今週月曜日、火曜日と日本福音自由教会協議会総会が久しぶりに対面で開かれました。そこで、本当に多くの方々から、当教会のホームページをご覧いただいているとのおことばをいただきました。その中でも、アズベリーリバイバルの記事に教えられたとのお話しをいただきましたが、同時に、それが日本であまり話題になっていないことを悲しむ反応もありました。
私たち自由教会の流れは19世紀の北ヨーロッパや米国でのリバイバル運動から始まっています。多くの方の愛唱歌である讃美歌529番「ああ嬉しわが身も主のものとなりけり」とか、聖歌232番「罪咎を赦され主のものとなりけり」というファニークロスビーの有名な曲が生まれたのは1873年の頃でした。
この頃は西暦2000年を迎えるという期待の中で、キリストの再臨を待ち望む様々な預言運動が盛んにありました。そのとき米国で盛んになった神学がディスペンセーション主義と言われます。先のファニークロスビーの歌の2番でも Visions of rapture now burst on my sight(携挙の幻が私の目の前に迫っている)と歌われています。
ところが最近の福音的な教会では携挙(けいきょ)ということばも、千年王国ということばもあまり聞かれなくなっています。多くの福音的な神学校でも、そのような教えがなされなくなってきています。
そして、福音自由への入会を志す方々の中に、千年王国ということばが障害になっているという話も聞かれるようになってきました。これは特に、米国で大きな課題になり十数年かけて検討がなされ2019年に「千年王国」ということばが削除されました。
そのような流れを受けて、最近の日本の福音自由教会の中でも信仰箇条の見直しの研究がしばらく前から行われてきました。そして今回、11条にある「千年王国前の、切迫した再臨を信じる」という表現を、「栄光ある現れである、ご自身による切迫した再臨を信じる」ということばに変更するという決議がなされました。
結果的に約100名の代議員数の四分の三以上の賛成で可決されましたが、これから各教会の一般信徒の方々にその理解を深めていただく必要があります。ただ福音自由教会の中には、この千年王国ということばを中心に終末論を考えて来られた方々が多くおられますから、今後本当に落ち着いた話し合いが必要です。私たちの教会でも、徐々に学びの機会を持ってゆきたいと思っております。最終的にその変更を受け入れるかどうかは、各地方教会の判断にゆだねられています。
その際、鍵になるみことばはテトスへの手紙2章11–13節です
11 実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。
12 その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。
この千年王国の期待と第二次大戦後のイスラエルの建国がしばしば預言の成就として結びつけられて語られた面もあり、それが政治的な見解における違和感を起こしてきたという面もあります。
そのような時代的な動きから、一歩距離を置いた形で、キリストの再臨をともに落ちついて、同時に、真のリバイバルを待ち望む熱い思いとセットに今後教会で考えて行く必要があります。