イエス様の十字架の御苦しみを思い巡らす幸い

明日の金曜日(4月7日)はイエス様が十字架に架かられたことを覚える日です。英語では Good Friday、ドイツ語では Karfreitag と呼ばれます。ドイツ語の Kar には「嘆き悲しむ」という意味が込められています。

英語で、Good Friday と言われると、何か「イエス様の御苦しみによって、私たちの罪が赦された」という私たちの救いにつながったという「救いの果実」だけに注目されているような気がします。

しかし、ドイツ語には、イエス様の御苦しみに合わせて、私たち自身も嘆き悲しむという意味が込められているように思います。それにしても、ただでさえ、毎日の生活が大変なのに、敢えて「嘆き悲しむ」必要がどうしてあるのでしょう。

私たちの教会では、ここでの礼拝が始まって以来、毎年、この聖金曜日の音楽礼拝を守ってきました。ときには、ほとんど奉仕者しか集わないようなときもありました。(既に何度もご案内のように当教会では明日金曜日夜7時から音楽礼拝を開きます。なるべく会堂にお越しください。Zoom 配信はいつもの礼拝のリンクで行いますが、不安があります)

でも、あるとき、その日に、胃がんの宣告を受けて、絶望感に打ちひしがれた中年のクリスチャン男性が、この金曜日の礼拝に参加してくださいました。彼は不思議に、このイエス様の御苦しみを思い巡らす礼拝の中で、この試練に立ち向かう勇気を受けたと感謝してくださいました。そして、平安のうちにその後の手術に臨み、日常生活に戻ることができました。

実は、イエス様の御苦しみを思い巡らすこと自体の中から、生きる意味とか、生きる力とかが湧き上がるという神秘があるのです。これは理屈ではありません。

その際、讃美歌136番「血潮したたる」という讃美歌を思い巡らすことは大きな助けになります。残念ながら、日本語訳では四節しか翻訳されていません。一番だけは、主の御苦しみの思い巡らしですが、2番からすぐに十字架の果実に向かいます。それは極めて残念なことです。原詩は11番までの歌詞になっています。

この曲はバッハのマタイ受難曲での五回の合唱で歌われています。もともとバッハの100年以上も前から歌われていた曲ですが、今は、バッハの編曲のメロディーで歌われるようになっています。以下のビデオでその1番と2番が歌われています

以下に、歌うことができるようにした私訳をご紹介します

主の御頭みかしら
O Haupt voll Blut und Wunden: Paul Gerhardt 1656

  1. 聖き御頭みかしら 血潮に満つ
    いばらかぶされ さげすまれぬ
    こよなき誉れ ふさわしきを
    今は あざけり ののしり受く
  2. 貴き御顔 ああいたわし
    つばきかけられ 打ちたたかる
    この世のすべて 造りし主の
    栄え奪うは 誰のわざぞ
  3. 今は 隠れし 主のほほ笑み
    死の闇やどす 主のくちびる
    人の姿で 現われしは
    この苦しみを 受くるためぞ
  4. 主の負われしは わが罪とが
    怒り受くるは われなるべき
    こころ痛めて 悔ゆる者に
    愛のまなざし 注ぎたまえ
  5. わが飼い主よ 見つめたまえ
    きみはすべての みなもとなり
    きみが糧もて この身ささえ
    きみが霊もて 活かしたまえ
  6. きみが苦しみ 仰ぎ続け
    われ御前より のがれまさじ
    息を引き取る 主の御頭
    我が腕をもて 抱かせたまえ
  7. われに幸い もたらすため
    尊きイエスは 苦しみたもう
    生くる限りは この身ささげ
    十字架の愛に われは応えん
  8. 愛しきイエスよ 感謝あふる
    きみがあわれみ とわの望み
    この身冷たく 死せるときも
    愛の御手もて つつみたまえ
  9. きみが愛なお 忘れしとき
    わが手をとりて 戻したまえ
    恐れ惑える 暗きときも
    きみが苦しみ 力なれば
  10. 主の十字架こそ わが盾なり
    いまわのときも 見させたまえ
    きみが御姿 心深く
    かたく据えなば やすけくあらん