ルカ1:35〜44「あなたの胎の実は私の主、私の胎内の子も喜び踊る」


の理事として2022年12月9日のクリスマスナイトで以下のメッセージを取り次ぎました


「小さないのちを守る会」では、胎児は人間になる前の生き物ではなく、私たちと同じ「神のかたち」に創造された人間であると受け止め、胎児の生きる権利を守るための啓発活動を行って来ました。そして今回の聖書箇所におけるエリサベツのことばほど、胎児が私たちと同じ完全な人間であることを明らかにした告白はありません。このことは意外に知られていないように思われます。

1.「神にとって不可能なことは何もありません。」

あるとき、御使いガブリエルが、マリアのもとに突然現れ「あなたはみごもって、男の子を産みます」と告げます。マリアは御使いが語る言葉に耳を傾け続けます。すると、御使いは、生まれる子が、待ち望まれた救い主として、ダビデ王国を再興すると言いました。イスラエルは、紀元前586年にバビロン帝国に滅ぼされて以来、外国の支配に苦しんでいました。このときも、ローマ帝国の支配下で多くの民が苦しんでおり、独立運動がマリアの町の近辺でも起きていました。

しかし、御使いは、「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」(33節) と、この子が地上のいかなる尺度も超えた救い主となることを述べたのです。救い主は、私たちの罪を赦して、人々を天国に導くという以前に、この地上の国を作り変える方なのです。その一つの現れが、奴隷やすべての人種の人権を認めるばかりか、今は胎児の人権を守る働きとして、世界に広がっています。マリアは、どれだけこの新しい神の国の意味が分かったでしょう。しかし、彼女は、神が、人の理解し得ない不思議を行ない、世界を変えようとしておられることを受けとめました。

マリアは、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」(34節) と答えました。彼女の応答の中心は「どのように」という疑問です。神の御前に正しかったザカリヤでさえ、結婚関係にある不妊の妻から男の子が生まれるという約束をすら信じられませんでした。まして、処女から男の子が生まれるなどと、誰が信じられるでしょう?ところが、マリアは、それを不可能と言う前に、「どのようにしてそれがなるのでしょう?」と、可能性を認める疑問で応答したのです。

御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(35節) と答えました。つまり、これは、あらゆる人間の常識も超えた、聖霊の働きによる誕生なので、「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」というのです。さらに御使いは、この不思議を、ザカリヤの妻のことを例に出しながら、「見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です」(36節) と述べます。これはより小さな奇跡に言及しながら、マリアのうちに、より大きな不思議に目を開かせようとすることばです。

その上で御使いは、「神にとって不可能なことは何もありません」(37節) と語られました。多くの英語訳では、For nothing will be impossible with God と訳されます。Nothing が Impossible であるという二重否定で、すべてが可能であるということが強調されます。

これは、神のみわざを、人間的な常識の枠にとどめてしまいがちな私たちの心を開く決定的なみことばです。理屈の上ではこれは何も目新しい教えではありません。それは神の定義のようなものです。しかし、これを心の底から確信できるなら、私たちの人生は変わるはずです。

2.「あなたのおことばどおり、この身になりますように」

マリアの応答の最初は、「ご覧ください、私は主のはしためです」でした。「はしため」とは、奴隷を意味します。ここにマリアの、神のみこころへの徹底的な服従の姿勢が見られます。私たちは、しばしば、自分の願望に縛られて、祈りによって神を動かすかのような無意識の姿勢をとることがあります。しかし、それでは神の真実の愛を体験することはできません。

ところで、続く、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」とは、自分でものを考えることのないロボットのような受け身の姿勢ではありません。ここには自分自身を差し出すという極めて能動的な生き方が見られます。しかし、同時に神のわざが自分の身に現されるままにまかせるという徹底的な受け身の謙遜な姿勢があります。これを能動的な受動態と呼ぶことができるかもしれません。

ビートルズのメンバーも読んだかもしれないNKJ訳では Let it be to me according to your word と訳されています。私は「伝道者の書」の解説の本のタイトルを「正しすぎてはならないーLet it be」とました。自分の価値観にとらわれすぎることから解放されることの大切さを覚えたからです。

とにかくマリアの応答には、自分が守られてきた常識から解放され、未来の不透明性にも関らず自分を投げ出すという姿勢、主にあってリスクを引き受けるという姿勢が見られます。これこそ、私たちがささげえる最高の祈りです。イエスは、主の祈りで、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と祈ることを勧めましたが、これも基本的に同じ意味です。

神のみこころがなることを妨害しているのは、私たち自身の意思です。神は人を、人格的な存在、主体性を持つ者として創造されましたから、私たちの心の中に土足で入って来て私たちを動かすようなことはなさいません。全能の神は、身を低くして、「わたしはあなたをとおしてわたしの計画を進めたい。だから、心の戸を開いて欲しい」(黙示3:20参照) と願っておられるのです。

マリアはこのとき、神にある冒険に満ちた人生を体験するために、この世的な「しあわせな家庭」という願望を神におゆだねしました。マリアのこの応答の祈りこそ、神の御前における最高の働きと言えます。なぜなら、後は、神が働いてくださるからです。

