マタイ26章47〜56節「剣を取る者はみな剣で滅びます」

2023年2月5日

フィリピンの監獄の中からの遠隔操作で、日本の若者たちが闇バイトに誘われ、脅され、強盗を働かされたことが明らかにされました。一見、強がっている若者たちが、簡単にそのような脅しに屈してしまうのは何とも不思議です。ただ、それはイエスの弟子のペテロも似たようなものでした。

一方イエスは、ゲツセマネの園でペテロたち三人の弟子に向かって、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい」(26:38) と祈りの応援を願いながら、「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげて」おられました (ヘブル5:7)。

しかし、その後のイエスは、周りの人々を圧倒する権威をもって自ら十字架に向かい、その雄々しい様子をみたローマの百人隊長は、「この方は本当に神の子であった」(27:54) と告白するようになります。

ご自分の恐れを正直に告白して結果、イエスは神の子としての権威を表し、人々の心を内側から変えて行かれました。彼の前で剣の力は無力でした。

1.「ユダがやってきた。彼とともに大勢の群衆が剣や棒を手にして一緒にいた」

イエスは最後の晩餐の際に、ユダの裏切りを示唆します。一見、イエスが他の弟子たちにユダの裏切りを明らかにしたようにも見えますが、注意深く見ると、イエスのことばはユダにしか理解できないものだったと解釈できます。

イエスはそこで彼に、最後の悔い改めの機会を与えておられたのです。

イエスはその後三人の弟子たちを伴って、ゲツセマネの園で、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言われるほどに激しい苦難の祈りを献げますが (26:38)、弟子たちはただ眠っているばかりでした。

イエスは三度目の激しい祈りの後、まだそこで眠っている弟子たちに向かって、もう(これから)眠りなさい。そして、休みなさい (For now、 go on sleeping、 take your rest) Jewish new Testament Davide Stern訳」(26:45) と言われました。それはこの脚注別訳でもう眠って休みなさいと記されている通りです。

これは怒りと失望を込めたアイロニーと言えますが、それこそこれから弟子たちに求められる反応です。

それに続けてイエスは「見よ、時が来たのだ。人の子は罪人たちの手に渡される。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近づいている」(26:45、46) と言われました。

彼らはこれから眠りたくても眠ることができません。しかし、これからのときこそ、肉体的には眠っているかのような反応が求められるときであったと言えましょう。

一方、イエスは祈りの戦いに勝利した結果、「罪人たちの手に渡される」(26:45) ために雄々しく前に進まれます。これは剣を振り回すよりもはるかに勇気の要ることです。

そこでのことが、「イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子の一人のユダがやってきた」(26:47) と記されます。ここでは「十二弟子の一人の」と敢えて強調され、不気味な印象を与えます。

さらに、「彼とともに大勢の群衆が剣や棒を手にして一緒にいた。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられた者たちであった」と描かれます。ここでは、ユダが先頭に立って、その後を剣や棒を手にした大勢の群衆が従うという驚くべき異常な構図に続き、群衆が祭司長たちから遣わされた者たちであると最後に描かれています。

そして48節ではさらに、「イエスを裏切ろうとしていた者は彼らにしるし(合図)を与えていた、『私が口づけをするのが、その人だ。それを捕まえなさい』と言いながら」と記されています。ここではイエスの捕縛の命令を与えたのがユダであるかのような表現になっています。

そして49節では、「それで彼はすぐにイエスに近付いて言った、『お元気で(こんばんは)、ラビ(先生)』と。そしてイエスに口づけした」と描かれています。

挨拶のことばは、ヘブル語での「シャローム(平安がありますように)」のギリシャ語訳であることは明らかです。イエスに「シャローム」と言いながら口づけをし、それを合図にイエスを捕らえるようにと群衆に命じていたとは、何という鉄面皮な態度でしょう。

ユダヤ人の指導者たちは、イエスが多くの民衆から支持されていることから、昼間にイエスを捕らえようとすると暴動になるのではないかと恐れ、夜陰にまみれてイエスだけを一気に捕らえ、無力になったイエスを民衆に見せて、彼らの幻想を打ち砕こうと計算していました。そのため、確実にイエスを捕らえるための内通者を求めていたのです。

そして、弟子たちの会計係をしていたユダが、進んでその役を申し出ました。それはユダが、イエスがご自分の十字架の死を繰り返し予告するようになったことに、裏切られた思いを味わっていたからなのかもしれません。

