マタイ25章31〜46節「人の子はご自分の羊を守ってくださる」

2022年10月23日

欧米のキリスト教の中で「最後の審判」ばかりに焦点が当てられる福音が語られてきたことがあります。しかし、それは聖書全体のストーリーではありません。「神の民の創造」こそがアブラハム以降の救いの物語の核心にあります。それは、旧約の預言書の全体像から見るなら疑いのない事実です。そのような視点から、今回の箇所を読む時に、私たちが抱く素朴な疑問に明るい希望の光が見えてきます。

1.「最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」

今回の箇所は、ロシアの文豪トルストイが書いた「愛のあるところに神あり」または「靴屋のマルチン」という物語のもととなっている聖句です。ある貧しい村にマルチンという働き者の靴屋さんがいました。でも、奥さんが病気でなくなり、あとには三つになる男の子が残りました。でも、子どもがやっと大きくなって、マルチンの助けができるようになる頃、突然病気に取りつかれ一週間熱を出して死んでしまいました。

彼は絶望のあまり、神様に対して不平を言うほどになりました。また酒場でウォッカを飲んで人を罵るようなことまでしてしまいました。でも、あるとき同郷の老人が尋ねて来て、「わしらには、神様の仕事をかれこれいう資格はないんじゃ⋯⋯おまえが落胆しているのは、おまえが自分の喜びだけのために生きようとしているからじゃよ」と言ってくれました。

それにマルチンが、「じゃ、人間は何のために生きればいいんですかね」と問うと、老人は、「神様のためにさ、マルチン、おまえに命を下されたのは神様じゃから、神様のために生きなければならんのさ」と答えました。

それからマルチンは福音書を読み始め、その内容に引きつけられ、平安を覚えることができるようになりました。あるとき、イエス様を迎えながら足を洗う水さえも出さなかったパリサイ人の記事に出会って、自分にもそのような身勝手な面があることに気づきます。

そこでマルチンは眠ってしまいましたが、そこで「マルチン、おい、マルチン、明日往来を見ておれよ、わたしが行くから」という声がはっきりと聞こえました。彼には不思議に、それがイエス様の声だと思えました。

翌朝、凍てつく寒さの中、彼は夜明け前に起き出して神様にお祈りをし、暖炉を暖め、シチューと麦粥をこしらえ、サモワール(給茶器)に火を入れ、通りを見ながら仕事を始めました。

すると、地下の家から、一人の老人が寒がりながら雪かきをしているのに気づき、彼を招き入れ、温かいお茶を何杯も入れながら、イエス様の話しをしました。

また、見ていると、赤ちゃんを抱いた夏服のままの貧しい女の人が見えました。彼は彼女を家の中に招き入れ、朝に用意していた食事をあげたばかりか、自分の大切な上着を上げ、質草に取られたショールを買い戻すお金も上げました。

また外を見ていると、一人のおばあさんがリンゴを盗んだ男の子を凝らしめているのが見えました。彼はおばあさんをたしなめるとともに、その子を優しく諭しながら、リンゴの代金を肩代わりするといってあげました。するとその子がおばあさんに謝り、彼女の顔も笑顔に変わりました。少年は彼女の荷物を持って、同じ方向に仲良く歩いて行きました。

マルチンが仕事を終え、福音書を開こうとすると、昨日とは別の箇所が開けました。また、後ろに誰かが近づいてくる気配を感じました。そこでふと、「マルチン、マルチン、おまえにはわたしが分からないのかね?」という声がしました。

マルチンが、「だれだね」と答えると、「わたしだよ、これがわたしだよ」という雪かきの老人の姿が見え、すぐに消えました。

さらに、「ほら、これもわたしだよ」と言いながら赤ちゃんを抱いた母親があらわれて、にっこりしましたがすぐに消えました。

さらに「これもわたしだよ」と言うおばあさんとりんごを手にした男の子が現れ、にっこりとしたかと思うとすぐに消えました。

マルチンの心は喜びで満たされました。そこで先の箇所で、イエス様が「あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸して⋯⋯くれたからです」と言っておられました (35節)。

