「イエス様を信じたら、天国に行ける……」というのは間違っていませんが、その「天国」とはどのようなところでしょう。そこで思い浮かぶのが聖歌687番で、「1. まもなくかなたの流れのそばで、楽しく会いましょう、また友達と。 神様のそばの綺麗な綺麗な川で、みんなで集まる日の、ああ懐かしや。 2. 水晶より透き通る流れのそばで、主を賛美しましょう、み使いたちと……」と歌われます。
これは黙示録22章に描かれた新しいエルサレムの情景です。ただ、これは死んですぐに行く世界ではなく、キリストの再臨の際に既に死んだ信仰者が、新しい身体で復活した後に入れていただける世界です。
実は、聖書には死んだ直後にたましいが入るはずのパラダイスの描写はほとんどありません。多くの日本人からしたら、「なんで天国に綺麗な川があるのだろう……三途の川の向こうに、また川があるの?」と思うかもしれません。
しかし、聖書に描かれる新しいエルサレムは、失われたエデンの園の祝福が回復される世界で、そこから世界を潤す「いのちの水の川」が流れ出ています。水が貴重な山の上の町のエルサレムの住民にとって心に響く表現でもあります。
イメージ・トレーニングという表現もあるように、人生のゴールをいつも心の中で思い浮かべることは、霊的な祝福をこの地で体験できるための鍵でもあります。
世界の歴史はエデンの園から始まって新しいエルサレムに向かっています。私たちは自分の人生のゴールをいつも霊の目で見続けることで、この世の様々な苦難を乗り越える勇気が湧いてくるのではないでしょうか。
1.「ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ」
32章1節では、「見よ。一人の王が正義によって治める。首長たちは公正(さばき)によって支配する」と記されます。
イスラエルの堕落は指導者たちが私利私欲に走ったことから始まりましたが、預言された王が登場するとき、指導者たちに関して「それぞれの人がなる」と、まず言われ、「風を避ける避け所、また嵐を避ける隠れ場のように、そして、砂漠にある水の流れのように、また乾ききった地における大きな岩の陰のように」と描かれます (32:2)。
それは創造主ご自身が指導者たちをそのように変えてくださるという意味です。さらにそのときの状態が、「見る者は目を閉ざすことがなく、聞く者は耳を傾け、性急な者の心も知識を悟り、もつれた舌がはっきりと速やかに語る」(32:3、4) と描かれます。
たとえば、独裁国家では「見ざる、言わざる、聞かざる」の故事が本来の意味を離れ、権力者の意に沿わないことを「見たり、聞いたり、言ったりしない」という呪縛の効果を持つことがありますが、キリストが支配する世界において私たちは、この世の悲惨にも「目を閉ざす」ことなく、面倒な話にも「耳を傾け」、「性急」な結論を出す代わりに「知識を悟り」、この世界をより良くするために言うべきことは「はっきり……語る」ことが許されます。
5節の「愚か者」とは、原文で「ナバル」(Ⅰサムエル25章での「アビガイルの夫」の名と同じ)と記されています。それは、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言う」(詩篇14:1) と記されているのと同じ心の状態です。残念ながら、「愚か者が高貴な人」と「呼ばれ」てしまうことから国の堕落が始まります。
その「愚か者」の問題は6節で改めて描かれ、「愚か者は愚かなことを語る」という語呂合わせの後で、「主 (ヤハウェ) に向かって迷いごとを語る」と描かれます。この部分は協会共同訳では「主について(敵対して)惑わせることを語る」と訳されますが(カッコ内は解説)、その方が分かりやすいでしょう。
それゆえ、「愚か者」が指導者になるとき、人々の信仰が堕落してしまいます。しばしば、この世の基準で「頭が良い」と見られる人が、主の前でのとんでもない「愚か者」である場合があります。そして、それこそ神の民にとっての悲劇となります。
また32章7節には「ならず者」のことが描かれます。しばしば、国が乱れる大本は、王の側近に「ならず者」がついて「上流の人」と呼ばれることから始まります (5節)。
「ならず者」は、権力者に媚びへつらって自分の地位を得ますが、彼らは7節にあるように、「貧しい者」や「身分の低い者」に対しては極めて横暴に振舞い、彼らを虐げます。
