私たちがイエスを主と告白できるようになったのは、自分の意志以前に聖霊のみわざです。ところが今日の箇所では、「悔い改めて⋯⋯バプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」(38節) と記されています。
信仰告白が聖霊のみわざであるはずなのに、その反対のことが書かれているように見えます。しかし、実際の信仰の歩みでは、どこかで思い切って自分の行動を変えるというきっかけがなければ道が開かれないという面があります。その意味でバプテスマは信仰の出発点です。
そして、それに身を任せてみると、そこから生きた聖霊のみわざを体験できるという好循環が始まるのではないでしょうか。私たちの信仰をあまり理屈で考えてはいけません。聖霊のみわざに心を開くことが何よりも大切です。
1.聖霊によってめいめいの国のことばで話し⋯⋯聖霊によって主の名を呼ぶ
使徒の働き2章にはペンテコステの出来事が記されています。それは「皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」(2:4) ということでした。
バベルの塔において、人間たちは一致して主に逆らいましたが、それに対して主は人間の言葉を混乱させ、地の全面に散らされました。それは人々が同じ基準で序列を作るような社会を正そうとする神のあわれみでもありましたが、それがために異なった言葉を持つ者たちの間の意思疎通が難しくなり、民族と民族の対立の原因となりました。
ただペンテコステに起きたことは、みなが同じ言葉を話せるようになることではなく、イエスの弟子たちが、自分たちの間の少数者の言葉を話すようになることでした。
このときエルサレムに来ていたユダヤ人は本来ヘブル語が理解できて当然のはずなのに、この場にはそれができないユダヤ人が集まっていました。そのとき、神の霊が注がれた弟子たちが、そこに集っている人々の出身地の言葉を話すようになったというのです。
それは日本にいる外国出身者に、「日本にいるなら日本語を習いなさい」と言う代わりに、私たちが中国語や韓国語、タイ語、アラビヤ語などを話すようになることに似ています。つまり、聖霊に満たされるとは、立場の弱い人たちに合わせて話すことができるようになることだったのです。
パウロは自分の伝道の姿勢を「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになり⋯⋯律法を持たない人には⋯⋯律法を持たない者のようになりました⋯⋯弱い人たちには、弱い者になりました」(Ⅰコリント9:19–22) と語っています。
たとえば、現代の教会の礼拝や交わりでも、教会でしか使われないような専門用語が多すぎるのかも知れません。それは便利なようで、本当の意味では理解できていない場合があります。子どもに分かるように話せるかが、理解度をはかる基準になるとも言われます。
聖霊のみわざは数千年前の文化やことばと、現代の文化やことばの橋渡しをして、目の前の人に分かるように話せることの中に現わされます。
そして、自分たちの身近なことばで福音を聞いた人々が、主のことばを理解し、主を呼び求めるように変えられるというのが聖霊のみわざでした。
使徒2章14節以降において、ペテロは聖霊降臨の不思議の意味を説明するためにヨエル書2章28–32節を引用しています。その預言の趣旨は、神の最終的なさばきが下る前に、神が人々の心を造り変えてくださるというものです。
神の命令の中心は、「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい」(申命記6:5) ですが、イスラエルの民は神を愛することができなくて神のさばきを受けバビロン捕囚となりました。
しかし、神は、終わりに日に、「あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し(心の包皮を切り捨て)て、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる」(申命記30:6) と約束しておられました。
つまり、人々が真心から主を呼び求めるように変えられることこそ聖霊のみわざなのです。
さらに、ヨエル書の引用の最後で、「主の御名を呼び求める者は みな救われる」(使徒2:21、ヨエル2:32) と記されていますが、ヨエル書での「主」とはヤハウェでありますが、このペテロの説教では、「ナザレ人イエス」(22節)こそが「主」であるという話の展開になります。
その際、23、24節でペテロは、当時のユダヤ人たちに向かって「このイエスを、あなたがたは⋯⋯十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました」(23、24節) と簡潔に宣言します。
