奴隷にならずに、職場で仕える——「職場と信仰」の収録ビデオ二回目〜Ⅰペテロ2:18–23、Ⅰコリント7:22、23

先週金曜日に皆様にご紹介した「いのちのことば社」さんの「教会タイムズ」の「職業トーク」のビデオ、とっても好評でした。15分程度のものですが、今回はその二回目です。ぜひご覧いただければ幸いです。

とってもわかりやすい……との評価を得ております。まだの方は先週のものとまとめてご覧いただければ幸いです

【二回目】

【一回目】

そのビデオを見ながら、実はもっと語りたいことがあることに気づきました。そこで質問された方が、かえって悩まされたというペテロ第一の手紙2章の記述ですが、以下のように記されています(今回は新改訳第三版で)

18 しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。
19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

これだけを見ると、不当な苦しみにただ耐えることばかりが命じられているような感じがします。何とも驚きなのは、不当な苦しみに耐えるために、クリスチャンとされたという記述があることです。しかし、不当な要求がある職場に既に身を置いてしまっていて、そう簡単にやめることができないと思えるときには、不当な苦しみの中に、イエス様の生き方に倣うという創造的な生き方を発見できる教えとなります。少なくとも、僕にとっては、このみことばは、とっても慰めになりました。不当な苦しみに中に、キリストに倣うという創造性を発見できたからです。

一方、既に、奴隷とされてしまっている人には次のように「奴隷となってはいけない」というみことばがあります。Ⅰコリント7章22、23節に次のように書いてあります

22 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。

文脈を理解していないと、片方で、奴隷のように仕えることが命じられ、もう一方で、奴隷になってはいけないと、逆のことが命じられているように思えます。

聖書の記述で、納得できないと感じるときには、たいてい、一見、それと正反対に見える記述があるものです。そのあたりがわかると聖書は本当に分かりやすくなります。

どうか、このビデオでも、すべてに正解を求めるというよりも、考えるきっかけとしていただければ幸いです。 前回も書きましたが、迷いながら、主に祈っているということ自体が、主のみこころの中に生きているということを覚えていただければ幸いです。

あまりにも短絡的に、「主のみこころは……」と尋ねることは極めて危険です。

迷いながら、主の助けを求めて祈っていること自体が、みこころのなかにあるということをともに覚えていただければ幸いです。