キリストにある愛の交わり —— 「千年王国」に関する理解の違いを超えて〜黙示録20章から

最近、米国で、ケンタッキー州のアズベリー大学から始まったリバイバルの動きが、全米各地に広がっています。本当にすばらしいことです。この数年間、米国では政治の問題を巡って、キリスト教会の中にも激しい意見の対立が生まれていました。本音で自分の意見を言えなような雰囲気があったとも聞きます。しかし、多くの人々にとっての本当に大きな課題は、もっと身近な、自分自身の将来に対する不安や、家族内の対立、自分を受け入れることができないという自己嫌悪感のようなものであったようです。キリストの福音はまさに、そのような身近な課題に語りかけ、あのような大きな動きになって行きました。

米国の福音的な教会の中で、しばしば神学的な見解の対立となったのは「千年王国」と呼ばれてきた神学見解を巡ってでした。私たち福音自由教会においても、これを巡っては見解の違いがあります。しかし、本当に正直な気持ちですが、意外にも、僕にとって日々のできごとに関してとっても気持ちが通じ合う同労者は、その「千年王国」に関しての神学的な見解が「真逆?」と思える方の中にいます。互いの違いに気がついた後は、基本的にはそれに関しては議論を避けながら共有できるところでコミュニケーションを取って行きます。すると、「どうしてこんなに気持ちが通じるのか……」という発見があったりします。そればかりか、異なった神学的な見解に関して、自分が「色眼鏡」で見ていた部分があることに気づかされるということもあります。

私たちはそれぞれ異なった背景の中に生きてきましたから、本当に気持ちが通じ合う部分と、どうしても理解し合えない部分があるのは仕方がありません。私たちの群れは、多様性を尊重します。意見の違いを歓迎しながら交わりを築くことができます。

何人もの方から、「千年王国」に関してのご質問を受けましたので、拙著「今、ここに生きる預言書」の中に記したことをご紹介します。とっても簡潔にまとめたつもりです。お読みいただければ幸いです。この記事の全体は、当教会のHPに として記しています。その前後関係を含めて全体をお読みいただきたいのですが、いつも、僕の記事は長くなりすぎるという感想もいただいておりますので、最低限の部分を下記に抜粋させていただきます。

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黙示録20章では、サタンが捕らえられ、「千年の間縛られる」(20:2) と記されます。そしてこのとき、偶像礼拝の圧力に屈しなかった信仰者は「生き返って、キリストとともに千年の間王となった」(20:4) と描かれます。これはしばしば、千年王国と呼ばれます。なお、この千年王国に関しても、エゼキエルが預言した地上のイスラエル王国の復興であるという見解もありますが、ここでは明らかに、キリストに従い続けた「キリストの祭司が……千年の間王となる」(20:6) と記され、キリスト者がキリストとともに治める国であると記されています。

不思議なのは、これですべてが終わるのではなく、「千年の終わりに、サタンは牢から解き放され……ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海辺の砂のようである。彼らは聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした。そして……悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」(20:7–10)と描かれていることです。つまり、千年王国も、過渡的な地上の王国なのです。そして、これは「エデンの園」で人間を誘惑した悪魔、「古い蛇」(20:2) を最終的に滅ぼすための過程にあることです。これは、神が、古い蛇をも支配し、この地に平和を実現することができるということのシンボルです。

千年王国の意味は、「神は……世を愛された」(ヨハネ3:16) という有名なみことばで言い換えられます。神はこの目に見える世界を愛しておられるからこそ、すべてを新しくする前に、この地に平和を実現してくださるのです。

しかも、黙示録には、サタンによる大迫害の中で信仰者が耐え忍ぶべき期間が、「四十二か月」(11:2、13:5) 「千二百六十日」(11:3、12:6)、「一時と二時と半時の間」(12:14) と記されていますが、これはすべて「三年半」という期間に相当します。つまり、苦しみは三年半で終わり、平和と喜びは千年間も続くという対比がここに強調されているのです。ですから矢内原氏も、戦時下の苦しみは、「ひと時の悪夢であった」と語りながら、黙示録によって、そのような時期はすぐに終わると確信でき、耐えることができたと告白しているのです。