マタイ26章57〜68節「イエスの王としての現れ」

2023年2月19日

世界中のほとんどの人は、イエスが無実の罪で十字架刑にされた悲劇の主人公であるかのように見ています。事実、十字架は神の愛を表すシンボルと見られ、未信者でさえ装飾品として首にかけているほどです。しかし、私たちは、キリストの支配がすでに今始まっていることを、たとえばメサイアのハレルヤコーラスで、「He shall reign for ever and ever, King of Kings, Lord of Lords(キリストは統べ治めておられる、王たちの王、主たちの主として)」と賛美します。

イエスはご自分が真の王であることを自覚しておられたからこそ、不当な裁判にかけられながらも堂々と沈黙し、ご自分の死刑判決を敢えて引き出すことができたのです。それは、世の中の多くの人々が、自分を必要以上に立派な存在として見せたいと思うのと正反対です。劣等感に囚われている人であればあるほど、人の前に強がってしまうものです。

しかも、キリストが今王であることは、私たちも王とされることの先駆けです。私たちは「キリストと共に王とされる」べき者として今から生きるように召されています。王とされることを自覚できるからこそ、今ここで心の余裕が生まれるのです。

1.「イエスを死刑にするために、イエスに対する偽証を捜し続けていた」

イスカリオテのユダの裏切りによって、イエスはゲツセマネの祈りの直後に捕らえられました。それは木曜の夜から金曜の朝にかけての真夜中のことでした。

その後のことが、「人々はイエスを捕らえると、大祭司カヤパのところに連れて行った。そこには律法学者たち、長老たちが集まっていた(57節) と描かれます。「大祭司」の家に、イエスの到着前に宗教指導者たちが集まっていたことが不思議です。

ヨハネ福音書18章13節では、イエスはその前にまず、大祭司カヤパの「しゅうと」の「アンナス」のところに連れていかれたと記されています。彼は紀元後6年から15年まで大祭司で、その後は彼の息子が大祭司になっており、大祭司の一族の最長老として隠然とした影響力を保っていました。そのため当時の人々から注目されていたイエスは最初に、元の大祭司アンナスのところに連れて行かれたのだと思われます。

その間に、カヤパのもとに「律法学者たちや、長老たち」が集められていたということなのでしょう。そのような準備ができた後、「アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのもとに送った」(ヨハネ18:24) と描かれています。

さらにここでは、「ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の家の中庭にまで行った」と記されます。ヨハネ18章15節によると、「もう一人の弟子」と描かれる使徒ヨハネが「大祭司の知り合い」だったので、彼に導かれてペテロは大祭司アンナスの家の中庭に入ることができました。

さらにペテロがそうした理由が、「成り行きを見よう」とするためと描かれます。ペテロは自分が「大祭司のしもべ」の「耳を切り落とした」ことで、捕らえられる可能性があることを知った上で、危険を冒しながら、「遠くからイエスのあと」をつけて来たのです。

一斉に逃げ出した他の弟子たちとは異なり、少なくともペテロとヨハネは大祭司の家の中庭という敵陣のただ中に入って、「下役たちと一緒に座った(58節) と描かれています。

そして、大祭司カヤパのもとでのようすが、「さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに対する偽証を捜し続けていた」(59節私訳) と記されます。正式な裁判は真夜中には行われませんから、これは謀議に過ぎません。

27章1節では「さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員でイエスを死刑にするために協議した」と記され、これこそが正式な最高議会での裁判と言えます。ルカ福音書22章66節でも、夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者が集まり、イエスを彼らの最高法院に連れ出したと描かれています。

それにしても、ここで注目すべきは、「イエスを死刑にする」という裁判の結果を無理にでも作り出すために、イエスを不利にする「偽証を捜し続けていた」という記述です。

深夜にも関わらず最高法院のメンバー全員を大祭司の家に集めるというのも本来の律法の趣旨に反します。そればかりか、死刑判決を引き出すための偽証を探し求めるとは、何という堕落でしょう。

申命記19章15–21節では、最高裁判所的な場での裁判の手続きが描かれています。そこではまず、「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証言によって、そのことは立証されなければならない。悪意のある証人が立って、ある人に不正な証言をする場合には、相争うこの二人の者は(ヤハウェ) の前に、その時の祭司たちとさばき人たちの前に立たなければならない」(15–17節) と記されています。

