イザヤ書の救いのストーリー

最近、「ストーリーが世界を滅ぼす」(ジョナサン・ゴットシャル作)という本を読んでいます。今週はドイツで、クーデターを起こそうとした右翼団体が摘発されたというニュースが報じられました。陰謀論を始めとするストーリーが人々を過激な行動に駆り立てることが問題とされています。

ただ、その本の中に、「天国が刺激に欠ける満ち足りた世界である一方で、生々しい肉体性で人を戦慄させてきたのがキリスト教の地獄の物語だ」と記されていました。人の心はストーリーに支配され、ストーリーこそが人間を動かしている……という話の筋には納得できるのですが、米国の学者でありながら聖書のストーリーにどうしてこれほど無知でいられるのか……と驚きあきれました。

しかし、残念ながらそれは19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカのリバイバル運動にあった福音の提示の中心でもあったような気もします。

今、イザヤ書の全体像をメッセージしています。以前、40章以降は、一字一句翻訳したことがありますが、この13章から34章にかけての表現の難しさに関してはほとほと困っています。でも、そこから驚くべき感動のメッセージが生まれてきます。

イザヤ書にある救いの物語は、来たるべき世界に関しての感動に満ちた希望が、とっても刺激的な表現で描かれています。一方で、神のさばきに関しては、死後の世界というよりも、この現実の世界で、横暴な権力者が神によってさばかれるという、私たちの心の葛藤への答えが記されています。この世の不条理を嘆く者にとっては、神のさばきこそ、福音となっているのです。

このクリスマスの時期は、神の御子が「私たちの病を負い、悲しみを担うため」に肉の姿を取られた (イザヤ53:4) ことを覚える季節です。そして、御子の十字架は、死の力を打ち破り永遠の希望を与えるために復活された (同25:8) というストーリーにつながります。御子の受肉と復活のストーリーからすべてを見るときに、今ここにある課題に立ち向かう勇気が生まれます。それを忘れた生き方が、「飲めよ。食べよ。どうせ明日は死ぬのだ」(同22:13) という刹那的な生き方です。イザヤ書に描かれたストーリーには真の意味で、私たちが主に選ばれた者として現実の困難に立ち向かための希望が込められています。

昨日は、小さないのちを守る会のクリスマスナイトでメッセージをさせていただきました。 でお読みいただくことができます。

胎児はすでに完全な意味での人間であるということをルカ1章のマリアとエリサベツの対話から、ストーリーとして語ることができます。健全なストーリーの大切さを覚えさせられております。