3.「マリアはその日々の中で立ち上がって、山地に急いで向かった」 

39節は、「マリアはその日々の中で立ち上がって、山地に急いで向かった、ユダの町に」と記されています。マリアは、御使いガブリエルのことばを聞いた時期に「立ち上がって」、ガリラヤのナザレから遠く離れたユダの山地にある町に、「急いで向かった」と描かれています。

当時の一般的なルートは、ナザレからまっすぐ南に下ろうとするとサマリア人の居住区になりますから、一度、ヨルダン川の向こうに降りて、ヨルダン川の東側を歩き、エリコの近くでヨルダン川を渡り、そこからユダの山地に向かって、まるで登山をするように標高差1200メートを一気に登るというルートでした。これは通常、四日間から一週間の道のりであったと言われます。

マリアがどのようにそこに向かったかは明らかではありません。まだ許嫁のヨセフに御使いのことばを話せる時期ではなかったかと思われます。マリアは様々な不安に襲われながら、御使いのことばにあったエリサベツを訪ね、彼女に御使いのことばを分かち合いたいと思ったのではないでしょうか。周りの人々が決して理解してくれないはずの妊娠です。一人でこのことを抱えきれるとは思えません。マリアがエリサベツのもとに、多くの旅行の危険を抱えながら、急いで訪ねたのは、そのような背景があります。私たち「小さないのちを守る会」は、まさにそのような、他の人から理解されない妊娠に悩む人への相談窓口として始まっています。

マリアと予期せぬ妊娠をした女性とは全然立場が違うように思えますが、ただ、周りの批判におびえながら一人で悩んでいるという点では同じと言えましょう。私たちはその女性の孤独感、不安感に寄り添う必要があります。

4.「これは私に何ということでしょう。私の主の母が私のところに来てくださったとは」

41節が興味深いのは、「エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で踊った」と記されることです。「踊った」は分詞ではなく、主動詞です。マリアのあいさつに、胎児がまず反応したということが強調されているのです。少し前の1章15節では、エリサベツから生まれる子に関して、御使いはザカリヤに、「バプテスマのヨハネ」の誕生の不思議に関して、「彼は、母の胎内にいるときから聖霊に満たされる」と預言されていました。ですから、エリサベツの胎に宿っている子は、まさに、胎内にいながら聖霊に満たされたれっきとした人間であったのです。

そのことを44節でエリサベツは、「あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました」と描かれています。マリアの胎内に神の御子が宿ったということを最初に認識したのは、同じ胎児であったというのは何という驚きでしょう。「小さないのちを守る会」は胎児の人権を守る団体として始まっていますが、その原点が、バプテスマのヨハネがまだ胎児であったときの反応にあると言えましょう。

しかも、エリサベツが聖霊に満たされて大声で叫んだことばは、神学上の決定的な意味を持っています。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。これは私に何ということでしょう。私の主の母が私のところに来てくださったとは」と記されています。ここでエリサベツは、マリアを「私の主の母」と呼びました。正統的なキリスト教会は、キリストが完全に神であり同時に完全に人であるという神秘を、451年に合意されたカルケドン信条によって確認しています。

そこで処女マリアを「神を産んだ母、または神の母」と告白しています。その原点が、エリサベツがマリアを「私の主の母」と呼んだことにあります。その会議で異端とされたネストリウスという人は、マリアを「神の母」と呼ぶことに抵抗し、彼女を「キリストの母」と呼ぶようにと主張したようです。その方が私たちにはなじみやすい表現です。しかし、カルケドン信条が大切にしているのは、イエスが胎児であったときから完全な神であるとともに完全な人であるという告白です。ですからマリアの胎内に宿ったイエスは、生まれる前から神であられたのです。それは私たちの神の概念を変える告白です。

多くの人は、胎児をまだ人間になる前の状態かのように考えているのかもしれませんが、正統的な信仰告白では、胎児となったばかりのイエスが、人間であったばかりか神でもあったと言われているのです。それは、イエスは胎児のままで、創造主なる父と同じ神であられたという途方もない告白です。これは、多くの人々の胎児に対する見方を革命的に変える見解です。

しかし、聖霊に満たされた胎児のバプテスマのヨハネは、神の御子を宿したマリアの訪問を誰よりも先に感謝し、エリサベツもマリアを、自分にとっての主であり神である方の母であると告白しました。私たちもその告白に倣って、胎児の状態のイエスを神と呼び、またマリアを「神の母」、あるいは「神を産んだ母」と呼ぶのです。

そして、マリアはエリサベツの告白を聞いたときに、マリアの賛歌と呼ばれる最高の賛美を告白しました。それはエリサベツの胎児が喜び踊っているという知らせから生まれた感動の歌とも言えます。神の子のご降誕の背後に、このように、胎児の存在証明があったということを忘れてはなりません。

バプテスマのヨハネの母エリサベツは、胎児であったヨハネが聖霊に満たされてマリアの訪問を喜んだことを知ることができました。また彼女は、マリアの胎内に宿る妊娠初期の胎の実を、自分にとっての主、または神と告白することができました。そして、私たちと同じような不安と孤独に悩むマリアは、そのエリサベツのことば、それ以前に、胎児のヨハネの喜びの感動に深い慰めを体験することができました。その後で、マリアは許嫁のヨセフにすべてのことを堂々と言うことができたのかもしれません。