日本にとってのワールドカップの終わり〜申命記32章39節

サッカーのクロアチア戦は、本当にすばらしい戦いだったと思いますが、最後のPK戦で敗れたというのは、なんとも寂しいですね。多くの人は、「PK戦になったら運のようなものだ……」と言います。だからこそ、日本チームは必死に、延長戦を含めた120分の試合の中で勝敗をつけようと必死に頑張ったのだと思います。

ただ、一部の評価に、日本はクロアチアのチームに比べたら、「PK戦になったことを想定しての備えが十分にはできていなかったのではないか……」というのがありました。
 
それで一人の日本人として少し思ったことがあります。多くの日本人の中には、「言霊(ことだま)思想」のようなものがあって、悪いことをイメージすると、悪いことが起きるから、なるべく悪いことを考えないようにする……という傾向があるような気がします。この場合で言えば、「PK戦をイメージすればするほど、PK戦を引き寄せてしまうかもしれない……」ということでしょうか。

そのようなことを言っている僕自身にも同じような思いがあります。

基本的に僕は、自分がコロナに感染する……ということを想定せずに働きを考えているところがあります。何となく、「自己管理をしっかりしていたら、大丈夫ではないか……」と思いたい自分がいるような気がします。また、目の前の課題をやり遂げるのに忙しすぎて、そのようなことを想定する……というところまで気が回らないのかもしれません。

しかし、自分で自分のことを管理できる……と思うことは、傲慢な考え方です。私たちは、自分で自分をことを管理しきれません。それこそが信仰の世界であるはずなのに、どこかでなお、「神に対しての誠実さを尽くしていたら、神は私たちを災いから守ってくれるはず……」と思いたい自分がいます。

そのように、幸いもわざわいも、自分たちの心がけ次第と思う傲慢に対して、主は次のように語っておられます

わたしのほかに神はいない。
わたしは殺し、また生かす。
わたしは傷つけ、また癒やす。
わたしの手からは、だれも救い出せない。
申命記32:39

私たちに求められている信仰は、幸いばかりか、わざわいの中にも神の御手が働いていることを信じることです。また、神は私たちにとって「最悪」と思えるようなことも敢えて起こされることがあるということを受け止めることです。

「このように誠実に勤めていたら、悪いことは避けられるはず……」というのは、自分で自分の人生を管理できる……と思う、自分を神とする生き方です。

そんな意味で、なかなか、最悪を想定しながら生きることは、気の進まないことかもしれませんが、あの原発事故以来、最悪を想定できてこなかった日本のもろさが日本の課題になっているのではないでしょうか。改めて、自分の中に巣くっている「言霊思想」のような呪縛から解放される必要があることを覚えらせられました。