しかし、どのような理由であれ、ここではイエスを捕らえる者の中心が、祭司長であるよりはユダであるという皮肉な情景が強調されています。

しかしそこでイエスはユダに、「友よ、あなたが来たことのために」(26:50) と言われます。このことばは翻訳が困難で、新改訳第三版では「友よ、何のために来たのですか」と訳されていましたが、今回は、「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と訳されています。その方が原文の意図に近いと思われます。

どちらにしても、ここではイエスこそがこの場を支配しているということが強調されていると考えるべきでしょう。その上で、「そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた」と記されます (26:50)。

ゲツセマネで血の汗を流して祈られたイエスは、堂々とご自身の身を任せておられるのです。

2.ペテロが「大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした」

26章51節では、「すると見よ、イエスと一緒にいた者たちの一人が、手を伸ばして剣を抜いた。そして大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落としたと描かれます。ここでは「剣を抜いた」と、「耳を切り落とした」ということばが主動詞です。

ヨハネ福音書によると、剣を抜いたのはペテロであると記され、そこでは耳を切り落とされた「しもべ」の名までが記されますが (18:10)、マタイもマルコもルカも、剣を抜いた人の名は隠されています。それはそれら三つの福音書が、エルサレム神殿が破壊される前に記されたため、当時の祭司長たちの権力がまだ健在で、ペテロの名を記すことには政治的な危険が伴っていたからとも考えられます。

ヨハネ福音書が記されたのは神殿崩壊後で、神殿の権力者はもう存在しませんでした。とにかく、ここでペテロが取った行動は極めて危険なもので、ここで戦いが起こったらイエスの弟子たちの何人かはここで命を失う可能性さえありました。

ルカ22章38節では、少なくとも「二本の短い剣」を弟子たちは持っていたと記されますから、それは現実的な危険でした。

そこで、「そのとき、イエスは彼に言われた。『剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます(すべての剣を取る者は、剣によって滅ぶことになります)』」。これは防衛のための戦いをも抑止するイエスの名言です。

すべての戦いは、自衛のためという名目で始まるからです。それはウクライナに攻め入ったロシアの指導者でも同じ気持ちでしょう。

ただ、現実のキリスト教会の歴史では、様々に解釈されます。チューリッヒにあるスイスの宗教改革者ツウィングリの銅像は興味深いもので、片手に聖書を持ち、片手に剣を持ったものとなっています。彼はカトリック勢力との戦いに自ら出陣し、命を落としました。

彼に批判的だったマルティン・ルターはその訃報を聞いたとき、「剣を取る者は剣で滅びる」と冷たく言い放ったと記録されています。しかし、ルターも平和主義者であったというわけではなく、熱狂主義者に駆り立てられたドイツ農民戦争においては、終始、権力者側を弁護する立場に立ち、兵士たちに向かって、剣を取って戦う農民たちを殺すことは神のみこころであると励まし続けていました。

また、英国の一般的な歴史解釈では、第二次大戦時に、ドイツのヒトラーとの戦いを避けようとしたことがかえって彼を増長させ、戦争を増幅させたと言われます。

平和外交が戦いを引き起こすという見方もあるのです。しかし「剣を取る者はみな剣で滅びます」と原則は永遠の「神の国(ご支配)」の中での真理です。

さらにイエスはここで、「それとも思っていますか、わたしの父にお願いすることができないとでも、そして十二軍団よりも多くのみ使いをわたしの配下に置くことを」(26:53) と述べます。それはイエスが願いさえしたら、すぐに天の父は、全ローマの軍隊さえすぐに吹き飛ばすことができるほどの御使いの軍団を送ることができるという意味です。

当時の人々は、紀元前701年にエルサレムがアッシリア軍に攻撃されそうなとき、「主 (ヤハウェ) の使いが出て行き、アッシリアの陣営で185、000人を打ち殺した」(イザヤ36:1、37:36) という主のみわざを思い起こしたことでしょう。神にとって強すぎる軍隊などどこにもありません。

イエスはここで、ご自身が捕らえられるという悲劇も、神の明確なご支配の中で起きて行くということを示されたのです。

その上で主は、「しかし、それでは、どのようにして成就するでしょう、このようになる必要があると書いてあることが」(26:54) と言われ、ご自身に関しての預言が成就する必要を示されました。

それはたとえば、イザヤ53章10節に、「しかし、彼を砕いて病を負わせることは主 (ヤハウェ) のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末永く子孫を見ることができ、主 (ヤハウェ) のみこころは彼によって成し遂げられる」と記されている通りです。その他にも多くの預言があります。

イエスはこのようにペテロの行動を戒めた後に、ルカの記述によると、ペテロによって耳を切り落とされた大祭司のしもべの「耳にさわって彼を癒された」と描かれています (22:51)。