これは人の人格の本質を見分ける大きな判断材料になります。その人の権力者に対する態度と、社会的弱者に対する態度の間に大きな落差があるのが「ならず者」です。
8節ではこれらと対極にある「高貴な人」のことが描かれます。それは出生の良さよりは、神を恐れ、自分の命に代えてでも社会的弱者を守ろうとする真の指導者としての生き方を指します。
私たちもキリストにあって高貴な人とされているのですから、「高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことに堅く立つ」と言われる者でありたいものです。それは自分の損得勘定から自由な生き方を指します。
32章9節から14節までは、「安逸を貪る(のんきな)女たち」や「うぬぼれている(安心しきった)娘たち」への警告が記されていますが、原文では、それぞれ「穏やかな女」「安心している娘」とも訳すことができることばで表現されています。
穏やかで心に安心感を持っている女性は、人との交わりを豊かにしてくれますが、半面、国が危機的な状況に陥っているときには対処を誤らせる力にもなります。
ですからここでは、主ご自身が「立ち上がって、わたしの声を聞け……わたしのことばに耳を傾けよ」(9節) と訴えます。
さらに彼女たちを待つ悲惨が目の前に迫っていることが、「うぬぼれている(安心しきった)女たちよ。一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもやってこないからだ」(32:10) と描かれます。
そこで再び「安逸を貪る(のんきな)女たち」に「震えよ」と命じ、さらに「うぬぼれている(安心しきった)娘たち」に「わななけ」と命じられます。
さらに彼女たち全体に、なんと「着物を脱いで裸になり、腰に粗布をまとえ。胸を打って嘆け」と激しく訴えられています (32:11、12)。それは、今は「麗しい畑、実り豊かなぶどうの木」を保っているように見えるエルサレムに、危機的な状況が迫っていることを覚えさせるためです。
そのときには「宮殿は見捨てられ……オフェルと見張りの塔は永遠の洞穴(荒れ野)に、野ろばが喜ぶ場、羊の群れの牧場になる」と描かれます。私たちも「穏やかさ」が「安逸を貪る(のんきな)」ことにならないように、また「安心」が「うぬぼれ」にならないように注意すべきでしょう。
32章15節から20節では、それと対極の平和と繁栄の様子が描かれていますが、その始まりは、「ついに、いと高き所から私たちに霊が注がれ」るという神の一方的なめぐみのみわざです。現代の新約の時代は、このイザヤの預言が成就し、私たちのうちに神の御霊が宿ってくださったときです。
さらに、「荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。公正(さばき)が荒野に宿り、義(正義)は果樹園に住む」(15、16節) とは、この地に「エデンの園」が回復されることを指すと思われます。
そのことが、「義(正義)が作り出すものは平和 (シャローム)、また義(正義)の生み出すものはとこしえの平穏と安心です。そこで私の民は、平和 (シャローム) な住まい、安らか(安全)な家、心配の要らない憩い(安息)の場に住みます」(32:17、18私訳) と記されます。
ここで注目されるのは、聖霊が私たちのうちに神の「義(正義)」を生み出し、それが私たちの間に平和(シャローム)を実現すると言われ、その平和(シャローム)が「安らか」さ「安息」と言い換えられていることです。
最初の「エデンの園」は人の罪によって失われましたが、終わりの時代に主 (ヤハウェ) は、人にご自身の霊を授けることからこの地に祝福を回復してくださるというのです。それは人間の力ではなく、神の一方的な恵みとして実現することです。
私たちに「いと高き所から……霊が注がれ」ることがどれだけ偉大なことかを忘れてはなりません。私たちはすでにエデンの園の入り口に立たせていただいているのです。「永遠のいのち」とは、その祝福が保障されたということを意味します。
