがえられました。そして、見よ、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます」(28:7) と記されます。
ルカもヨハネも、その日の内にエルサレムでイエスはご自身の復活の姿を弟子たちに現わされたと描きますが、マタイとマルコでは、イエスはご自身をガリラヤで現わされると言っておられます。そこには矛盾がありません。マタイとマルコはあくまでも、ガリラヤにおいてイエスの弟子として召された弟子たちに再出発の機会を与えるということを強調しておられるのです。
さらに、ここで御使いは「見よ(いいですか)、あなたがたに言いました(確かにあなたがたに伝えました)」と念を押しています。まさに、ここで託されたメッセージの核心は、「ここにはおられません。よみがえられたからです、それは彼が言っておられたとおりです」と、イエスの受難と復活のことばを思い起こさせた上で、ガリラヤでの再出発を告げることにありました。
20章17–19節では、「イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んだ。そして道々彼らに話された。『見よ。わたしたちはエルサレムに向かっています。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。そこで彼らは彼(人の子)を死刑に定めます。
そして彼らは彼を異邦人たちに引き渡します。それは、嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、(人の子は)三日目によみがえらされます(受身形)」と明確に記されています。
これは受難以上に、死の力に打ち勝つ復活予告とも言えます。しかも「引き渡される」に対応するように「よみがえらされます」と受身形で記されています。それは16章21節、17章22、23節に続く三回目の受難予告でした。
とにかく、イエスは聞き間違えがないほど明確にご自身の復活を弟子たちに伝え続けていたのですが、その話はまったく伝わっていませんでした。まさに彼らには、自分たちが最初に弟子としての召しを受けたガリラヤからの再出発が必要なのです。
3.「告げなさい。わたしの兄弟たちに。ガリラヤに行くようにと、そこでわたしに会えます」
その後のことが、「そして彼女たちは急いで墓から立ち去った、恐れと大きな喜びとともにであったが、この方の弟子たちに知らせるために走ったのだった」(28:8) と描かれます。
彼女たちの気持ちが「恐れと大きな喜びとともに」と描かれていることに注目すべきでしょう。彼女たちは御使いのことばを「恐れ」のうちにも受け止めて信じて従い、墓が空っぽだったことを、イエスの復活の何よりの証拠と「大きな喜び」とともに受け止めていたのです。
たださらにイエスは、彼女たちが戻る途中で、「そして見よ、イエスは彼女たちに現れた、『おはよう(喜びがあるように)』と言いながら」(28:9) と描かれます。この挨拶のことばは、ギリシャ語訳のことばになっていますが、イエスはほぼ間違いなく、「シャローム」と語ったはずです。それは朝の挨拶のことばでもあったからです。
まさにイエスは、「恐れと大きな喜び」という矛盾した気持ちの彼女たちに真の平和(シャローム)を与えてくださいました。
それに対する応答が、「彼女たちは近寄って主の足を抱いた。そして礼拝した」と描かれます。彼女たちはイエスの足に抱きつきながらも、イエスを神として礼拝したのです。
そこでイエスは彼女たちに、「恐れることはありません。行きなさい、告げなさい、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くようにと。そこでわたしに会えます」(28:10) と語りかけます。
ここで何よりも感動的なのは、イエスがご自分を見捨てて逃げた弟子たちのことを (26:56)、「わたしの兄弟たち」と呼んでいることです。とくにペテロは呪いをかけて誓いながら三度もイエスの知らないと言ってしまいました。
そのようにイエスを裏切った者たちを「わたしの兄弟たち」と呼びかけるように、敢えて、マグダラのマリアを用いてそのことばを伝えさせようとしたのです。弟子たちは恥じ入りながらも、それを感謝して受け止めたことでしょう。
後にヘブル書の著者は、「聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。『わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう』」(2:11、12) と記します (引用箇所は詩篇22篇22節)。
イエスの十字架によって「聖とされる」私たちは、このままでイエスの父なる神の子どもとされ、またイエスから「わたしに愛する弟よ、妹よ」と呼んでいただけるのです。
与えられた「救い」とは、私たちがこのままで「神の子」の立場に入れられ、イエスの弟、妹と呼ばれることです。イエスは私たちの神であるとともに私たちの兄なのです。イエスが私たちの先を歩んでおられた兄であるからこそ、私たちはどんな苦しみの中にも希望を持つことができます。
しかも、イエスを兄とすることはイエスの苦難の道を歩む覚悟を持つことでもあります。