イエスはここで十二軍団のみ使いを呼び寄せる代わりに、ご自分を捕らえに来た「大祭司のしもべ」を癒してくださいました。

イエスはゲツセマネの園で眠り続けていたペテロに、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても、肉体は弱いのです」(26:41) と言っておられました。ここでペテロはまさに熱い思いに駆り立てられ、瞬時のうちに、イエスを守ろうと大胆に行動しました。

しかしそれは何と軽率な行動だったことでしょう。彼の行動は極めて肉的な衝動に駆り立てられたものでした。

耳を切り落とされた「しもべの名はマルコスであった」とまでヨハネは描いていましたので、彼に耳が切り落とされたままであれば、ペテロはそこで捕らえられて死刑にされる可能性だってありました。

事実、他の弟子がもう一本の剣を抜いて反撃に出たら、そこにはローマ軍の兵士もいたとヨハネは記していますから (18:3)、そこでは戦いが起こり、他の弟子たちもともに捕らえられるか、または死人が生まれる可能性さえありました。

まさにイエスが言われたように、このときこそペテロは眠っているべきだったと言えましょう。

3.「そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて、逃げてしまった」

26章55節では、「それと同じとき、イエスは群衆に言われた」ということばから始まります。イエスはペテロの無謀な行動を諫め、「剣をもとに収め」させるとともに、そこにいた群衆に堂々と語りかけます。

ヨハネの福音書18章4–8節ではその直前のことが描かれます。イエスは二度にわたって、迫って来る人々に、「だれを捜しているのか」と問いかけ、彼らが「ナザレ人イエスを」と言ったことに、「わたしがそれだ(エゴー・エイミー)」と応答したと描かれています。それは「わたしはある」とも訳せます。

モーセが神の山ホレブで、燃える芝の中から神の語りかけを聞き、神の名を訪ねた時、創造主ご自身が「わたしは『わたしはある』という者である」とご自身を紹介されましたが (出エジプト3:14)、この「わたしはある」のギリシャ語が「エゴー・エイミー」です。

ヨハネでは3回このことばが記され、その真ん中に、「イエスが彼らに『わたしがそれだ(エイゴー・エイミー)』と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れたと記されます (18:6)。

イエスを捕らえに来た人々は、イエスの神としての権威に圧倒されてしまったのです。

イエスは群衆にそこで彼らに向かって、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で教えながら座り続けていました。そしてあなたがたはわたしを捕らえませんでした。しかし。このすべてが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです」(26:55、56) と言います。

イエスは彼らの暴力的な行動を非難しているのですが、もしユダヤ人の宗教指導者たちが、イエスが武力革命の指導者になり得る存在として警戒していたのなら、ローマ軍と協力してイエスを捕らえることは簡単にできたはずです。事実、イエスはご自分をいつでも彼らの前に現して、神の国について語っていたのですから……。

彼らは「民の間に騒ぎが起こる」(26:5) ことを心配していたと描かれますが、彼らは民衆の心が自分たちへの攻撃に向かうことを心配していただけです。

彼らは人々が期待するメシア像のイメージに囚われすぎて、イエスの話を聞くことができていませんでした。それは私たちにも起こることです。特に高齢になるに連れ、多くの人の頭が固くなり、目の前の人の話をあるがままに受け止めることができなくなります。

しかも当時の宗教指導者は、イエスの話に多くの群衆が耳を傾けているという状況自体を何よりも脅威に感じていました。それはイスラエルの独立運動の発火点になるという政治的な脅威でもありました。

彼らは、表向きはローマからの独立を願っているようでありながら、実際は、ローマ軍の支配の中で自分たちの権益を守っていました。ですからヨハネの記述では「一隊の兵士」(18:3) と呼ばれるローマの軍団がこの群衆に同行していたと描かれています。

彼らは、当時の秩序のバランスをイエスが崩すことを何よりも恐れていと言えましょう。

ただここでイエスは何よりも、ご自身が「強盗」かのように捕らえられることが預言の成就であると述べることで、そこにある神のご支配を思い起こさせました。

たとえば先にも引用したイザヤ53章ではその12節で、「彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたから」と記されています。イエスはこの後、「二人の強盗」に挟まれ、強盗の仲間として十字架にかけられます。

