私たちの教会のビジョンは「新しい創造をここで喜び シャロームを待ち望む」となっています。「新しい創造」とは、キリストの十字架と復活によって始まった今ここにある「神の国」です。それが完成する時がヘブル語ではシャロームと言われます。
それは神の平和ですが、黙示録では「子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができた」(19:7) という姿でも描かれます。それはキリストの花嫁である教会に加えられた私たちが「子羊の婚礼の祝宴」(19:9共同訳) に招かれて喜ぶ時を指します。
私たちは「祝宴」に招かれているのです。イエスの最後の晩餐は「新しい創造」を喜ぶときであると共に、それが完成する「婚礼の祝宴」の前味でもあります。永遠の神のご支配の中で、最後の晩餐は、「神の国の祝宴」に直結しているのです。
1.「そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた」
14、15節では突然、「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長のたちのところに行って、こう言った、『何を私に与えたいと願われるか、この私が彼をあなたがたに引き渡します』すると彼らは銀貨三十枚を彼に支払った」と記されています。
ここには深い悲しみの響きがあります。祭司長たちは、暴動を恐れ、夜陰にまぎれてイエスをとらえるための内通者を求めていました。そして今、十二弟子の一人で、「金入れを預かっていた」(ヨハネ12:6) ほどの人がイエスを裏切るのです。
「銀貨三十枚」(15節) とは、奴隷が牛に突かれて死んだ場合の賠償金で (出エジ21:32)、当時の約四か月分の労賃、マリアが一度に使った香油の価値三百デナリの約三分の一の金額に過ぎません。計算高いユダがこんな些細な金のためにイエスを売るのでしょうか?
彼は失望と怒りのあまり衝動的に動いたのかもしれません。ユダはイエスにダビデ王国再興のため、最後の奮起を願ってこのような行動を取ったという解釈もあります。
16節では、「そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた」と記されます。それはユダの素早い行動が、イエスの二日後の十字架につながったということを示唆します。
なお、ユダの裏切りの記事はマリアがイエスの埋葬の備えとして「イエスの頭に香油を注いだ」(26:7) という話に続けて記されますが、これはヨハネ福音書によると「過越の祭りの六日前」、つまり、イエスのエルサレム入城の前日の出来事です (ヨハネ12:1)。
ただ、マタイでは、当時の祭司長たちや長老たちが、民の間に騒ぎが起きるのを心配して、イエスを捕らえて殺すのを一週間続く過越の祭りの後にしようと合意していたという記事 (26:5) の直後に、香油注ぎの記事が描かれます。それは祭司長たちに計画を早めさせる原因がユダの裏切りにあり、それはマリアのこの常軌を逸した行動をイエスが賞賛したことに対する失望から生まれたという論理を明らかにするためであったと考えることができます。
とにかく、香油注ぎに対するイエスの応答を見て、ユダは激しく落胆したことでしょう。彼は、イエスがダビデ王国を再興する際には、財務大臣になれるとでも期待していたかもしれません。
ところが、イエスはマリアが「わたしを埋葬する備えをしてくれた」(26:12) とその行動を高く評価しました。それほど明確な死の覚悟を聞き、ユダは徹底的に混乱したに違いありません。
2.「わたしの時が近づいている⋯⋯弟子たちと一緒に過越を祝いたい」
17節は、「さて、種なしパンの祭りの最初の日に弟子たちはイエスのところに来た、『どこを望まれますか、私たちがあなたのために過越の食事を用意するために』と言いながら」と訳すことができます。
最初に「種なしパンの祭りの最初の日」と記されるのは不思議ですが、イエスの時代には「過越の祭り」の前日、すなわち「過越の子羊を屠る日」から「種なしパン」を食べるという習慣になっており、マルコ14章12節では、「種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日」と敢えて説明されています。
そして「過越の祭り」は太陰暦でニサン(3、4月頃)の十五日、満月の日と決まっていました。それはイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されるために、主 (ヤハウェ) がエジプトの初子を滅ぼした際に、子羊の血が鴨居と門柱に塗られている家の「戸口を過ぎ越した」(出12:23) ということを記念するためです。
しかも、ユダヤの暦では日没から新しい日が始まるため、「種なしパンの祭りの日」の夕方には、過越の食事をすることになりました。ですから木曜日の日没から金曜日の日没までが「過越の祭り」の最初の日で、イエスはその始まりの夕方に過越の食事をし、過越の祭りの日に十字架にかけられたということになります。
とにかくイエスは弟子たちの質問に次のように明確に答えられました。「都に入り、ある人のところに行きなさい、そして彼に言いなさい、『先生が言っておられます、わたしの時が近づいている、あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい』と」
