イザヤ45章15節〜46章13節 「生まれる前から運ばれている私」

2023年7月9日 

私たちの教会では、イエスを救い主と告白したときのことを「救いの証し」として分かち合います。その中で、つい、昔の自分や生まれ育った家庭環境を悪く描く傾向があるかもしれません。私も、自分の幼児期を過度に暗く描いた時期があります。

しかし、「母の胎内にいた時から、神に抱かれている」(詩篇22:10、71:6等) という真理が理解できたとき、自分の幼児期も両親も、ずっと優しい目で見られるようになりました。成長を目指すことは大切ですが、それが自己嫌悪感から始まるなら、心の平安には結びつきません。

しかし聖書の神はイスラエルの民に向かって、「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ……あなたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきた。わたしは運ぶ、わたしが背負って、解放する」と語っておられます。

確かに私たちが自分の意思でイエスを人生の主と告白することで「神の子」とされますが、それ以前に、創造主の側からこの私に目を留め、運んでいてくださっていたと自覚できることが健全な信仰です。神ご自身の側から、「正義」と「救い」を近づけてくださったのです。

1.「隠れたところで、わたしは語らなかった」

イザヤ書の核心には、「まことに、あなたはご自身を隠す神。イスラエルの神、救い主よ」(45:15) という告白があります。

それは、ヒゼキヤ王のもとで主 (ヤハウェ) の使いが夜のうちにアッシリア軍の18万5千人を殺して撃退してくれたという神の救いが見えた一方で、バビロン捕囚後のユダヤ人のエルサレム帰還と神殿の再建を命じたのは、異教徒のペルシア王キュロスであり、神はご自身を隠しておられたからです。

そのような中で、人々の目は、大帝国で礼拝されている神々に目が向かいます。それらは目に見える神々で、金や銀で飾られ、力と繁栄を約束しているように思えました。

しかし45章16節でイザヤは、「みなが、恥を見、辱(はずかし)めを受ける」とショックを与えるように断言し、「偶像を細工する者どもは、ともに辱めのうちに去る」と解説します。

それは偶像が指し示す力と富を神とする者の空しさを示すものです。今も多くの人々の心は目の前の豊かさに惑わされてしまい、人の成功を見ると心が騒いでしまいます。

それとの対比で、「ご自身を隠す神」を礼拝する民への祝福が、「イスラエルは (ヤハウェ) によって救われる。その救いは永遠のもの」(45:17) と語られ、その上で、二人称の動詞形で、「あなたがたは恥を見ることも、辱めを受けることもない。永遠に至るまで」と大胆な保障がなされています。

このときのイスラエルは偶像を礼拝する権力者のもとで、「恥」と「辱め」を受けているように見えますが、その状況が最終的には変えられるというのです。

これを前提に使徒パウロは、「この方(イエス)に信頼する者は、だれも失望させられる(原文「恥を見る」)ことがない」(ローマ10:11) と記しています。ご自身を隠す神は、イエス・キリストにおいてご自身を現してくださったのですが、私たちキリストに属する者は、この世で恥を見、辱めを受けることがあっても、それはキリストの御跡に従う栄光への道と知ることができます。

多くの人々が、ほんの些細な辱めにキレてしまうことがありますが、私たちはこの世の誹謗中傷や辱めに勝利することができます。

45章18節では、そのように私たちに保障を与えた方がどのような方であるかを、天地創造の原点に立ち返って、「それは、主 (ヤハウェ) がこう言われるからだ。―この方が天を創造された。この方こそが神、地を形造り、これを仕上げた。この方が、これを堅く立てられ、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかに形造られた」とご自身のことを紹介しておられます。

ここで「茫漠としたものに創造せず」とは、神はこの地を、人の住めない砂漠のような状態には創造しなかったという意味です。砂漠化は、多くの場合、人間の環境破壊によってもたらされているのではないでしょうか。

なお、「形造る」と繰り返されますが、これは陶器師が粘土で偶像を形造るときに用いられることばでもあります。私たちは、目に見えない神を目に見える姿に造ろうとする代わりに、神が形造られたこの地球の不思議と美しさを見ることによって神をあがめるべきなのです。

イエスも、お金に目が奪われる人に向かって、「空の鳥を見なさい」、「野のゆりを観察しなさい」と優しく命じてくださいました。お金にとらわれる自分を責めるのではなく、神が造られた世界の美しさに目を向け、それを肌で感じるとき、私たちの心は様々な誘惑から自由にされるのです。