なお32章19節では、神を忘れた国々の繁栄の危うさが、「あの森」「あの町」として描かれながら、再び20節では神の民に訪れる「幸い(祝福)」が描かれます。まさにイザヤ書では、神のさばきと神の祝福が繰り返し交互に描かれているのです。私たちはその両面をいつも心に留める必要があります。
2.「今、わたしは立ち上がる」と、主 (ヤハウェ) は言われる
33章では、神の民を虐げる国々へのさばきとエルサレムへの祝福の約束が交互に描かれます。
1節は「わざわいだ(ああ)」から始まります。30章1節の「わざわいだ」、31章の「ああ」もヘブル語では同じことばで、それぞれエルサレムへのさばきの宣言でしたが、ここでは「自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは」と描かれます。
これはエルサレムではなく、アッシリアを指すというのが多くの学者の解釈です。それはアッシリアがエルサレムからの貢物を受けながら、裏切って攻撃をしかけてくることが非難されていると思われます (Ⅱ列王記18:14–16参照)。
そのような中で突然、「主 (ヤハウェ) よ。あわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます」(33:2) という信仰告白が記されます。
その祈りが後のイザヤ37章14–20節に表されていると考えられます。そこでヒゼキヤは、「万軍の主 (ヤハウェ) 、イスラエルの神よ……ただあなただけが、地のすべての王国の神です……今、私たちを彼(アッシリアの王)の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主 (ヤハウェ) であることを知るでしょう」と祈りました (同16、20節)。
これ自体は模範的な祈りで、そのような信仰告白はヒゼキヤが王となってからずっと守って来たものでした。ところが、実際にアッシリアの王が目の前に迫ってくると、急に怖じ気づいてしまい、神殿の修復のために集めて、扉と柱に張り付けた金を剝ぎ取って、アッシリアの王に渡すという愚かなことをしてしまいます。
それは目に見えない神に信頼しているはずの人が、目の前に見える権力者の脅しに屈してしまう良い例です。しかし、アッシリアの王は、すぐに大量の金が出されたことに驚き、かえって攻撃を激しくしました。これは最近のネット詐欺と強盗の組み合わせに似ています。財産が多くあると知られたことで攻撃を招くことになります。
そのような失敗の後、ヒゼキヤは「万策尽きた……」という状況になって改めて、主に必至にすがったのだと思われます。
そこでイザヤは、「あなたが立ち上がると、国々は散らされます」(33:3) と告白しますが、それと同じように、アッシリア連合軍は「主 (ヤハウェ) の使い」の攻撃によって追い散らされると預言されます。
そしてそのとき主は、「あなたがたの分捕り物は……集められ」(33:4) と、大国に貢物を贈っていた国が、反対に、その軍隊があわてて逃げた後に残した物で豊かにされると言われます。
それは、「主 (ヤハウェ) はいと高き方で、高い所に住み。シオンを公正(さばき)と義(正義)で満たされる」(33:5) とあるように、主こそが「王の王。主の主」として世界をご自身の公正なさばきと正義によって支配しておられるからです。
そのことを前提に、「主はあなたの時を堅く支え、救いと知恵と知識の富となられる」と描かれ、その上で、それを要約するように、「主 (ヤハウェ) を恐れることは、その財宝である」(33:6) と述べられます。
これこそ、私たちが暗唱すべきことばと言えましょう。世の人は目に見える富を求めるのが常ですが、私たちは、主こそがすべての富の源であることを告白します。私たちはそのような霊的な現実をどれだけ味わっているでしょうか。
しかしそれと対照的な今の悲惨が、33章7節で「見よ。彼らの勇士は通りで叫び、平和の使者たちは激しく泣く」と記されます。これはアッシリアとの和平交渉の失敗を指します。
8節後半は、「契約は破られて、町々はさげすまれ、人は顧みられることがない」と訳すことができます。
9節ではアッシリアの前に、「地は喪に服してしおれ」と記され、そのことが象徴的に、豊かなレバノンの森が枯れ果て、肥沃なシャロン平原が荒れ野のようになり、豊かなバシャンとカルメルも葉を振り落とすと、象徴的に描かれます。