また、イエスは先の26章31節で、ご自身が捕らえられることで弟子たちが「散らされる」ことをゼカリヤ書13章7節の預言の成就として紹介しておられました。

イエスはここで彼らの問題を指摘しながらも、不思議にも、ご自分を被害者としてではなく、積極的に預言を成就する者として彼らに提示されたのです。

そしてこの26章56節では、「そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった」と描かれます。彼らの「霊は燃えて」いましたが、肉体は彼らを逃亡へと駆り立てたと言えましょう。

これが、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても……」(26:35) と豪語していた弟子たちの真の姿でした。

マルコ14章51、52節には、「ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけで、イエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた」と描かれます。これは福音記者マルコ自身ではないかと多くの学者は認めます。

使徒の働きでは、第一回目の伝道旅行の途中でマルコが逃げ出したので、パウロは彼を第二回目の伝道旅行に同行させることを強く拒んでバルナバと激論になったと描かれます (15:37–39)。

ここで、マルコは自分のことを恥じながらも、臆病さのゆえに裸になって逃亡したことを敢えて証しながら、主の憐みを描いているのでしょう。

多くの人は恐怖や不安を紛らわすことに夢中になります。しかし、私たちはそれを祈りによって解決することができます。それこそがイエスの姿でした。

抑圧された「恐れ」は、後でその人を罪へと駆り立てます。それを正面から見据えて、それを父なる神に訴えるところに勝利があるのです。

ただ、ヨハネ18章8節では、イエスは「わたしがそれだ(エゴー・エイミー:わたしはある)」と言った上で、「わたしを捜しているなら、この人たちを去らせなさい」と言ったと記されています。

ゼカリヤの預言にもあったように、イエスはご自身を捕らえようとする群衆の動きを恐れる以前に、弟子たちをこの場から安全に去らせることに気を配っておられました。

弟子たちはイエスのためにはいのちをも捨てるようなことを言っていながら、いざとなったら「イエスを見捨てて逃げてしまった」のですが、イエスはゲツセマネの園で、ご自分の恐怖心を正直に訴え祈った結果として、目を覚ました状態で、この危機的な状況に冷静に対処されたのです。

イエスは何の武力も持つことなく、この場を支配しておられました。

ローマ帝国時代の多くのクリスチャンは、剣の脅しに屈することなく信仰を全うしました。その結果最終的にローマ皇帝自身がイエスの権威の前に膝まずくことになります。

インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジーも、米国の黒人運動の指導者のマルチン・ルーサーキングも剣の力を否定する非暴力によって歴史を変えました。

南アフリカの黒人指導者ネルソン・マンデラも武力闘争に身をささげて27年間獄中生活を送った後に、暴力の応酬の愚かさに気づいて、白人との和解運動を指導するようになります。

彼らはみな、「剣を取る者はみな剣で滅びます」というイエスのことばに従ったのです。

ロシアのウクライナ侵攻以降、国際世論が武力を肯定する雰囲気に恐ろしい勢いで動いています。そのような中で「剣を取る者はみな剣で滅びます」ということばが空虚に聞こえるかもしれません。

しかし、これは「原爆を使う者はみな原爆で滅びます」とか、「脅しで人を動かす者はみな脅しに屈します」とも言い換えられるかもしれません。

イエスは、「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです……平和を作る者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(5:5) と言われ、力による脅しではなく、神のご支配に信頼する柔和さこそが、この地を治める鍵であると言われました。

なお、私たちの問題は、危機的な状況で、恐れや怒りの感情に振り回されることです。それこそペテロの問題でした。

それに対し「柔和な者は地を受け継ぐ」と記す原点の詩篇37篇では、「怒りを手放し、憤りを捨てよ。熱くなるな(自分を燃やすな)。それはただ悪への道だ」(8節私訳) と記されます。

しかも、それが生まれる危機的状況が、「悪しき者は剣を抜き 弓を引いた。苦しむ人 貧しい人を打ち倒し 行いの正しい人を切り殺すために」(14節) と描かれます。これはまさにイエスが置かれた状況です。

しかしそこではすぐに、「彼らの剣は自分の胸を貫き 彼らの弓は へし折られる」(15節) と記されます。

それは全知全能の神が、ご自身の時に横暴な者を打ち砕いてくださると信じられるからです。しかし、そのような信仰をどれほどの人が持つことができるでしょう。

イエスは「剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われた直後、天の御使いの圧倒的な軍事力の話をされました。ですから、軍事力自体が完全に否定されているとも言えません。

ウクライナのように既に軍事力で領土を切り取られた国の問題を、評論家的な「上から目線」で論じることは慎むべきでしょう。

ただそのような異常な事態になる前に、私たちは冷静に、軍事力では真の平和は実現できないという原点に繰り返し立ち返る必要があります。