これは、神の恵みのみわざが人間の罪のわざを圧倒し、それを呑み込み、救いが成就したという意味に理解できます。
そしてペテロは、「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(31節) と宣言します。私たちも常にこれを自分の告白とすべきでしょう。
続いて、「神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです」(33節) と述べますが、これは、今、ダビデの王国に代わるイエスの王国が聖霊によって建てられていることを意味します。
しかも、その聖霊はイエスの生涯を導いていた方であり、その方が私たちをイエスの代理として用いてくださるというのです。聖霊の働きが目の前の人々の目で見られ、耳で聞こえるという不思議を私たちは注目すべきでしょう。聖霊が注がれたことこそが、ここでの中心テーマです。
2.「このイエスを、あなたがたは十字架にかけたのです」
34、35節では詩篇110篇が引用され、ダビデがイエスを「私の主」と呼んでいるとも言われます。その上でペテロは、「イスラエルの全家は、このことをはっきり知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架にかけたのです」(36節) と述べました。
ここでは神がイエスを「主」とされたと宣言されています。つまり、イエスこそは旧約聖書で主 (ヤハウェ) と呼ばれた創造主であり、その方が人としてご自身の性質を現わされたという告白です。またこのイエスが聖霊を注いでくださったと言われているのです。
ここに、父なる神と並んで、聖霊とイエスのみわざが述べられています。
それにしてもペテロは最後に、「このイエスをあなたがたは十字架につけた」(36節) と厳しく指摘します。これは私たちをも同じように責めることばで、多くの場合、「あなたの罪がイエスを十字架にかけたのです」と言われます。これも人間的な論理を超えた聖霊によることばと言えましょう。
なお、ここで指摘されている「罪」とは、神がお立てになられた救い主を十字架につけたということです。確かにイエスを十字架にかけるように主導したのは、パリサイ人や律法学者などの宗教指導者たちでしたが、そこにいた多くのユダヤ人も「イエスを十字架にかけろ!」と叫びました。それは、自分の願望を満たしてくれる神を求めるという思いで、心の底には自分を神とするというアダムの思いがありました。それこそが罪の原点です。
そしてこれを聞いた人々も、私たちも、「心を刺され」、「私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねます。
それに対して彼は、「回心しなさい(悔い改めなさい)、そしてバプテスマを受けなさい、あなたがたそれぞれがイエス・キリストの名によって。それはあなたがたの罪が赦されるためであり、また、賜物としての聖霊(聖霊の賜物)を受けるためです」(38節) と答えます。
最初の「回心しなさい(悔い改めなさい)」の原語はメタノエオーで、心の方向転換を意味します。自分の悪い生活習慣を変える以前に、イエスを自分の人生の主と認めることこそが中心です。
自分で自分の心を律することができるぐらいなら、イエスが十字架にかかる必要はありませんでした。残念ながら、多くの人は信仰を、自分の心を制御できるようになるための方法かのように考えています。それはギリシャのストア哲学や禅宗を中心とした仏教の考え方と同じです。
さらに「バプテスマを受ける」とは、「私はイエス様なしには生きて行けない⋯⋯」と降参することの象徴とも言えます。多くの国々でも日本でも、心の中でイエスを救い主として信じたと言っても本当にクリスチャンの仲間入りをしたとは認められない場合もありますし、また都合が悪くなったら世の中の偶像礼拝の習慣に合わせることができるとも思われがちです。ですから、洗礼を受けていない信仰者は、迫害を逃れることができる場合もありました。
しかし公の洗礼という儀式を通ることで、名実ともにクリスチャンの仲間入りとしたと誰からも認められるようになります。これは結婚式に似ています。二人が愛し合っていれば実質的には結婚しているとも言えますが、それを公の場での誓約を通して、社会に対して自分たちの関係を宣言し、また法的な保護も受けられます。
ただ、この公の儀式は、内側にある信仰を表現すること以前に、自分の心の移ろい易さに対する防衛策でもあります。少なくとも僕の場合は、野村證券への入社一か月前に洗礼を受けましたが、それは、洗礼を受けずに入社したら自分は信仰から離れてしまう可能性があると恐れたからです。