しかし、33章10節では、そのような危機的状況の中で、「今、わたしは立ち上がる。——主 (ヤハウェ) は言われる——今、わたしは自らを高く上げ、今、わたしは自らを高める(あがめられるようにしよう)」と記されます。これは、ご自分を隠しておられた神が、「今」と三回繰り返しながら、誰の目にも分かるような形でご自身の力を表されるということを宣言されたものです。
そしてその結果として、アッシリアの計略が「枯れ草をはらみ、藁を産む」ような無駄な労苦に終わり、「あなたがたの息は、自分たちを食い尽くす火だ」(33:11) と言われるような自滅に至ることが記されます。
さらに12節での「諸国の民」とはエルサレムやユダ王国を包囲する国々で、彼らはアッシリアの同盟国として動いていたため破滅に向かうと記されます。
私たちの目にも、神に逆らう者たちが勝ち誇り、主がご自身を隠しておられるようにしか思えないときがあります。しかし、主は、やがて、「今、わたしは立ち上がる」と仰せられるときが必ず来るのです。
たとえば、黙示録ではハルマゲドンでの戦いは、神に逆らう勢力が大結集するときで、それが人類最終戦争などと呼ばれる場合がありますが、そこでは直後に、「事は成就した」という神の勝利の宣言がなされます (黙示16:14–17)。つまり、世界の終わりと思えるときこそ、神の民にとっての勝利のときとなるのです。
3.「私たちの祝祭の都、シオンを見よ」
33章13節では、「遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ、わたしの力あるわざを知れ」と訴えられます。これは遠くの異教の国々がイスラエルの神のみわざを聞くと同時に、近くのエルサレムの住民に向かって主の「力を知れ」と訴えられることです。
続けて「罪人たちはシオンでわななき」と記されるように、ここから24節までエルサレム神殿が立つシオンの丘での決定的な変化が描かれます。これは2章2節で「終わりの日に、主 (ヤハウェ) の家の山は山々の頂に堅く立ち……そこにすべての国々が流れて来る」と記されながら、4節で「多くの民族」が「その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す」と記されていたことを思い起こさせます。
そのみことばは世界平和の象徴として国際連合前の広場の壁に刻まれています。とにかく、イザヤ書ではシオンが神の都として高められることが世界の救いとして描かれるのです。
14節で「罪人たち」とは、「神を敬わない者」と言い換えられています。彼らは、このときになって、「焼き尽くす火」「とこしえに燃える炉」のさばきを恐れるようになるというのです。
それに対して、「義(正義)によって歩む(義を行う)者、まっすぐなこと(公正)を語る者」、また強奪や賄賂と無縁で、流血の計画に耳を貸さずに加担せず、悪いことの仲間とならない者たちの平安が、「このような人は高い所に住み、その砦は岩場の上の要害である。彼のパンは備えられ、彼の水は確保される」(33:16) と、その安全が保障されるようすが描かれます。
つまり、主に信頼することこそが平安 (シャロ-ム) な生活の基礎なのです。
33章17節は、「麗しさのうちにある王をあなたの目は見る。遠くまで広がる国(地)を眺める」と記されます。これはイスラエルの神、主 (ヤハウェ) がこの世界を直接に治める状況を、見ることができる感動を描いた表現です。
そのとき「あなたの心は」、アッシリア帝国の攻撃に圧倒された「恐ろしかったことを思い巡らす」のですが、そこで「数えた者」「量った者」「やぐらを数えた者」と呼ばれる敵の略奪隊が影も形もなくなっていることを思い起こします (33:18)。
そのことがさらに、「あなたはもう横柄な民を見ない」と記されながら、彼らの特徴が、理解できない言葉を話す民として描かれます (33:19)。これは28章11–13節で、主が外国語を話す異教徒を用いてエルサレムにさばきを下そうとしたことを思い起こさせます。
そのとき彼らは、目に見える人間よりも、イスラエルの神、主 (ヤハウェ) をこそ恐れるべきであることを悟るのです。