マルコでは「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい」(14:13) と敢えて、その家の名前がわからないように描かれています。それはイスカリオテのユダが、祭司長たちにイエスの晩餐の場所を知らせる恐れがあったからだと思われます。
マタイで「ある人」または「これこれの人」と記されているのは、そのことを簡略化して記したもので、イエスから準備を命じられた人以外には、その名が秘密であったという意味だと思われます。
そして19節では、「弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした」と記されます。ただマルコではその前に、「その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます」(14:15) と記されます。
この祭りの時期にエルサレムにおいて特別な部屋を事前に準備することは至難のわざでしたが、その準備がなされていたのです。そこに弟子たちも過越の子羊を用意したことでしょう。
3.「まさか私のことではないですよね、主よ(または「先生」)」
20節では「さて夕方になって、イエスは十二人といっしょに横たわった」と記されています。当時の食事のスタイルは、足を横に投げ出して横たわり、左肘を着いて、右手を伸ばして食べ物を手に運ぶというものでした。
そこで「彼らが食事をしているときイエスは言われた、『まことにあなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ることになります』」(21節) と描かれます。「彼らが食事をしているとき」ということの中には、家の主人が第一の盃を祝福して飲み、苦菜を種なしパンに付けて祝福を祈って食べ、第二の盃を祝福し、詩篇113篇、114篇を唱和するという一連の儀式を行った後、子羊の肉の意味を語って祝福し、その後にみなが一斉に食べだすという流れがあったようです。
そのような中でイエスが一人の裏切りを予告したのだと思われます。
それを聞いた反応が、「弟子たちはたいへんに悲しんで、一人ひとりがイエスに言い始めた、『まさか、私のことではないですよね、主よ』と」(22節) と記されています。
これは弟子たちがイエスのことばは必ず成就するということを知っていたからこそ、誰かが裏切るということを確信した上で、それが自分を指してはいないということをイエスに念を押そうと、一人ひとりがそのように語ったという意味だと思われます。
それに対しイエスは、「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります」(23節) と言いますが、それは誰かを特定するためではなく、一緒に手を鉢に浸すほどに親しい者がご自身を裏切るという悲しみの表現です。
事実、ヨハネ13章18節では、詩篇41篇9節を引用し「私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが私に向かってかかとを上げます」と、親しい友の裏切りを説明します。似た表現が詩篇55篇12–15節にも見られます。
ですからイエスはここで、それに続けて「人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行きます。しかし、わざわいです、人の子を裏切るその人は。そういう人は生まれていなかった方がよかったのです」(24節) と言われました。これはユダに最後の悔い改めを促すことばでした。
イエスは「手を鉢に浸して」、裏切り者はユダであることを皆に明らかにしようとしたのではなく、彼の苦々しい気持ちを受け止めながら、最後の警告を与えたという意味です。「生まれていなかった方がよかった」というのは、その人がこれから受ける厳しい「のろい」を目の当たりに浮かべてのことばです。
ところがそこで「イエスを裏切ろうとしていたユダ」は、他の弟子と同じ表現で、「まさか、私のことではないですよね」(25節) と言います。まったく鉄面皮な言い方ですが、そこで他の弟子は「主よ」と呼びかけた部分を「ラビ」(先生)と最後に付け加えることで違いを表しています。
それに対し、イエスは「いや、そうだ」と言われたと新改訳では訳されていますが、ここは厳密には、「あなたは言いました」とのみ記されています。これは他の弟子には理解できないように配慮しながら、ユダにだけは、「あなたのそのことばが自分の裏切りを明らかにしていますよ」と分かるように指摘し、最後の悔い改めを促したという意味でしょう。
イエスは最後まで、ユダに悔い改めの機会を与えようとしておられます。しかし、彼はその招きに応答することはできませんでした。それは彼がイエスご自身よりも、イエスがもたらしてくれる富、力、栄誉などに目が向かっていたからでしょう。
あなたが誰かから愛されていると思う時、あなたは、自分自身が愛されているか、それともあなたが持っている何かを愛しているかを敏感に察知するのではないでしょうか。それなのに、あなたは、自分の中にあるユダの心には鈍感になってはいないでしょうか?