ここでは、「主 (ヤハウェ) の前に立つ」ことが、「その時の祭司長たちとさばき人の前に立つ」こととして描かれています。宗教指導者は、神の代理として相争う二人の間を裁く責任があったのです。

しかもそこでのさばきにおいては、「さばき人たちはよく調べたうえで、もしその証人が偽りの証人であり、自分の同胞について偽りの証言していたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようと企んでいたとおりに彼に対して行い、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい……あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を(18–21節) と記されていました。

祭司長たちの責任は、偽証を見破り、偽証をした人に、容赦のないさばきを下すことでした。そのような重大な責任を担う祭司長たち自身が、イエスを死刑にするために偽証者を捜していたというのは、本当にあり得ないほどの堕落です。

律法の核心である「十のことば」に、「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」と命じられていますが、まさに律法の核心をないがしろにする罪を、最高議会のメンバー全員が犯そうとしていたと描かれているのです。

そして60節では、ここでの彼らの困惑のようすが、原文では「多くの偽証人が出てきたが、見つけられなかった(証拠は得られなかった)」と描かれます。これは先の「探した」に対応することばとして、「見つけられなかった」と記されています。それはイエスの死刑を正当化できるほどの「複数の一致した証言」を得ることができなかったという意味です。

少なくともここでは、彼らは外面上、律法が命じる手続きに従っていたと描かれています。これはかつてのイエスのことば、「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。同じように、おまえたちは外側が人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ(23:27、28) と非難したことを思い起こさせます。ここでの「祭司長たちと最高法院全体」が同じことをしていたのです。

イエスは彼らに対して、「地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちの上に降りかかるようになる……これらの報いはすべてこの時代の上に降りかかる」(23:35、36) と言われましたが、イエスを死刑にするために偽証を捜していたエルサレムの指導者たちは、それによって神の容赦のないさばきを受ける方向へとまっしぐらに進んでいたのです。

それは、エルサレム神殿がこの四十年後に跡形もなく滅ぼされることとして現れることになります (24:2)。祭司長たちがそこで死を迎えるのは、まさに「いのちにはいのち、目には目、歯には歯」という、神のことばが成就したことを意味しました。まさに自業自得でした。

2.「この人は、わたしにはできると言った、神の神殿を壊すことが、また三日で建てることが」

そのような中で、「しかし、最後に二人の者が進み出て、こう言った。『この人は、わたしにはできると言った、神の神殿を壊すことが、また三日で建てることが』」(60、61節) と記されます。イエスは確かに、当時のエルサレム神殿の崩壊を預言しましたが (24:2)、ご自分で破壊するとは言っていませんので、これは偽証です。

また当時のユダヤ人たちに向かって、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(ヨハネ2:19) と言われましたが、イエスはそこでも、ご自分が神殿を破壊するとは決して言っておられません。確かに、そこにいたユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年かかった。あなたはそれを三日でよみがえらせるのか」と応答をしましたが (同2:20)、それは神殿を冒涜したという非難ではありませんでした。

なおそこでイエスはご自身の十字架と復活によって神殿が目的としていた働きを完成させるという意味のことを言われたのですが、神殿を冒涜するようなことは決して言っておられません。

それが語られた文脈は、イエスがエルサレム神殿から商売人を追い出した「宮きよめ」にありましたが、そこでイエスは「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」(ヨハネ2:16) と言っておられました。

また別の宮きよめの際に、マルコ11章17節では、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」と書いてあるとイザヤ56章7節のことばを引用されました。

つまり、イエスは当時の宗教指導者がエルサレム神殿をお金儲けのために私物化していることを非難したのであって、この宮自体のことは、「わたしの父の家」とか、「あらゆる民の祈りの家」と呼んで、大切にしておられました。

ですから、神殿冒涜罪というのも言いがかりにすぎません。実際に、マルコの福音書14章51節では、「しかし、この点でも、証言は一致しなかった」と敢えて記されています。証言が一致しなければイエスを死刑に定めることはできません (申命記17:6)。

それで大祭司はイエスを死刑にする口実を見つけ出すためにさらに積極的に問いかけます。そのことが、「そこで大祭司が立ち上がり、イエスに言った。『何も答えないのか。これは何か、この人たちがおまえに不利な証言をしていることは』」(62節) と描かれます。

