「私が平和を……と語りかければ 彼らは戦いを求める」〜詩篇120篇

今、リトアニアで開かれているNATO(北大西洋条約機構)の会議に、日本の岸田首相が参加しています。昨年に引き続き二回目です。それは、どのようにロシアによるウクライナ侵攻を止めるかについての会議であり、明確に軍事政策が話し合われる場です。

今から五十年前、私たちの同世代の多くの若者たちは、日米安全保障条約が日本を戦争に巻き込む可能性が高いと、命を懸けるかのように反対運動を展開していました。ところが、今や、NATOの軍事会議に日本の首相が参加しても、何の反対運動も起きません。私はその是非を論じようとしているのではなく、それほどに政治や防衛政策に関する国民世論は揺れやすいということです。ふと、当時の命がけの安保反対運動は何だったのか……と思うほどです。

そのような中で、連日のようにウクライナ宣教師の船越先生ご夫妻からの報告が届いています。そこにはロシアの攻撃に怯える声とともに、すばらしい援助活動やお子さんたちの心をケアーする働きが伝えられてきます。

うまく写真等をアップできないのですが、今週も火曜日から金曜日まで三泊四日のキャンプが開かれ七十人の子たちが参加し、福音を聞きながら楽しく遊び、またともに食事をしているようすが伝えられてきています。

そこに映る子どもたちの笑顔に、本当に涙が出るほど感動しています。いつミサイルが飛んでくるか分からない状況下でも、このような希望と喜びにあふれる集会が開かれています。いや、まさにこのような恐怖の中だからこそ、希望と喜びが分かち合われる集会が何よりも大切だということです。

昔から人間は、戦いによって問題を解決しようとしてきました。でも、戦いのただ中で作られた平和こそが、世界を変えているという歴史を見ることもできます。近代的な医療や国際的な援助活動の歴史を語る際には、フローレンス・ナイチンゲールの名がいつも登場します。彼女は、まさに今回の戦いの始まりであるクリミア半島をめぐるロシアとイギリスとの戦いの中で、敵味方関係なく看護活動をしました。今や、その舞台となったクリミア戦争のことを知っている人は多くはいません。しかし、ナイチンゲールの名を知らない人はほとんどいないことでしょう。

国際政治に対する見解は、置かれている状況や時代によって大きく変わります。昔の常識が、今の非常識になる場合も多々あります。

私たちキリスト者は、そのような政治見解の対立の中で、地道に平和を広げる働きをするように召されているのではないでしょうか。

以下は詩篇120篇の解説です。現代にそのまま適用できることが書いてあります。最初の文は、「主 (ヤハウェ) に向かって、私の苦しみの中で叫ぶ、主が答えてくださるようにと」と訳すこともできます。続く文書も原文の語順では、「主 (ヤハウェ) よ 救い出してください 私のたましいを 偽りの唇 欺き舌から」(2節) と記されています。著者は、「平気でうそをつく人たち」に取り囲まれながら、そこから「救い出される」ことを必死に願っています。これはたとえば、どこにスパイが潜んでいるか分からない独裁国家で生きざるを得ない不安にも似ています。現在の日本でも、「正直に自分の気持ちを言うと、とんでもない非難を受けそうで、本音が言えない……」という恐れの中で生きる場合があることでしょう。そのような場から救い出されることを願った祈りです。

そのような中で、「欺きの舌」に対し、「おまえに何が与えられ おまえに何が加えられるだろうか。勇士の鋭い矢 そして えにしだの炭火だ」と、神のさばきが宣言されます (3、4節) 。これは「死の武器」としての「燃える火矢」によって「欺き」や「偽り」が一掃されることを願ったものですが (7:13参照)、そこに神の平和が始まります。

さらに著者は、「ああ 嘆かわしいこの身よ メシェクに寄留し ケダルの天幕に身を寄せるとは」(5節) と自分が置かれた状況を嘆いています。メシェクとは現在のトルコの東北部、ケダルとはアラビア砂漠に住む遊牧民で、両者とも争いを好む民族の代名詞的な意味がありました。

そのことが「この身は 平和を憎む者とともにあって久しい」(6節) という嘆きとして表現されます。さらに、そこで起こる悲惨が、「私が 平和をーと語りかければ 彼らは戦いを求めるのだ」(7節) と記されます。

「平和」とはヘブル語のシャロームの訳で、それは戦いがないこと以上に、すべてが整って欠けがない神の国の完成の状態を指します。それは、私たちが創造主のもとにある世界の完成への憧れを表現すると、「何をとぼけたことを言っているのか。そんな理想ばかりを言って、生きて行けると思っているのか」と、論争を仕掛けられる葛藤に似ているとも言えましょう。

ヘブル書では信仰者の歩みが、「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました」(11:13) と描かれています。私たちもこの異教社会の中で、キリストの苦難を味わいながら生きますが、神はシャロームの完成の世界へと導いてくださいます。

〜祈り〜

主よ、私たちは真の平和(シャーロム)に渇いています。理想からほど遠い弱肉強食の競争社会の中で、それに同調しないこの地の寄留者としての歩み、また、「新しいエルサレム」に向かう巡礼者としての歩みを、私に全うさせてください。