私たちが、「まさか私のことではないですよね、主よ」と問うとき、「あなたはどのような意味で、それを聞いているのか」と、反対に問われているとも言えましょう。
そうではなく、自分の中にもユダと同じ思いがあることを認めながら、ただ、「こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13新改訳第三版) と祈るべきでしょう。
4.「取りなさい、食べなさい、これはわたしのからだです」
26節では、「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して(神をほめたたえて)、それを裂かれた。そしてそれを弟子たちに与えて言われた。『取りなさい、食べなさい、これはわたしのからだです』」と記されますが、これは最初の聖餐式のことばで、私たちは聖餐式のたびにこのことばを繰り返します。
そこでイエスはパンを裂かれました。ですから私たちも「パンを裂き」ます。しかもそれは種なしパンでなければなりません。それは、「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか」(Ⅰコリント5:7、8) と記されているとおりです。
さらにパウロはパンを裂く意味を、「私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから」(Ⅰコリント10:16、17) と説明しています。
ですから当教会では、事前に聖餐式セットを配ってオンラインで一緒にいただくようなことはしませんでした。一つのパンを互いに分かち合うということを思いめぐらすことの方が大切だと思われるからです。
さらにイエスは、「取りなさい。食べなさい」という命令形を同じ重さで並べています。それぞれが自分の信仰告白の現れとして手を伸ばして「取る」のです。
しかも、目の前に配られたパンのことをイエスは「これはわたしのからだです」と言われました。今、キリストは天の父なる神の右に座に着いておられますから、カトリック教会が主張するように、パン自体をご聖体と呼び、これがキリストのからだに聖変化しているとは論理的には言えません。
しかし私たちの教会では、配餐者に敢えて「キリストのからだ」と言いながら配るようにお願いしています。それは理屈を超えて、配られたパンを霊的にキリストのからだとして受け止めることができるためです。
それはイエスご自身が、「わたしは、天から下ってきた生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」(ヨハネ6:51) と言っておられるからです。私たちはパンをいただくときにキリストご自身が私たちのうちに住んで、私たちを生かしてくださることを体験するのです。
なお、ルカの並行記事から見ると、ユダはイエスから裏切りの気持ちを悟られたと分かった後でも、その場にいたことが明らかです (ルカ22:21)。
聖餐式のたびに、「もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです」(Ⅰコリント11:27-29) と問われるのは、何よりもユダのような心を持ったままあずかることへの警告です。
イエスを心から自分の主と告白しないままで、パンと杯を受けるなら、それは自分の良心の働きを麻痺させることになります。それはさらなる罪の契機になるのです。
5.「わたしの契約の血」「わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで」
イエスは続けて「また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。『みなこの杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です、多くの人のために流されるもので、罪の赦しのためです』」と言われました (27、28節私訳)。
イエスは杯の中にある「ぶどうの実のもの」を「わたしの契約の血」と呼ばれました。それは「罪の赦し」を確かにする「契約」と言えます。
そのキリストの流された血の意味をへブル書の著者は、「キリストは⋯⋯雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ(天の)聖所に入られたのです、それは、永遠の贖いを成し遂げるためでした。もし、雄やぎと雄牛の血⋯⋯が、からだを聖いものとして聖別するのであれば、ましてキリストの血はどれだけまさっていることでしょう。
それは、とこしえの御霊によって、傷のないご自身をお献げになったことによるもので、私たちの良心をきよめないわけがありましょうか。それは死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることです」と記します (9:12–14私訳)。