大祭司はイエスが何かの反論をすることを期待しましたが、イエスが何も答えない」ことに焦りを覚えたのでしょう。それでイエスに、「不利な証言がなされる理由がどこにあるのか?」という趣旨で問い詰めざるを得なくなりました。「火のないところに煙は立たず」という諺もあるように、イエスが神殿に関して何らかの否定的なことを語ったのでなければ、このような証言が生まれなかったはずだという意味なのでしょう。

大祭司は、自分が神から神殿の管理を任されているという自負がありました。それに対し、イエスが神殿から商売人を追い出したという行動は、今ここにある大祭司の神殿管理者の権威を否定したことになります。それはイエスが、自分を神の立場に置いて、今ここにある秩序を否定したことと解釈できます。

さらにそのような発想を拡大解釈することで、イエスが神の名によってローマ帝国の支配を否定する反乱分子であるという結論を引き出すこともできたことでしょう。

それに対する反応が、「しかし、イエスは黙っておられた」(63節) と簡潔に描かれます。イエスはご自分の身を守るための弁明は一切しませんでした。イエスの沈黙は、彼らには何を言っても話が通じないからとも言えましょうが、それは同時にイザヤ53章に描かれた「主 (ヤハウェ) のしもべ」の姿でもありました。

そこでは「痛めつけられても、彼はへりくだり、口を開かない。ほふり場に引かれる羊のように……。毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(7節) と描かれていました。

「彼は……口を開かない」(53:7) という繰り返しの前半の意味は、ご自分を「過ぎ越しのいけにえの小羊」とする謙遜と服従であり、後半は、毛を刈られる雌羊が飼い主に身を任せる(ヤハウェ) への信頼です。

イエスはこのみことばを思い巡らしながら、沈黙を守っておられます。それは、自己弁護のために人を攻撃する姿勢と対照的です。

3.「今から後、あなたがたは見る……人の子が力ある方の右の座に着き、天の雲とともに来ることを」

そこで大祭司は、イエスの沈黙を強制的に破らせるために、大祭司としての権威を振りかざすように、「わたしはおまえに宣誓させる、生ける神によって」と言います (63節)。皮肉にも、偽証を集めている張本人がイエスを、偽証を許さないための「誓約のもとに置き」、「生ける神」の御名を持ち出して、明確な答えを迫ったのです。

その質問は、「私たちに答えよ。おまえは神の子、キリストなのか」というものでした。当時の常識では、キリスト(救い主)はイスラエルの民をローマ帝国の支配から解放する方として現れると信じられていましたから、これほどローマ総督に死刑執行を迫る分かりやすい表現はありません。

また「神の子」ということばも、詩篇2篇7、8節で、主 (ヤハウェ) ご自身がキリストを「あなたはわたしの子」と呼び、「あなたは 鉄の杖で彼らを牧し」と、この地の王としての支配を委ねていると預言されるように、ローマ帝国の権威を否定することばと解釈できました。

大祭司は、ここで白か黒かの明確な答えを迫ったのです。

それに対してのイエスの答えの第一は、「あなたはそう言っている」というものです。これはユダがイエスに向かって、「先生、まさか私ではないでしょう」と言ったことに、「あなたはそう言っている」と答えたのと同じで (26:25)、実質的には、「あなたが言ったとおりです」という意味になります。

それは特に、ここでは誓いを伴った答えが求められているので、このことばは大祭司の質問を肯定した意味になります。

ただ、不思議にもイエスはそこで留まることなく、敢えてご自分を死刑判決に導かせる大胆な答えを言います。それが、「なおさらにわたしはあなたがたに言います、『今から後、あなたがたは見ることになります、人の子が力ある方の右の座に着くこと、また、天の雲とともに来る(現れる)ことを』」ということばです。

イエスはかつて22章41–46節でのパリサイ人たちとの会話で、キリストは「ダビデの子」である前にダビデにとっての「主」であり、神の「右の座に着く」全世界の支配者であるということを、詩篇110篇を引用して語っていましたが、ここでは直接にご自分がそのような存在であることを断言したのです。

イエスは今まで16章27節、また25章31節などで、人の子が世界の民をさばく王として現れることを預言しておられましたが、ここでは、今から後、あなたがたは見る」と言っておられます。

それはダニエル7章13節に描かれた「人の子」の姿で、そこでは「見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった」と描かれています。

