「人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」 —— 35年前の卒業論文〜創世記2章25節

最近、facebook を通して、聖書解釈に関しての様々な対話を重ねています。その中で、35年前に自分が素朴に持っていた疑問が、今、ホットな議論になっていることに気づかされています。それは、第一に私たちが持つ痛みの感覚としての「恥」の意識です。創世記では、アダムとエバが禁断の木の実をとって食べる前の調和が、「人とその妻はふたりとも裸であったが、(互いに)恥ずかしいとは思わなかった」と、エデンの園での調和として描かれています。しかし彼らが神に逆らったことで互いの信頼関係が崩され、そこからアダムがエバに責任を擦り付け、二人から生まれた最初の子が弟殺しになるというストーリーが描かれています。

そして、最近は米国においても、「恥」の観点から聖書のストーリーを読むことの大切さが気づかれはじめているとのことです。それは罪意識の問題にばかり焦点を合わせる救いの理解が行き詰まって来ているからだと思われます。そして、そのようなことに関心をお持ちに方から、僕の論文を読ませてほしいとの願いがありました。

また、最近は、僕の尊敬する N.T.ライト先生が、プロテスタントの教会で大切にされ続けてきた「信仰義認の教理を軽んじている」と批判されていることが話題になっています。しかし、これも35年前の僕の論文で、ローマ1、2章に関することで、「信仰義認の中心の理解の問題点」として記していたことでもあります。僕も当時から、信仰義認の教理をローマ書全体の核心に置くことの問題を感じていました。僕はライト先生と出会ったのは今から24年前ですが、その前から抱いていた疑問をライト先生に説明していただき納得できたという流れがあったことが改めて分かりました。

またある時は、人間の自由意識と宿命の関係について話題になりましたが、そのときも自分の卒論でそれを扱っていると言いましたら、ぜひ読ませてほしいとの願いがありました。

僕の論文の主旨は、聖書の全体的な読み方を問い直すものです。私たちは、聖書が敢えて説明しようとしていないことを聖書に読み込もうとして迷路に迷います。その典型的なものが、「神の一方的な恵みによって私たちが救われる」と言われながら、現実には、受洗者の半数が教会から離れるという現実などに見られれます。救いおける「選び」は決定的な意味を持ちますが、「私は果たして選ばれているだろうか……」という個人的な確信を求めようとすると迷路にはまる場合があります。僕はそのような方の疑問にも向き合いながら、改めて、聖書が説明を控えていることを読み込もうとすることの危なさを感じさせられてきました。

聖書を読み際には、一度、自分の様々な疑問や先入観を横に置いて、聖書自体のストーリーの中に身を置く必要があります。確かに聖書の言葉遣いは今から3000年以上も前のものですから、解釈が難しい所がありますが、若干の解説を受けさえしたら、全体のストーリーはだれにでも把握できると思われます。

あなたの様々な疑問は解決しないかもしれませんが、聖書全体の救いのストーリーをまず心の中心に据えるときに、それらの問題は小さく見えてくることでしょう。

今になって、第10章の次に第12章という番号を振り分けてしまったという初歩的なミスに気づかされ、赤面の思いです。しかも、僕の字の汚さを衆目にさらしてしまうことになります。

しかし、それでも、ぜひ読めるようにしてほしいとの何人もの方からの声をいただきましたので、当教会のHPで公表させていただきます。ページを開くかのように見られ、また拡大もできるようになっています。

正直、35年前に自分で論文を書いてから、多くの人に読んでほしいと、図々しくも思っておりました。このようなことを可能にしてくださったHP担当者の方と、それを導いてくださった全能の主に心より感謝します。
 
お時間のある時に、 からお読みいただければ幸いです。