つまり、バプテスマは自分の信仰告白の機会でもあるとともに、自分で自分の信仰を信じられないから受けるものとも言えます。
その意味で、未熟な信仰だからこそバプテスマを受けるとも言えます。それは、多くの文化圏で結婚式が盛大に祝われることの理由に、後戻りできない気持ちを二人に抱かせると同時に、周囲の人が二人の結婚関係の成長を応援するという意味があるのと同じです。
なお、ここで、「回心し、そして、バプテスマを受けなさい。それは⋯⋯賜物としての聖霊を受けるためです」と記されていることは神学的に問題を含んでいるようにも思えます。なぜなら、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』ということはできません」(Ⅰコリント12:3) と記されているように、教会に通い続けることや信仰告白ができること自体が、聖霊のみわざだからです。
私たちは聖霊を受けた結果として信仰者になっているのに、ここでは「バプテスマを受けたら、聖霊を受けられる?」と記されているかのように解釈できます。
しかし、2章全体の文脈に明らかなように、このときにいたユダヤ人たちは、使徒たちが急に外国語を話せるようになったということで、聖霊の圧倒的なみわざを見ると同時に聞いていたのです。
人々は、ペテロからヨエル書の説き明かしを聞きながら、自分たちにも神が、「終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ⋯⋯その日わたしは⋯⋯わたしの霊を注ぐ⋯⋯太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる」という預言を成就してくださることを待ち望んでいました。
彼らは「罪が赦されること、聖霊を受けることのために」、回心とバプテスマが必要だと言われていたのです。ですから、信仰と聖霊の関係は、「鶏が先か、卵が先か」という議論と同じです。聖霊を受けた結果として信仰告白とバプテスマがあるのですが、それがその通りに実行されたという現実を通して「賜物としての聖霊」のみわざがその人の中に明らかにされます。
聖霊のみわざをより身近に体験したいなら、公の信仰告白の証しとしてのバプテスマに速やかに受けるべきでしょう。中途半端は損なことです。
私たちも自分の惨めさに圧倒されることがあります。しかも、自分で自分を変えようとあせるほどかえって絶望感を深めざるを得ません。しかし、神があなたに求めておられることは、神の救いのご計画に身を任せることです。
あなたの罪がイエスを十字架につけました。しかし、神はこの方をよみがえらせました。ですから、もう後悔の念にとらわれる必要はありません。神のみわざは人の罪にも関わらず完成に向っています。私たちもキリストの復活の証人、聖霊を受けた者として、明日に向けて生きることができます。
3.初代教会の礼拝——使徒たちの教え、コイノニア、パン裂き、祈り(賛美)
39節で、「この約束は、あなたがたの、またあなたがたの子どもたちの、そして遠くにいるすべての人々、すなわち私たちの神である主が召して(招いて)くださるすベての人のためのものです」と記されます。つまり、この約束を自分のものとできるかどうかは、神の「召し」にかかっているのです。
さらにペテロは「ほかにも多くのことばをもって証しをし、『この曲がった時代から救われなさい』と言いながら、彼らに勧め続けた」と記されます。なお、「救われなさい」というのは受身形であり、先の神の「召し(招き)」と合わせて、自分自身の聖霊のみわざに明け渡すことを意味します。
つまり、「救い」は自分の意志以前に聖霊のみわざなのです。私たちに求められていることは、ただそれに対し、自分の心を開くということだけです。
さらにその結果が、「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた」(41節) と記されます。三千人のバプテスマがどのように可能になったかは不明です。彼らはすべて約束の聖霊を受けた人々です。
その結果生まれた共同体の礼拝の様子が、42節の原文では、「彼らは堅く守っていた」と記され、その内容が、「使徒たちの教え、交わり(コイノニア)、パンを裂くこと、祈り」という四つに分けられます。
第一は福音書を朗読し、その教えを身につけることです。第二は信者となったもの同士が互いのために祈りあい助け合うことです。第三は現代では聖餐式を守ることです。そして、第四に神に向かって賛美し、祈ることです。祈りと賛美は、詩篇において融合しているからです。