さらにその後に、「あなたがたがこれらのわたしの兄弟たち、もっとも小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と言われたと記されていました (40節)。

そこでマルチンは、「夢が自分を欺かなかったこと、まさしくこの日、彼のところへ、救世主が来られたのだということ、自分が主を正しく迎えたということを、悟った」と記されています。

イエスは、「あなたは施しをするときには、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」と、愛の働きが無意識のうちになされることの大切さを述べられ、「隠れたところで見ていられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」という保証を与えてくださいました (6:3、4)。その意味でこの物語は感動的です。

マザー・テレサも「私たちは、貧しい人の中で、飢え渇いている主に出会います」と言っています。彼女にとって、貧しい人を助けることは、慈善事業ではなく、キリストへの礼拝の姿です。彼女たちはそこでイエスとの生きた交わりを体験しているのです。

そのようなことを知らせてくれるのが、このイエスの最期のたとえです。そのような読み方が、多くの人々をキリストの愛の使者として動かしてきました。

2.「羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分ける」

ただ一方で41節では、「王は左にいる者たち」に向かって、「のろわれた者ども、わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ」と、恐ろしいほどに厳しいさばきを宣告されます。

そして、その理由を、「おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった」と言われました (42、43節)。

それに対して彼らは、「主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、病人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」(44節) と答えます。

それを聞いた「王は彼らに」、「まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ」(45節) と言われます。

そしてその結論が、「こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです」(46節) と描かれます。これはまさに最後の審判の記述と言えます。

この部分を読んだ多くの人は、自分がマザー・テレサや靴屋のマルチンとは反対に、「空腹で、渇いて、病人である方」を見ていながら、その人々の前を見ないふりをして通り過ぎた覚えがないでしょうか。

善きサマリア人のたとえに出て来る祭司やレビ人と同じように、「強盗に襲われた」、裸で傷ついていた「人を見ると、その反対側を通り過ぎて行った」と描かれる生き方をしては来なかったでしょうか (ルカ10:31、32)。

善きサマリア人の姿が人々に感動を生むのは、ほとんどの人が、そこに描かれた祭司やレビ人と同じ行動を取った覚えがあるからではないでしょうか。ところが、このマタイ24、25章に描かれたイエスの最期の「終わりの日の説教」の結論が、ホームレスの方の前を見て見ぬふりをして通り過ぎた者は、「悪魔とその使いのために用意された永遠の火」に入れられるという警告なのでしょうか。

もしそうなら、私たちはイエスの最期の審判が怖くなって、イエスの母マリアにおすがりするしかないような気持になるかもしれません。

しかしイエスの第一の説教は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」で始まっていたのです。五番目の終わりがそれと正反対の「のろい」で良いのでしょうか。

改めてこのたとえの始まりを見る必要があります。

まず31–33節では、「人の子がその栄光を帯びて来るとき、そしてすべての御使いを伴って(来るとき)、その栄光の座に着きます。そしてすべての国の人々が御前に集められます。人の子は羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます」と記されています。

この背後には、イエスが24章2節でのエルサレム神殿の崩壊に象徴される世の終わりを預言したこと、また24章27–30節で、「人の子の到来(パルーシア:栄光の現れ)」が、太陽が暗くなり、地のすべての部族が胸をたたいて悲しむ中で、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来る」と描かれた預言があります。

それは、キリストの最終的な再臨以前に、イエスが父なる「神の右の座」に着き、「王」としての支配を始められることを現していました。

イエスのことばの背後には、ダニエル7章13–27節の預言があったことは確かです。イエスは十字架にかけられる前のユダヤ人の最高議会の場で、そこにいた祭司長たちに向かって、「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」と言われ、それが「神を冒涜することば」として受け止められ、最終的な死刑判決が下されました (26:63–66)。

これはダニエル7章13節のことばですが、それはキリストの再臨ではなく、キリストの王としての支配の始まりを指していました。そしてその目的が、「いと高き方の聖徒たちのために、さばきが行なわれ、聖徒たちが国を受け継ぐ(7:22) と記されています。

