日本は今、デジタル化を中心に世界の技術革新の急速な流れから取り残されそうな感じになっていますが、その原因として日本の同質性がネックになっている可能性を最近、考えさせられました。多様性が尊重されて初めて、新しい発見や技術革新が、小さなグループで認められ、互いに競合する中で、良いものが多くの人に認められるようになります。日本のような同質性が尊重される世界では、違った発想を持つ人の居場所がなくなってしまうことが、技術革新にはマイナスに働くような気がします。
イザヤ45章22–24節には、同質性と多様性のバランスが以下のように描かれています
地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。
わたしが神だ、ほかにはいない。
⋯⋯
すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い、
わたしについて、
「ただ主 (ヤハウェ) にだけ、正義と力がある」という
すべての民が、聖書の神を仰ぎ見て救われるというのは、同質性の極みのようにも思えますが、ここでの「すべての膝がかがめられ」ということばは、ピリピ人への手紙2章5–11節のキリスト讃歌に引用されます。キリストは神の御姿であられるのに⋯⋯ご自分を空しくして、しもべの姿を取り⋯⋯十字架の死にまで従われた。それゆえ神は、この方を高く上げられ、すべての名にまさる名を与えられ、すべてのものが膝をかがめ⋯⋯「イエス・キリストは主です」と告白するという流れです。
イエスに倣うとは、自分と異なった発想を持つ人、自分と違った人を徹底的に尊重して、その人に仕えるということです。そこでは多様性が大切にされながら、イエスを主と告白するということでの同質性が守られています。
最近、イスラエル出身の経済学者オデッド・ガローが記した「格差の起源」という本を読みました。このタイトルは内容に誤解を与えるものですが、そこでは「統一成長理論」なるものが提示されています。
彼によるとホモ・サピエンスという我々人類の先祖は、アフリカ大陸の中東部で発生し、世界に広がりましたが、その移動距離が長くなるほど、多様性が減ってくるとのことです(この進化論的な発想に僕が同意しているわけではありません⋯⋯)。南北アメリカ大陸などの移民の国を別とすると、確かに、その理論が当たっているように見える面があります。ただ、そこで、多様性が激しすぎると、共通の常識が通じないため、互いを滅ぼしあってしまいます。そして、生産力が増加してもその分人口が増えるので、経済は成長しません。
しかし、ある段階から人的資本への投資の大切さが共有されるようになると、人口増加が抑えられ、所得の急上昇と平均寿命の急に伸び始めます。それは、教育費が高くなるほど人口が減少するという現実に表されます。
一方、16世紀までは中国を中心としたアジアが経済的にはずっと豊かでした。それは文化的また言語的な同質性によって、互いの協力関係が築かれたからです。
しかし、16世紀から急速に起こった様々な技術革新の中では、同質な国の支配者の利害に反するものは受け入れられませんでした。一方ヨーロッパでは、小さく国々が分かれているため、みな競争するように新しいものを取り入れようとします。その結果、技術革新が進み、また人的資本への投資も大切にされ、経済がますます成長しました。
つまり、経済成長の最初の段階では同質性が有利に働く一方で、ある段階以上に成長しようとすると、同質性が、新しい発想の展開を抑えるように働くというのです。
ここからは僕の解釈ですが、日本の場合は、明治維新や太平洋戦争の敗戦という国家的な危機の中では、同質性が成長に有利に働いたのだと思われます。しかし、現代のように、ある程度の生活水準が保たれている中では、同質性が成長のブレーキになるような気がします。
それはキリスト教会の現実にも当てはまることです。ある段階を越した中での成長の動力は多様性にあるということは、本当に心に刻む必要があります。最低限の常識が通じたらそれで満足すべきなのかもしれません。違ったタイプの人がこの社会に、また教会に増えなければ、みんな現状維持に満足してしまいます。そして、人は、現状維持を大切にしたとたん、退歩に向かっているのだ思います。
多様性の中にある一致というのが私たちの教会で大切にされているビジョンです。教会の豊かさは、イエスを主と告白するという点における一致を大切にしながら、他の点ではそれぞれの良心の自由を徹底的に尊重するということの中に表されます。それこそが福音自由教会の魅力なのかと思わされています。