そこにはキリストの契約の血が、今ここでの「罪の赦し」を超えて、私たちの心を内側からきよめる働きをするという意味です。キリストの血の力を軽く見すぎてはいけません。
ただイエスは、すべての人のためではなく、「多くの人のために流される血」と言われました。イスカリオテのユダの罪は、キリストの血によっても赦されることはありません。
ユダは、自分にとっての神の国への願望に囚われて、イエスにある壮大な救いの可能性を見ることができませんでした。イエスの十字架が自分の罪のためであったと受け止めると同時に、そこから新しい神の国が始まっていることを覚えなければなりません。それを受け入れることによって初めて「罪の赦し」の恵みが私たちのうちに働きだすのです。
確かに私たちの信仰はこの世の富や名誉によって揺らぎますが、イエスご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(同13:5) と約束してくださいました。
私たちは自分の信仰の力によってという以前に、イエスの真実な約束、契約によって「永遠のいのち」が保証されているのです。私たちは聖餐式のたびごとに「キリストの契約の血」と呼ばれる「杯」をいただくことで、イエスの契約が自分の心ばかりか、この世の誘惑にさらされるこの身体全体を守ってくださると信じさせてもらえるのです。
さらにイエスは、「今から後、ぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで」と言われました (29節)。これはイエスの断酒宣言ではなく、父の御国の祝宴が時空を超えて目の前に備えられていることを明らかにすることばです。
聖餐式はその意味で、天における祝宴が今、自分の前の前に迫っていることを覚える機会です。このことばには、イエスご自身が「新しい天と新しい地」、「新しいエルサレム」での祝宴を待ちわびておられるという意味があります。
私たちは終わりの日にみな一緒によみがえって、一緒に祝宴にあずかるのです。先に天に召された人も、その日までは「ぶどうの実で造ったもの」を飲むことなく待っています。先に天に召された愛する人が、一緒によみがえる日を待ち焦がれています。その時が必ず来ることを保証するのがこの契約の杯です。
最近、天に召された方は、直前まで多くの人と楽しく語り合い、またお世話になった方にも感謝の気持ちを表し、再会を願っておられました。
彼女は教会員として入会した際の証しに、「最後に私の好きな讃美歌は205番です。聖餐式に歌われるたびに涙が出ます」と書いておられました。この2年10か月の間、リアルな聖餐式も行われませんでしたが、私たちは終わりに日にともに復活して祝宴に加えられます。
その後のことが、「そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山に出かけた」(30節) と記されます。ここでは過越の祭りの食事の後ですから、詩篇115–118篇が歌われた可能性が高いと思われます。
詩篇118篇26節では「祝福あれ 主の御名によって来られる方に」と救い主の到来の希望が歌われますが、その直前の22節には、「家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった」と記されています。それは、イエスが当時の宗教指導者から捨てられ、十字架にかけられながら、後に復活し、新しい神の民の共同体の「要の石」となることを指しています。
それはイエスご自身が祭司長たちとパリサイ人たちに既に語っておられたことでした。イエスの最後の晩餐は、まさに教会の「要の石」となったことを覚えるべきです。
イエスの最後の晩餐は過越の食事でした。それはイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたことを祝う日です。
そして主はその翌日、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29) として、十字架で屠られます。それは私たちを罪と死、またサタンの支配から解放するためでした。私たちは今、このままで「神の子」とされています。そしてこの世に遣わされて神の国を広げてゆきます。
聖餐式はイエスの十字架の贖いによって、この世界が神の平和(シャローム)に向かって動き出したことを覚える機会です。
聖餐式では「キリストのからだ⋯⋯契約の血」を受けることによってこの世に遣わされるための霊的な糧をいただくのです。それはキリストの十字架の贖いを覚えるばかりか、父の御国でイエスとともに「ぶどうの実のもの」を飲む「祝宴」を待ち望む機会です。
聖餐式において記念するのは、過去ばかりではなく、キリストの契約による「新しい天と新しい地」という将来のことでもあります。
それはキリストの再臨によって実現しますが、そこで成就することが黙示録21章では、エデンの園に対応する「新しいエルサレム(復活した聖徒の住まい)が⋯⋯花嫁のように整えられて⋯⋯天から降って来る」ことで実現する「祝宴」のときとして描かれます。