ダニエル7章では四頭の大きな獣が次々に現れます。それはバビロン、ペルシア、ギリシャ、ローマ帝国を示唆するように見えます。そして第四の獣から現れた「大言壮語する口」(同7:20) という傲慢な支配者が「聖徒たち」を絶ち滅ぼすように見える中で、「人の子のような方」が「神の右の座」に引き上げられ、この地に「神の国」が表されるようになるというストーリーです。

これはダニエル書に何度も繰り返されるテーマでもあります。

それはここでは、イエスが「天の父なる神の右の座」に「今から後」に引き上げられることを指します。それはキリストの再臨を現すと理解されることもありますが、ダニエル書でも、ここでも、それは今すぐに目の前のユダヤ人の指導者たちが「見ることになる」現実として表現されています。

黙示録全体が示しているのは、子羊であるキリストが今既に、「王の王、主の主」としてこの世界を支配しておられるという霊的現実で、それこそが正統的な信仰告白です。

なお「天の雲とともに来る(現れる)」と記されますが、「雲」は神の栄光の象徴です。それはご自身こそが今ここで神の栄光を現わすと宣言したことを意味します。

しかしイエスは今、弟子たちにも逃げられ、一人無力に立っているのです。それに対して彼らがこれを神への冒涜と捉えたのも無理ありません。

その様子が、「大祭司は、自分の衣を引き裂いて」、「この男は神を冒涜した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんとあなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう思うか」と問いかけ、「すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた」と描かれます (65、66節)。

つまり、イエスはダニエル7章13節をご自身に当てはめて引用されたことが、最高議会での死刑判決を引き出す最大の理由だったのです。イエスはご自分で死刑判決を引き寄せました。

彼らがイエスに死刑を宣告した後のことが、「それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。またある者たちはイエスを平手で打って、『私たちに預言せよ(当ててみろ)、キリスト。おまえを打ったのはだれだ』と言った」と描かれます (67、68節)。

原文では「預言せよ」と記されますが、こえはイエスが預言者以上のキリストであるなら、眼を塞がれても、誰が殴ったかを言い当てることができて当然であるという嘲りです。これはイエスが「救い主」ではあり得ないことを印象付けるための行動ですが、この福音書を読む者は、イエスがペテロの失敗を正確に「預言し」ていたことなど、すべてを支配していたことを知っています。

世の多くの人は、イエスが不当な裁判で殺されたかのように考えます。しかし、イエスが死刑判決を受けた直接のきっかけは、ご自身がダニエル7章の預言の成就者だと宣言したことにあります。

しかもそこでイエスは、目の前の祭司長や議員に向かって、あなたがたは見ることになります」と言われ (64節)、それがキリストの再臨以前に、目の前の彼らの世代に起こると言われたのです。

そしてイエスの十字架を見たローマの「百人隊長」が、「この方は本当に神の子であった」(27:54) と告白したときにイエスの預言は成就しとも考えることができます。つまり、福音記者ヨハネが明確に描いているように十字架でイエスの栄光が現わされたのです。

イエスが引用したダニエル書には、この世の権威が裁かれ、あなたがキリストとともに王とされ、栄光に包まれ、すべての問題が解決することが約束されています。あなたにとっての救いの理解は狭過ぎはしないでしょうか。今も起こる奇跡や病の癒しは、救いの完成のしるしなのです。

当時の聖書理解からすれば、イエスが死刑判決を受けたのは極めて妥当なことだったとも言えます。実際今でも、もし、ある人が、「私こそがダニエルが預言した『人の子』であり、全世界の支配者である。すべて私の権威を認めない者は、のろわれる」などと言うなら、だれがそんな人を「救い主」と認めるでしょう。

ですからイエスは、死刑にふさわしい人であるか、本物の世界の支配者であるかのどちらかでしかあり得ません。単に無実の罪で十字架にかけられた人が、私たちすべての罪をどうして担うことができるでしょう。

彼が真に「神の子」、また同時に創造主ご自身でなければ、そのような救いは実現しませんでした。

そればかりか、イエスが引用されたダニエル7章の終わりの27節には、「国と、主権と、天下の国々の権威は、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する」と記されています。

これはこの世の権威が裁かれ、あなたがキリストとともに王とされ、栄光に包まれ、すべての問題が解決することが約束されていることを意味します。

あなたにとっての救いの理解は狭過ぎはしないでしょうか。今も起こる奇跡や病の癒しは、救いの完成のしるしなのです。