その上で「主 (ヤハウェ) が言われる」内容が、「わたしは主 (ヤハウェ) 、ほかにはいない。隠れたところでわたしは語らなかった、闇の地の場所では。ヤコブの子らに言ってはいない。茫漠の中にわたしを尋ね求めよとは」(45:18、19) と記されます。

これは、ご自身を隠しておられる神が、同時にご自身のみことばを誰にもわかる形で明らかにされたことを示しています。「隠れたところ」や「闇の地の場所」では「語らなかった」と敢えて描かれるのは、しばしば異教の習慣では、神殿の霊媒者が隠れた暗闇の中で、神のお告げを聞くということとの対比です。

さらに、人の住めない「茫漠の中に」「わたしを尋ね求めよ」と「言ってはいない」とは、日常生活や、この地に見られる神の美しいみわざの中に、神を見出すことができるという意味です。

そして、主はご自身のことを再び、「わたしは主 (ヤハウェ) 、正義を語り、公正を告げる者」と紹介されます。神はご自身のことを隠したまま、服従を命じているわけではありません。神から私たちに対するみこころはすでに明らかにされています。そこには神の「正義」と「公正」がすでに啓示されています。

モーセはかつて、「隠されていることは、私たちの神、主 (ヤハウェ) のものである。しかし、現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである」(申命記29:29) と言っていました。

多くの人々が、「私には、主のみこころがわからない……」とつぶやきます。しかし、はたしてそうでしょうか。日々の生活の中で、全身全霊であなたの神を愛すること、あなたの隣人をあなた自身のように愛するというみこころは既に明らかです。

神の前に静まる時を聖別せず、最も身近な人に優しいことばをかけることもなく、「私にはみこころがわからない……」と言うのは、本末転倒に他なりません。今、わかっている主のみことばに従うところから、おのずと、主の導きは明らかになるものです。

2.「わたしを仰ぎ見て救われよ。地の果てのすべての者よ。」

45章20–22節は偶像の神々を拝む世界の異教徒たちに対する神の招きです。最初に、「集まって来い。ともに近づけ。諸国からの逃亡者たちよ」という「招き」があり、その上で「彼らは知識がない、木の偶像を運ぶ者、救えもしない神に祈る者らは」と、彼らの偶像礼拝が非難されます。

それは彼らが生まれ故郷から木の偶像をお守りとして携えてきたことを指していると思われます。彼らはバビロン帝国がペルシャ帝国に滅ぼされる中で、右往左往するだけで、偶像の神々を拝むことの空しさに圧倒されています。

その彼らに向かって主は、「告げよ。近づかせよ(証拠を出せ)。ともに相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前から告げたのか。それは、わたし、主 (ヤハウェ) ではなかったか」(45:21) と言われます。

それは、主 (ヤハウェ) がペルシア王キュロスを用いて、バビロン帝国を滅ぼし、イスラエルの民を約束の地に戻し、エルサレム神殿を再建してくださるという壮大な主のご計画が実現しようとしていることを指しています。

様々な不条理に出会い、神を見失うことがあったとしても、神の時が来ると、すべてが神の御手の中にあったということが見えてきます。おことばひとつで世界を創造された方は、同時に、私たちの細胞の隅々にまで目を向け、この世界の歴史を導いておられる全能の神です。

そのことを主は、「わたしをおいて、ほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしのほかにはいない」と宣言されます。

その上で、主は世界中の人々に向かって、「わたしを仰ぎ見て救われよ。地の果てのすべての者よ。わたしが神だ。ほかにはいない」(45:22) と招いておられます。

今も、多くの人々が、先祖伝来の神々を自分の部族の神として拝み続けています。しかし、聖書の神は、イスラエルを通してご自身を啓示されはしましたが、全宇宙の創造主であり、世界のすべての人々にとっての唯一の神です。

ただ、当時の世界の異教徒たちにとっては、ヤコブの神、イスラエルの神が自分たちの神となるというのは理解しがたいことでした。それが可能になったのは、旧約聖書がギリシャ語に訳され、使徒パウロが命がけで異邦人に福音を伝えたからです。

現代においてイスラエルの地から見た、「地の果て」とは、まさに日本です。この神の招きのことばは、まさに、八百万(やおよろず)の神々を拝んでいるという日本人への招きといえましょう。

さらに主 (ヤハウェ) は、世界の歴史が、主の御口から出る「ことば」によって導かれていることを、「わたしは自分にかけて誓う。正義がこの口から出る。ことば、それは戻ることはない。すべての膝(ひざ)はわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ、主 (ヤハウェ) にだけ、正義と力がある』と言う」(45:23、24) と表現しました。