それはキリスト者の喜びの時であり、その主題は、世の権力者たちへのさばきなのです。そこでの「さばき」とは、神の民にとっての救いの日なのです。

32節では「すべての国の人々」という神の民」の外にいる人々が「集められ」、「羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分ける」と記されています。羊とやぎは、日中は一緒に放牧されていますが、夜になると、やぎが耐寒性において劣るため特別に保護されます。

もともと当時の発想で、羊が祝福を受け継ぎ、やぎがのろいを受け継ぐということはありません。これは、見た目に区別がつきにくい、また分けることが困難な羊とやぎを、羊飼いが上手により分けるということが主題です。

ですから、中心点は羊飼いが自分に属するはずの羊の動きを丁寧に見守って、区別をつけることができることにあります。それと同じように、神は神の国」の外いると思われる未信者や異教徒の中から、ご自身の群れに属すべき人をより分けてくださるというのです。

つまり、このたとえの中心は、未信者や異教徒の方々を、神はどのような基準で区別されるのかということにあります。ここのテーマは、未信者の対するさばきであり、キリストの弟子たちがその行いによって「外の暗闇に追い出される」(30節) という話ではありません。

3.「世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられた御国を受け継ぎなさい」

「人の子が栄光の座に着く」(31節) とは、最後の審判以前に、イエスが復活の後、天に上り、神の右の座に着いておられることを意味します。

実際、イエスは22章41–45節でのパリサイ人との対話で詩篇110篇を引用し、「ダビデは聖霊によってキリストを主と呼んでいる」と言われました。そこでは、父なる神がキリストに向かって、「あなたは、わたしの右の座についていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と言っておられます (22:44)。

そして、パウロはコリント第一の手紙15章25節で、このことばを引用しながら、「すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっている」と述べます。つまり、イエスは今すでに、神の右の座で、全世界のすべてを治めておられるのです。

ところでイエスはご自身を「王」として位置付けながら、ご自分の「右にいる者たちに」、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられた御国を受け継ぎなさい」と言われます (34節)。

そこには、彼らが生まれる前から、「世界の基が据えられたときから」、彼らのために御国が備えられていたという永遠の選びの計画が示唆されています。

ただ、そこでは彼らが選ばれるにふさわしい姿が、「それは空腹であったときに食べられるようにわたしに与え、渇いていたときにわたしに飲ませ、旅人であったときにわたしを招き入れ、裸であったときにわたしに服を着させ、病気であったときにわたしを見舞い、牢にいたときにわたしを訪ねてくれたからです」と言います (35、36節)。

ここでは「わたしに」または「わたしを」ということばが6回も繰り返されています。それは、「祝福された人たち」が、王自身の必要に応え、愛の手を差し伸べたと感謝されているのです。

それに対し、この「正しい人たち」は、「主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、あなたが旅人であるのを見て招き入れ、裸なのを見て着せて差し上げたでしょう。また、いつ、あなたが病気をしたり、牢に入れられたりしているのを見て、あなたをお訪ねしたでしょうか」と答えます (37、38節)。

「正しい人」は「王」の必要に応えるようなことは何もしていないと答えたのです。もし彼らが、自分のした善い行いが認められることを望んでいたとしたら、「王様、私はあなたには何もできませんでしたが、これらの善い行いをすることができました」と報告していても不思議はありません。しかし、彼らは自分たちがした善い行いを忘れているかのようです。

ところがここで、王は彼らに、「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と答えます (40節)。

ここでの「これらのわたしの兄弟たち」とは、この世の貧しい人々を指しているのでしょうか。イエスはかつてご自分の母と兄弟たちが自分を訪ねてきた時に、「わたしの兄弟たちとはだれでしょう⋯⋯だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟⋯⋯なのです」と言っておられました (12:48–50)。

つまりイエスの兄弟とは、直接的には、一般の貧しい人々である前に、ご自身の弟子たちを指すことばなのです。

十二弟子を選んで彼らを派遣するに当たって、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです⋯⋯まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことはありません」(10:40、42) と言っておられました。