これらは何よりも聖霊のみわざによる礼拝の姿でした。そして、このことが43節以降具体的に展開されます。「すべての人に恐れが生じ続けた」(43節) とは、47節までのすべての要約です。それは真に恐れるべき方を恐れ、互いに愛し合うことによって自分から自由にされることです。
そして、第一の「使徒たちの教え」に「多くの不思議としるし」が伴っていることで、彼らの語ることばが、信頼するに値することを保証しました。
第二の「交わり」は、「信者となった人々はみな一つになって、いっさいの物を共有にしていた。そして財産や所有物を売っていた、そして、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた」(44、45節) ということで現されました。
これは原始共産制などではなく、聖霊のみわざです。聖霊が、人の心を、自分の所有物はすべて神と人のものであるという気持ちへと変えるのです。そこには一切の強制も、見栄もありません。
第三の「パンを裂く」ことが、「毎日、心をひとつにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし続けた」(46節) と描かれています。初代教会の時代は、聖餐式と食事の交わりが不可分であり、また聖餐式のない礼拝はあり得ませんでした。
なお、カトリックでの「ミサ」ということばは、みことばの説教の後、聖餐式に移る前に、「求道者はこの場から出てください」と「解散」(ミサ)させたことに起因していると言われます。聖餐式は、聖霊を受けた者たちだけがあずかることができた信者の交わりでした。たとえば、「主の祈り」なども、求道者はともにすることが許されませんでした。
第四の「祈り」は、彼らは「神を賛美し、民全体から好意を持たれ、主は毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(47節) ということで現わされています。彼らの祈りと賛美が神に聞かれている結果として、周りのユダヤ人たちから好意を持たれ、さらに救われる人々が加えられるという好循環になっていたのです。
なおその際、「賛美」の中心とは、主の復活の証人として、主の復活を歌うことでした。彼らは歌いつつ、主に祈っていました。私たちの間に真実の愛の交わりがあるなら、まわりの人々は、「ここに愛がある」と認め、まるでミツバチが花の蜜に引き寄せられるのと同じになり、その結果、「救われる人々」が仲間に加えられ続けるのです。
聖霊のみわざによって始まった初代教会では、少数者や社会的弱者が尊重されました。説教の中心にはキリストの復活がありました。それは神の恵みが罪の力に打ち勝ったしるしでした。
またそこにいた人々は、ヨエル書の預言の成就としての聖霊が与えられることを切望して、バプテスマを受けました。そして、仲間に加えられた人々は、使徒たちの教え、交わり、パンを裂くこと、祈ることにいつも心を集中していました。
そして、そこに現れた聖霊のみわざとは、それぞれの必要に応じて財産を分かち合い、ともに食事をし、聖餐式を守ることとして現わされました。そして、彼らの神への賛美が、人々をさらにその交わりに加えました。つまり、聖霊のみわざはキリストにある交わりの成長として現わされていたのです。
聖霊のみわざは、ある個人の信仰生活が輝いて見えるようになるというよりも、信仰共同体に現わされます。
イエスご自身も、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」(ヨハネ13:34、35) と言われました。
あなたがたがキリストの弟子であることは、そこに形成された交わりとして現わされるのです。
私たちはあまりにも、自分自身の信仰の成長とか、問題の解決とか、働きの成果などという個人的な成長に目が向かいすぎてはいないでしょうか。
私たちは時に、「私は自分の身を守るだけで精一杯です。人の悩みを聞く余裕もありません」という気持ちになることがあります。しかし、それを正当化すると、ますますあなたの心が内向きになります。
私がかつて、自分の神経症的な傾向を直したいと必死になっていたとき、 先生は、「あなたは自分の妻の話を黙って30分間聞きなさい。それが最高の治療です」と言ってくださいました。なかなか実行できてはいませんが、そこに大切な真理があります。私たちが自分自身から解放されるために必要なのは、他の人の話に真剣に耳を傾けることです。
この使徒の働きでは、そこにいた人々がペテロの話しを真剣に聞き、またバプテスマを受けた後は、周りの人々の話しを聞き、その必要に応えるという働きができました。聖霊のみわざは何よりも、聞くことから始まります。そして、互いの心の声を聞き合うということは、本当に難しいことでが、そこに聖霊のみわざが現れます。