アダム以来の人々は、自分の正義の基準によって「神をさばく」ようなことをしますが、正義とは、神のことば自体なのです。歴史は神のことばひとつ一つが実現する舞台です。神を知る者は、世界がどこから来て、どこに向かっているか、何のために生かされているかがわかるのです。

後にパウロはローマ人への手紙14章10–12節で、自分の兄弟をさばいたり、見下していることを戒める際に、「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです」と言いながら、このイザヤのことばの一部、「すべての膝」「すべての舌」がイスラエルの神の前にひざまずき、礼拝するという趣旨で引用した上で、「私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります」と記しています。

またピリピ人2章10、11節では、「ただ、 (ヤハウェ) にだけ、正義と力がある」ということばを、何とイエス・キリストに当てはめて解釈することで、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、膝をかがめ、すべての舌が、『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰する」と記しています。

そこで示されたキリストの姿は、自分の正義を振りかざし、自分の世界の中心に据えて争う代わりに、「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり・・自らを低くして……十字架の死にまでも従われた」神の御子の姿でした。そこでは、誰よりもののしられた方が、だれよりも高くされたという神の逆転が語られています。

とにかくこのイザヤのことばは、パウロがキリストの神性を説明する際の中心テキストとなっているのです。

さらに24b、25節では、「主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥を見る。イスラエルの子孫はみな、主 (ヤハウェ) によって義とされ、主を誇りとする」と記されます。

私たちは、自分の正義を振りかざして争ったり、主に向かっていきり立つような必要はありません。霊的なイスラエルの子孫である私たちはみな、主によって義とされ、誇ることが決まっているからです。

私たちが正義を実現しようとしなくても、神が正義を実現してくださることが明らかとされています。それに信頼する者は、イエスのように自分を低くして生きることができます。そして主は、自分を低くするものを、イエスと同じように高くしてくださいます。

3.「しらがになっても、わたしは、背負う……なお、わたしは、運ぼう。わたしが、背負って、解放しよう」

「ベル」とはヘブル語にするとバアルでバビロンの主神「マルドゥーク」のこと、「ネボ」とは「ナブー(告知者)」とも呼ばれ、神意を人々に解明する神でした。バビロンでは新年ごとに、この二神を祭る神殿の間の行列があったと言われます。

ここに描かれている状況は、バビロン帝国が滅ぼされ、この二つの神々が荷台に乗せられて逃亡する様子です。そのことが、「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた物たちの重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。その重荷を解放することもできず、彼ら自身もとりことなって行く」(46:1、2) と描かれます。

そこでは、ベルとネボを現す像が、家畜の荷台に乗せられながら、とりこになってゆく姿が皮肉に描かれます。しかも、ベルネボも、人々にとっての重荷となり、人々をその苦役から解放することはできません。

それと対照的な姿を、主 (ヤハウェ) は、「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、腹の中にいるとき(生まれる前)から運ばれた者よ。

あなたがたが年をとっても、わたしは同じだ。白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきた。わたしは運ぶ。わたしが背負って、解放しよう」(46:3、4) と言われます。

聖書の神は、私たちを母の胎内にいるときから担い、運び、解放してくださる方です。ここでは、「わたしは」というふだんへブル語では必要のない人称代名詞が敢えて五回も繰り返されています。

それは、私たちの信仰心の程度によって神の働きが決まるのではなく、神ご自身が私たちを担い、運び、背負って救い出してくださるということが強調されています。

この箇所から、マーガレット・パワーズの美しい詩が生まれています。彼女は次のように記します。「私はあるとき夢を見ました。私は主とふたりで浜辺を歩いていました。そこで、人生の様々な場面が思い浮かびましたが、そこにはいつも、ふたりの足跡が見えました。

しかし、人生の最も厳しかったとき、そこには一組の足跡しか見えませんでした。それで、私は主に疑問を訴えました。『私があなたに従うと決心したとき、あなたはいつも私とともにいてくださると約束してくださいました。それなのに、私が最も辛かったとき、そこには一組の足跡しか見えません。私があなたを最も必要としていたとき、なぜ、あなたは私を離れておられたのか、それが分かりません……』と。

しかし、主は、そのとき私にささやいてくださいました。『わたしのかけがいのない子よ。わたしはおまえを愛し、決して、決して見捨てたりなどしない。おまえが最も辛かったとき、一組の足跡しか見えないのは、わたしがお前を背負って歩いていたからなのだよ』」