つまり、イエスにとっての「兄弟たち」、「この小さい者たち」とは、第一義的には、イエスの弟子たちを指していたのです。これは、イエスの弟子を受け入れ、またイエスの弟子をもてなす者は、イエスご自身を受け入れ、また、もてなすことと同じ意味であるということになります。

マタイ26章からはまさにイエスがときの権力者たちに捕らえられ、十字架に架けられる場面になります。そして、イエスの弟子として歩むとは、イエスと同じように迫害を受け、飢え、渇き苦しみ、裸にされ、投獄される者となります。

そのような困難を前に、イエスはご自分の弟子たちに、彼らが受ける苦しみは、ご自身の苦しみであり、彼らが受ける愛の行為は、イエスに対する愛の行為とされ、弟子たちを援助する者は、決して報いを失うことはないと保証されたのです。

私たちはイエスの弟子を明確な信仰告白をした者に限りがちですが、先の一杯の水のマルコでの並行記事では、イエスが同じことを語られる前に、「わたしたちに反対しない人は、私たちの味方です」と言っておられます (9:40)。

イエスに属する「羊」と見られる人々は、多くの信仰者が思い浮かべる以上に幅の広い人々を含むのではないでしょうか。

一方で、イエスは23章34–36節で、律法学者やパリサイ人に向かって、「見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る⋯⋯これらの報いはみな、この時代の上に降りかかる」と語り、ご自身のしもべを迫害する者への厳しいさばきエルサレム神殿の崩壊とともに訪れると宣告しました。

実際に、昔からイエスの弟子を助けた者までもが迫害を受けるようなことが何度も起きました。しかし、イエスの弟子たちの苦しみを見ていながら見ないふりをする人たちに、神は明確なさばきを下されます。

それは神がアブラハムを召し出した最初に、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう」と言われた通りです (創世記12:3)。事実イエスは、先のマルコのことばと対照的に、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです」と言われました (12:30)。

つまり、イエスの弟子たちの苦難に共感できない人やその働きを応援できない人は、イエスの敵として、「王の左」に置かれる者として、悪魔とその使いの仲間と見られて、永遠ののろいを受けるというのです。

たとえばオバデヤ書では、エドムの人々がエルサレムの苦難の日に、「おまえは素知らぬ顔で立っていた」と非難され、さらに「おまえは兄弟の災難の日に、それ見ていてはならない。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜んではならない⋯⋯おまえの報いは、おまえの頭上に返る」というさばきが宣告されます (11、12、15節)。

つまり、神の民の苦難を見て、素知らぬ顔で立っている人は、のろいを受けると記されているのです。イエスはこの原則を弟子の集団に当てはめ、弟子たちを愛する者は神の民の中に加えられ、弟子たちを無視する者はさばきを受けると言われたのです。

これが分かるとき、私たちは自分の信仰のゆえに周りの人々に迷惑をかけてしまうことを恐れずに、イエスに従い続けることができます。

つまり、この羊とやぎに分けられるたとえは、最後の審判の基準である前に、これから苦難の歩みに入ろうとする弟子たちへの励ましのことばなのです。

エゼキエル34章11、15–17節には、終わりの日の神の約束が、「見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し求め、これを捜し出す。⋯⋯わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる⋯⋯わたしは失われた者を捜し、追いやられた者を連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う⋯⋯見よ、わたしは羊と羊、雄羊と雄やぎの間をさばくと記されていました。

つまり、ここに記されたたとえは、神が多くの未信者の中から、ご自身の群れに属する羊を捜し出し、ご自身の羊の群れに加えるプロセスが描かれているのです。神はご自身の羊の群れを増やしてくださいます。

マザ–・テレサは、「この最も小さい者」の範囲を、異教徒を含む全人類にまで広げました。それは文脈を離れているようでありながら、大切な要点を抑えています。

彼女は、「私の生命ならいつでも差し上げます。でも信仰をあげるわけにはいきません」と言っていますが、彼女にとってイエスは自分の生命よりも大切な存在でした。

そしてすべての奉仕は、イエスへの愛の現れ、イエスへの礼拝となっていました。この箇所をどのように解釈するとしても、イエスへの愛を隣人愛と結びつけるという点では同じです。