米国アズベリー大学から始まっている霊的覚醒運動〜ピリピ4:8

今週は三回にわたって、米国ケンタッキー州アズベリー大学で起きていることをお伝えしましたが、今、世界中でこのことが話題になっています。 のサイトでリアルタイムで起きていることをご覧いただくことができます。たった6,000人しか住んでいない田舎町に全米の注目が集まり、大学のチャペルの前に長い行列ができています。福音自由の神学校であるシカゴのトリニティーでもアズベリーに見学に行きたい人の交通費を全額補助するということになっているほどです。私たちの教会の幼児教室に20数年前に集っていたそこの学生も、今、そちらに向かっています。来週にはレポートが届くでしょう。

当教会には、他教会での過激なリバイバル運動で疲れた方々が何人も集められてきています。二日前に書きましたように、これが次の「人為的な」リバイバル運動や、教会成長運動にならないことを願っています。

ただ、懐疑的になりすぎることも危険です。私たちは実は、日々の生活の中でも、また互いのために祈る中でも、不思議な神のみわざを体験しています。それが集中的に、今、米国の大学で起き、それが広がっているということだと思います。

そして、僕自身を振り返ってみると、まさに僕は1974年~75年にオレゴン州ポートランドの大学で、そのリバイバル運動の影響が残る恩恵の中で、信仰に導かれたのだと思いました。大学のカフェテリアで、黒人の学生がほんとうにうれしそうに、目の前の水を指しながら、イエス様は私たちに永遠のいのちへの水の話をされたと語っていたのが印象的でした。その少し前、日本では遠藤周作の「沈黙」がベストセラーになっていて、僕はクリスチャンになるのはとっても怖いことと思っていましたが、その話をアメリカ人の女の子に話したら、「なんでそんなこと気にするの……そのときになったら神様が力を与えてくださるわよ……」と、笑いながらやさしく、そのような先取り不安をたしなめてくれました。

本当にごく普通の学生たちが、喜んで福音を証ししていたのに、僕は驚いたのです。一方、その前に接していた日本人のクリスチャンは、一様に、深刻そうな顔をしていたので、その対照性に驚きました。

そして、今回のアズベリーのことで分かったのは、そのような霊的覚醒が1970年2月に同じように起きて、それが全米に広がっていったということです。また同じ時期に、ロサンゼルス近郊では、多くのヒッピーと呼ばれる若者が教会に導かれました( が中心となっていた カルバリチャペル)。そこから新しいクリスチャンミージックが生まれ、世界に広がって行きました。

その頃の米国は、ベトナム戦争で疲弊し、人種差別の問題、国際競争力の低迷、日本の輸出攻勢に対する批判……など、まさに国全体が病んでいました。政治も混乱を極め、間もなくニクソンの への向かう時期でした。しかし、草の根から始まった運動が、その後のアメリカを底辺から変えていったのだと思います。政治的な評価は本当に分かれますが、1977年にボーンアゲインクリスチャンを自認し、教会の日曜学校の熱心な教師であったジミー・カーターが大統領に選ばれたのもそのようなリバイバル運動の成果と言えるかもしれません。

そして、今、現代のアメリカも病んでいます。特に、福音派の教会が政治的な意見の違いでなどで、教会で本音を出せなくなっているとも聞きます。そのような中で、多くの若者が、福音の原点、福音の基本に対する渇きを覚えているようになっているのかと思います。今、ここから静かなリバイバルが始まろうとしているように思います。

ご存じのように、僕は決して、この現象を見て、「当教会でも徹夜祈祷会を始めましょう……」などと言い出すことはありません。他教会で起きていることの真似をしようとすることは、百害あって一利なしです。最初からお伝えしているように、自然発生的に生まれていることに僕は注目したいのです。あくまでも聖霊様のみわざとして始まっています。それは人為的にまねできることではありません。

私たちに必要なことは、今、身近で始まっている聖霊のみわざに目を開き、今ここに始まっている「新しい創造」を喜び、それを互いに励ましあって伸ばしてゆくことです。

今、米国で起こってることを優しい目で見続けたいと思います。以下のみことばをともに覚えたいと思います

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。
ピリピ4:8