昨日の日本ではコロナ死者数が一日としては最高の415人に達したと報道されていましたが、感染対応を厳しく変えようという意見はほとんど聞かれていません。何か、とっても不思議な気がしています。
全世界的には死者数のピークは2021年1月でした。そのときのアメリカでは毎日、3,000人以上の人が命を失っていました。それが現在は十分の一のレベルです。そのときの日本の一日の死者数は100人程度でした。それでもみなが戦々恐々としていました。
今、その当時の4倍の死者数になって、諸外国では当時から見たら死者数が激減している現実の中で、それと反対に、日本では死者数が急増しているのです。いったい、この日本では何が起きているのでしょう。何が起きているのかを、もっと冷静な目で報道されることを望んでいます。しかし今は、冷静というよりはみなの感覚が麻痺しているのかもしれません。
もともと、過去の日本の反応は過剰だったのではないかと申し上げてきたつもりです。確かにコロナ死者数は増加しても、過去三年間の累計で56,228人で、過去三年間の日本の自殺者数の累計約60,000人よりも低い状態です。
それでも、コロナに過敏に反応してきたのは、先が見えないという不安のゆえかと思います。また、世界的なレベルでは、感染が収束に向かいつつあるという雰囲気を感じているからなのでしょう。しかし、お隣の中国での驚くほどの感染爆発の状況を見ると、日本も安心してはいられない状況とも思えます。
二年前の過剰ともいえる対応と現在の落差に驚くばかりです。
聖書の世界の時間は、始まりがあり終わりがあります。終わりは平和(シャローム)の完成です。そのことをローマ人への手紙8章21節では次のように記されます
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります
それは、世界が不毛で不条理な世界に変わったのはアダムの罪からであり、アダムの子孫である人間が、キリストによって造り変えられるときに、被造物自体も栄光の自由にあずかる……という希望です。
世界は、確実に、「栄光の自由」に、またシャロームの完成に向かっています。もちろん、そのプロセスで、神のご計画に逆らう者に対する永遠のさばきのときがあります。しかし、私たちは神の救いの歴史を、この世界の滅亡として見るのではなく、神の救いのご計画の成就として見ることができます。
使徒パウロはそれで起きる私たちの変化を次のように描いています
私たちは、この望みとともに(望みにおいて)救われたのです (ローマ8:24)
そして神は、それを確信させるために聖霊を与えてくださいました。私たちはこの世界の不条理や問題のただ中で「うめいて」いますが、それはこの世界が早くシャロームに満ちた状態に変えられることを「待ち望んでいる」からです。
この永遠の希望と現実の不条理のはざまで、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も……からだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています」と記されます (ローマ8:23)。
仏教的な時間の観念には、はじめも終わりにもない、「万物が流転する」という考え方があります。日本のムードがあまりにも激しく揺れるのは、歴史のゴールが見えていないからなのかもしれません。
それに対して私たちクリスチャンにとっては以下のみことばが永遠の真理となっています
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを知っています (ローマ8:28)
ただし、「すべてが益とされる」とは、個人的な希望ではなく、共同体的な、また全世界的な希望を指します。一人一人の苦しみや悲劇に対して、すべてが益とされる……というのは乱暴な言い方になります。身近な人の死が、益とされるなどと言ってはなりません。
しかし、私たちはすべて、他者との関係で生きています。ですから、私やあなた個人の苦しみが決して無駄になることなく、社会全体をよくする方向に用いられるという希望があるなら、私たちは苦難に耐える勇気を持つことができます。
今回のコロナの世界的な蔓延は、驚くべき悲劇ではありますが、それによって起きた様々な変化があります。私たちはコロナで苦しんだことを無駄にせず、そこから新しいことを始めることができています。そのような希望の中で、コロナに過剰に反応しない……という雰囲気を持つことができたら……と思います。
しかし、なんとなく、現在の日本は、「世界全体の流れがコロナ後に向かっているので、私たちもその動きに乗り遅れないように、自粛しすぎてはならない……」という雰囲気に動かされているようで、心配です。
中国でのコロナ対応の非科学的な変化のことを笑ってはいられないような日本の雰囲気の変化もあるような気がしています。