ただし一方でヨハネの福音書では、マタイと矛盾するように、マグダラのマリアが御使いと出会ったら決して取らなかったであろう行動が、「マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。『だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません』」(20:1、2) と描かれます。
しかもそこでは、ペテロやヨハネが空の墓を確認して去った後、「マリアは墓の外にたたずんで泣いていた」(20:11) と描かれ、そこにイエスが現れたと記されています。
ただ、そこでマリアに託した弟子たちへのメッセージでも「わたしの兄弟たち」という呼びかけがあります。人間的に考えると、マタイとヨハネの記述に整合性を持たせることは無理に思えます。ただ、そこでの共通点が決定的な意味を持っています。
ここに見られる矛盾は、目撃証言の記録から生まれる必然的な食い違いなのかもしれません。さらに興味深いのは、マルコの最も古い写本の最後の記述は、「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8) となっています。
この終わり方こそ、イエスの復活を御使いから聞いたときの最も自然な反応とも言えましょう。不思議なのはそれにも関わらず、弟子たちがその後、イエスの復活を、命がけで伝えるようになったことです。
4.「弟子たちが夜にやって来て、イエスを盗んでいった、私たちが眠っている間のことだった」
番兵たちは「死人のようになった」と描かれましたが、その後のことが、「彼女たちが向かっているうちに、見よ、番兵たちの何人かが都に戻って、起こったことすべてを祭司長たちに報告した。
そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議のときを持って、兵士たちに多額のお金を与えることにした、『彼の弟子たちが夜にやって来て、彼を盗んで行った、私たちが眠っている間のことだった』と言いなさいと述べながら」と記されています (28:11–13)。
これは、彼女たちがイエスと出会うことで足止めされていた間に、兵士たちが急いで祭司長たちに墓が空っぽになったことと、御使いが現れて墓の石が転がされたことを報告したという意味です。
それにしても、当時の習慣では、牢屋に入れられた囚人が逃げてしまったら、看守が、囚人が受けるべき刑罰を受けて死刑にされることになっていました (使徒16:27参照)。兵士たちが、自分たちの眠っている間に、イエスのからだが盗まれたと告げるなど、あり得ないことです。
ただこの場合、兵士たちはピラトから祭司長に預けられ、監督者は祭司長になっていますから、そのように言っても職務怠慢とされませんでした。
ですから、祭司長たちはよほど多額のお金を与えて、兵士たちに嘘を広めるように言ったことでしょう。彼らは兵士としてのプライドを捨てる必要がありました。ただし、祭司長たちはイエスの復活などを全く信じる気はありませんでしたから、兵士たちが御使いを見たという報告も真剣には受け止めなかったはずです。
基本的に、すべての人間には、自分の信じたい物語があり、それと調和する話しか事実と認めないという傾向があります。ですから祭司長たちも、兵士が幻を見たという程度の理解しかできなかったことでしょう。
事実、後に女たちの報告を聞いた弟子たちさえ、彼女たちの話を、「自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた」(ルカ24:23) というありもしない物語に割り引いて聞いていたと報告され、それを聞いた二人の弟子たちはエマオに向かって、失望しながら歩いていたと報告されています。
祭司長たちは兵士たちの懸念を払拭するかのように、「もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得します。あなたがたに心配をかけないようにします」(28:14) と言いました。
その結果が、「そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている」(28:15) と描かれています。墓の番をしていた兵士たちは祭司長たちに預けられた存在でしたから、彼らは自分たちの保護者の命令に従うことで、自分たちの立場を守ろうとし、その結果、不合理な嘘が広められました。
私たちはだれも、死んだ人間がよみがえるのを見たことがありません。イエスの弟子たちも、何度もイエスの話を聞きながら、信じることができませんでした。福音書が描く女性たちの証しも、矛盾だらけに見えるほどです。
しかし、一つのことが明らかです。イエスの復活の証しは、マグダラのマリアという女性から、イエスの「兄弟たち」と呼ばれる弟子たちに伝えられ、それがガリラヤでの弟子たちの再出発につながったことです。
祭司長たちはイエスの復活を否定することに全精力を費やしましたが、彼らは弟子たちによるイエスの復活の話を食い止めることはできませんでした。イエスの復活なしの福音は、単なる道徳の教えになってしまいます。しかし、イエスの復活は、この地の最も虐げられている人を通して神の平和をこの地に広げる働きを生み出しました。
七つの悪霊の支配されていた一人の女性が、復活の最初の証人となり、世界を変えて行ったのです。それこそがイエスの復活による勝利の証しと言えましょう。
私たちも、この世的な損得勘定や目の前の「恐れ」を乗り越える勇気ある行動によってイエスの復活の証人となることができます。イエスの復活は、「恐れ」を乗り越えたキリスト者の目に見える大胆な行動として世界に証しされ続けているのです。