「喜び」に向けて —— 明日ウクライナ宣教師をお迎えします〜イザヤ35章 

日本中が WBC での日本の優勝を喜んでいます。栗山監督が試合後のインタビューで、ダルビッシュ投手のことを以下のようなニュアンスでたたえていました

彼は、最近、調子が良くなかった。彼自身は余裕がなかったはずなのに、若い投手たちに米国の打者一人ひとりの特徴を教えてくれていた。その雰囲気がチームを一つにしてくれた。

その他の様々な要素が働いて、日本のチームには兄弟愛と喜びがありました。

以前もお送りしましたが、僕はドイツ語が少しは分かっていながら、多くの日本人が大切にしているベートーベンの第九「合唱付き」の歌詞の意味を誤解していました。最初の異教的な雰囲気に違和感を覚えただけなのですが……

あの曲のタイトルは、ドイツ語では An die Freude で、これは「喜びに向けて」と解釈すべきです。Facebook での音楽家との対話で興味深いことが分かりました。

そこで歌われている歌詞はフリードリッヒ・シラーが1785年に書いたものです。そして、ベートーベンがシラーの原詩を読んで感動したのはその後のフランス革命の勃発の時期だったようです。しかし、その後、フランス革命は血で血を洗う内紛になり、それを収束してヨーロッパに自由を広めたナポレオンも期待はずれな動きの後、排除され、昔の王制が復古します。

ベートーベンが、合唱の最初に書いた歌詞「友よ、このような旋律ではない」ということばは、シラーの歌詞の再解釈という意味が込められていたのではないか……というものです。それは、絶望的な状況の中に、「喜び」を見出すこと、一人の友を友とすることができるという兄弟愛の中にこそ喜びを見出し、その喜びが世界を変えて行くという希望です。ドイツ語の「喜び」と「友」は極めて近い発音です。これは喜びと友情の相互作用を歌ったものと言えましょう。

明日、3月25日 (土) 午後1時半からウクライナ宣教師の船越先生ご夫妻を当教会にお迎えして、宣教報告をしていただきます。それはまさに、絶望的な状況の中で、兄弟愛が広がって行く……という生きた証しになることでしょう。この世界がどれほど暗くても、私たちはそこに喜びの種を発見することができます。

先の「喜びに向けて」の歌詞では、「喜びこそが、時流が引き裂いた関係を結びつけ、すべての人を兄弟とする」と歌われています。

私たち聖書の福音を信じる者は、どのような暗闇の中にも、希望と喜びを見出すことができます。

私たちが今読み続けているイザヤ書では、13章から34章まで、世界に対する厳しいさばきが宣告され続けます。正直、読むことが苦痛になるほどです。しかし、その直後の35章で次のような表現へと転換します

荒野と砂漠は喜び、
荒れ地は喜び踊り、
サフランのように花を咲かせる。
盛んに花を咲かせ、
歓喜して歌う。

すべての神のさばきの目的は、神に逆らう勢力を屈服させ、それによって人々を謙遜にするためです。そして、一人一人が創造主に立ち返るときに、そこに真の「喜び」が生まれます。

私たちは、この世界が平和(シャローム)に満たされ、互いが互いを喜ぶことができる状況を待ち望みます。