33章20節では、まず「(心の目で)見よ、シオンを、私たちの祝祭の都を」と命じられます。「見よ」という動詞は、17節での「王を見る」というときと同じで、霊の目または心の目で「見る」ことを意味します。全世界の王である神を見ることと、そのシオンという神殿の丘を見ることがセットにされているのです。
しかも、そこは「祝祭の都」と記されています。私たちは主の御前での祝宴に招かれていますが、それをいつでも霊の目で見続けることが命じられているのです。
さらに続けて、「あなたの目は見る(17節の「眺める」と同じ)、エルサレムを、安らかな住まいを」と記され、そこでの安心のようすが「移ることのない天幕を、その杭はとこしえに抜かれず、その綱は一本も切られない」と描かれます。
昔の荒野の旅路では、主の契約の箱とともにいつ移動するか分からない生活でしたが、ここでは、主ご自身がその町の真ん中に住まわれながら、移動の心配もなく、そこに根を張るように落ち着いて暮らすことができます。
そして21節は、「それはそこに、威厳ある主 (ヤハウェ) が私たちのためにいてくださるからだ」と訳すことができます。「威厳ある主 (ヤハウェ) 」の臨在こそあらゆる平和(シャローム)の原点だからです。
さらに興味深いことに、「そこには多くの川があり、幅の広い川がある」と描かれます。山の上にあるエルサレムに川が流れるというのは地理的にはあり得ないことですから、これは世界の完成のときに実現する「新しいエルサレム」を示唆するものです。
さらに、「櫂で漕ぐ舟もそこを通わず、大船もそこを通らない」と描かれるのは、アッシリアもエジプトでも大河を小舟や大船で利用できることが軍事上の意味を持っていたこととの比較で、エルサレムに大河ができても、それは戦いとは無縁であるという意味だと思われます。
その上で33章22節では、「それは、主 (ヤハウェ) が私たちをさばく方、主 (ヤハウェ) が私たちの法を定める方、主 (ヤハウェ) が私たちの王であるからだ。この方が私たちを救われる」と感動的に描かれます。
「さばく方」とは、罪を罰するというより、貧しい者を助け、横暴な者を屈服させるという公正なさばきを指します。また「法を定める」とは社会的弱者も守られる掟を意味します。また「王」であるとはあわれみに満ちた支配を指します。それらすべてが私たちの「救い」につながります。
なお、23節は、協会共同訳では「あなたの綱は緩み、帆柱を固く据える人も帆を張る人もいない」と訳されますが、原文には「できない」という表現はないので、その方が良いと思われます。これは船の用意の必要がないことを意味します。
さらに「そのとき、大量の戦利品が分配され、足の不自由な人も略奪品を手に入れる」と描かれます。ここでも社会的弱者に分配がなされることが強調されます。
そして24節では、「そこに住む者は、『私は病気だ』とは言わない。そこに住む民の咎は除かれる」と描かれます。それこそ「神の民」が平安(シャローム)に包まれて生きることができる完成の姿です。
つまり、17節から24節の表現は、黙示録22章につながるものといえましょう。
そこには、「水晶のように輝く、いのちの水の川」が「都の大通りの中央を流れ」、その両岸には「十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊との御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る」と約束されています (1–4節)。
イザヤは、アッシリアに対する主の勝利の話を、「聖なる都、新しいエルサレム」の完成に結び付けて話しています。私たちの場合も、この世で味わう様々な主のめぐみのみわざは、すべて「新しいエルサレム」の前味のようなものです。
「(霊の目で)見よ、シオンを、私たちの祝祭の都を」という主 (ヤハウェ) の命令は、黙示録21、22章に描かれる「聖なる都、新しいエルサレムが……神のみもとから、天から下って来るのを見た」(同21:2) と描かれている「新しいエルサレム」を霊の目で見続けることに結びつきます。
敢えて言うと、私たちが天国に上るというよりも、天国がこの地に下って来ると描かれているのです。それは神がこの目に見える世界を造り変えてくださるという約束です。
神がこの地を愛しておられるから、私たちは今週も、この混乱に満ちた世界に遣わされます。それは、この地に神の愛を分かち合い、平和を広げるために他なりません。