私たちは絶望的な状況下で、祈ることすらできなくなることがあります。神が私たちを忘れるのではなく、私たちが神を忘れてしまうのです。

しかし、神は私たちを母の胎にいるときから担い、運び、背負ってくださっておられる方です。ここでは「胎内にいるとき」「腹の中にいるとき(生まれる前)から」と同義語が用いられます。私の母は未信者でしたが、神はそのときから私を背負っておられました。ましてあなたの母が信仰者の場合、あなたの母自身が神に運ばれ、背負ってもらっていたというイメージはどれだけ大きな安らぎになることでしょう。

あなたが自分の意思で主を信じる前から、主はあなたの神であられたのです。

46章5節の、「だれにわたしを似せて等しくし、だれにたとえると、わたしたちが似ているのか」という表現は、ユダヤ人がかつて自分たちをエジプトから救い出した神を金の子牛で表現したことを思い起こさせます。

また、神はご自身の攻撃力をライオンにたとえることがありましたが (5:29、31:4)、それを「神はライオンに似ている」と受け取る人がいたのかもしれません。しかし神はこの地の被造物に似せられるわけでも、似ているわけでもありません。

しかし、高価な金や銀を使って造られた偶像に共通することは、人間に運んでもらわないと移動できないということです。そのことが、「金(きん)を袋から惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずき、さらに拝む。彼らはこれを肩に載せて運び、背負い、下に置くと、これは立っている。その場から動くことはない」(46:6、7) と描かれます。

しかも、その偶像は、「さらにこれに叫んでも答えはしない。悩みから救ってもくれないものです。

神はかつて、「先のことを思い出すな。昔のことを思い巡らすな。見よ。新しいことをわたしは行う」(43:18、19) と語っておられましたが、ここでは、それと反対に、「このことを思い出し、勇み立て。背く者らよ。心に思い返せ。思い出せ、先の永遠から(遠い大昔)のことを」(46:8、9) と言っておられます。

それは、昔の成功体験に酔いしれて神の新しい救いのみわざが見えなくなってはいけませんが、一方で、神の永遠の創造のみわざに対しては繰り返し目を留めることが必要だという意味です。

そのことが、「このわたしが神、ほかにはいない。わたしのような神はいない」(46:8) と述べられますが、世界の古い宗教の中に創造主の概念があるのは聖書だけです。

聖書を知ることがなかったすべての古い宗教のどこにも、無から世界を生み出した神の概念は存在しません。日本の神々だって、すべて、生まれ出た神として描かれています。

同時に主はイスラエルの民に、エルサレム神殿を滅ぼしたバビロン帝国以降の歴史を、「終わり(後)のことを初めからわたしは告げる。まだなされていないことを、はるか前から。

そして、『わたしの計画は立ち(成就し)、望むことはすべて成し遂げる』と言う。東から猛禽をわたしは呼ぶ。遠い地からわたしの計画の者を。わたしが語ると、すぐにそれを行わせる。

わたしが計ると、すぐにそれを成し遂げる」(46:10、11) と告げられます。

神はバビロンの東にあるペルシア帝国を用いて、イスラエルを救うというのです。

それを前提に主 (ヤハウェ) は、「わたしに聞け。頑なな者たち、正義から遠く離れている者たちよ。わたしは近づける。わたしの正義を。それは遠くはない。わたしの救いが遅れることはない。わたしはシオンに救いを与える。イスラエルにわたしの光栄を」(46:12、13) と言われます。

神の「正義」から遠ざかっている民に向かって、「わたしの正義」を神ご自身が近づける、また、強情な民に向かって、神ご自身が「救い」を近づけてくださるというのです。

そして、神の一方的な恵みによって、神の側からエルサレム神殿の立っていたシオンの丘に救いを与え、イスラエルの民に神の栄光を与えてくださるというのです。イエスがイスラエルの王として、エルサレム神殿に立ってくださったとき、これらの預言はすべて成就しました。

いつでもどこでも神のことを心の中心に据え、いつでもどこでも神の救いを証しできるように準備し、神に仕えるような気持ちで誠実に仕事に取り組むことはすべて大切なことです。

しかし、そのような気持ちは、偶像礼拝者も持っています。その点では、創価学会や真如苑の信者のほうがしっかりしているかもしれません。しかし、聖書の神は、天地万物の創造主であり、あなた自身の創造主でもあります。

信仰の成長を目指すことは大切ですが、自分が生まれる前から神によって担われ、運ばれ、信仰の目が開かれているという原点を忘れてしまうなら、せっかくの信仰が心の重荷になってしまいます。

改めて、神を運ぶ信仰と、神によって運ばれる信仰の違いに目を向けてみたいものです。イザヤ書のテーマは、神を忘れた民を、神の創造と選びの原点に立ち返らせることにあります。そこには安らぎが生まれます。