Talent(タレント)ということばは、研究社英和大辞典(1960年版)で「発達させて世のために役立てるように神から人に委ねられたと考えられる素質、才能、〔聖書〕マタイ25章14–30節のたとえ話しから」と記されていました。
それほどにこのたとえは、現代の文化に影響を与えています。ここから現代日本語で芸能人を指す「タレント」などということばが派生しました。多くの日本の信仰者は、冒険や目立つことを避ける傾向がありますが、このタラントのたとえでは、失敗を恐れ過ぎて心がひるむ者が「怠け者」と叱責され、神の国の外に追い出されると言われています。
何かの大きな失敗をした人ではなく、神から与えられた才能を埋もれさせる人こそが、「悪い、怠け者のしもべ」と呼ばれるという逆説を覚えたいと思います。
1.「するとすぐに、五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた」
14節は新改訳で「天の御国は⋯⋯のようです」と訳されますが、原文には「天の御国は⋯⋯」ということばは記されず、1節のことばを説明として加えて訳しているに過ぎません。
厳密には、「それは旅に出る人のようです、その人は自分のしもべたちを呼びました。そして自分の財産を彼らに預けました」と記されているだけです。
とにかくこれは、愚かな五人の娘と賢い五人の娘のたとえと同じ枠のたとえで、もともと、24章45節の、「いったいだれでしょう。忠実で賢いしもべとは」という問いかけの続きに他なりません。
そこでは、「いったいだれでしょう、忠実で賢いしもべとは。彼を主人はその家のしもべたちの上に任命し、彼らにふさわしいとき(食事時)に食事を彼は与えます。主人が来るときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです」と記されていました。
「忠実で賢いしもべ」とは「真実(誠実、信仰的)で、分別がある(気が利く:sensible)」とも訳されることばです。彼には自分に働きを委ねてくれた主人の真実に答えようとする真実さと、主人の期待を知覚できる分別があります。
ただし、そこでは主人の帰りが分からないので、「目を覚まし続けている」とか「用心している」という以前に、主人の期待に応えて、委ねられた仕事を「忠実(誠実)に賢く」やり通すということが求められています。
つまり、この文脈では「賢いしもべ」としての五人の娘が描かれた後で、「忠実(誠実)なしもべ」としての二人の姿が描かれているのです。
そしてこのたとえでは任された財産を二倍に増やした人に同じように、「よくやった。良い忠実(誠実、信仰的)なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実(誠実)だったから、多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(21、23節) と告げられますが、これは先の24章47節で、働きを評価してもらった「しもべ」に、「主人はその人に自分の全財産を任せるようになります」と書かれていたことと基本的に同じです。
つまり、これらのたとえは、イエスがご自分の弟子たちに、ご自分がこの地で始めた働きを、信頼して委ねて天に上り、再びこの地に帰って来る時に、その働きを評価するという意味で記されているのです。
なお、「天の御国」とは、いわゆる「天国」ではなく、目に見えない天の神のご支配の現実を描写したものです。それは、神がご自身の民にこの世の働きを委ね、その結果を問われるという文脈です。
その際、「それぞれの能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた」(15節) とあるように預ける額に差があります。
「一タラント」は六千デナリであり、当時の労働者や兵士の約二十年分の給与に相当します。現代の日本の平均年収の感覚で仮に年収五百万円の人なら一億円に相当するとも言えます。
それで計算すると、五タラントとは五億円を、二タラントとは二億円を預けられるようなものとなります。多くの人の感覚なら、額が大きすぎて、これで「商売をする」気にはならないかもしれません。
ところが、「五タラント」を預けられた人も、「二タラント」を預けられた人も、主人が旅から帰って来るまでという短期間に、それを二倍に増やしたと描かれています。これは、大きなリスクを取る大胆な商売をしない限り不可能なことと言えましょう。
しかもここで「するとすぐに、五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた」と記されます (15、16節)。これは与えられた才能を「じっくりと生かす」という適用以前に、「すぐに⋯⋯出て行って」とあるように、具体的なビジネスに着手する話として受け止める必要があります。
ここでの「商売をする」という動詞は通常は汗水をたらして手作業のような「仕事をする」という意味でのことばです。また「もうけた」ということばも、努力または投資によって「利益を得た」いう意味です。
とにかく、この五タラント預けられた人は、全身全霊をかけて仕事をして、五億円を十億円にするような結果を出すことができたということです。これは決して現代的な大胆な株式投資とか為替のトレードとか、誰かのうまい儲け話に乗って簡単に儲けることができたということではなく、誠実な仕事で利益を得る話しを指します。
2.「五タラント、二タラントを生かす商売?」「わずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう」
当時は、そのような大掛かりな仕事には、どのようなものがあったでしょうか。
これは推測ですが、たとえば、イエスの少し前のヘロデ大王は神殿大拡張工事から宮殿の建設まで、建築工事に情熱を傾けていました。そこには多くの熟練労働者の必要がありましたが。建築資材の調達から労働者の確保まで、多くの資金が必要になったことでしょう。
そのようなときに、もし、この五億円を預かった人が、様々な人脈を生かして、その道の専門家を雇い入れ、どこかに眠っている建築資材や非熟練労働者を安く雇うことができたら、王の官僚たちでは柔軟にはできないような働きをして、利益を出すことができるでしょう。
これに似たことで、このコロナ禍の中での最大の問題の一つが看護師不足でした。遠隔地に移動できる看護師の方々とコロナで疲弊する病院の必要をうまく結びつけるなら互いが助かるので、それを結び付けるビジネスができると五億円を十億円に増やすことができるのではないかと思います。
それで米国の例を調べてみました。米国ではトラベル・ナース派遣業が大きく成長したと言われます。それはコロナ病棟で看護師が不足したときに短期間だけ遠隔地に住む看護師を派遣するというシステムです。それによると、たとえば米国の看護師の平均の一週間の給与は1400ドル(約20万円)であるのに、トラベル・ナースの場合は一週間で5、000ドル(約70万円)から、1、000ドル(約140万円)が支払われるとのことです。それは短期的な必要に応える柔軟性に対する報酬です。
これをもし日本でするとしたら、最初の五億円ですぐに仕事がない看護師の方の最低限の給与を保証し、病院からの要請に応じてすぐにそこに向かうことができる信頼関係を培うことができるかもしれません。職場の流動性とか勤務形態における看護師の保護事前に保証するための投資が必要かと思われます。これも看護師が引き受けるリスクを代わりに引き受けるための投資によって収益を上げるということです。
そして、このようなネットワークを作ると、まさに病院からも移動を厭わない看護師からも歓迎されます。まさにウィン・ウインの関係から生まれる仕事です。
また当時は、「ナルドの香油」に代表される「香油」や「乳香」「バルサム油」などがあり、数々の芳香植物から採取されており、そのような植物の栽培もなされていたようです。もしそれぞれのそのような香料の産地に専門家と資金を提供し、都市から離れた場での生産活動を支援する形を整えるということができるなら、それも大きな商売になる可能性があることでしょう。
それは都市と田舎の賃金や技術格差が利益を生む機会であるとともに、貧しい農村地域に副業を生み出すという効果もあるかもしれません。多額の資金を動かし、利益を生み出すことは、多くの貧しい人々に仕事を与える機会でもあります。
現代ではプラントエンジニアリングという仕事があります。たとえば、海外の天然ガス資源を用いて液化天然ガスの工場を現地に建てるという働きです。日本の製造業が培ってきた高い技術力を発展途上国で生かし、また日本からの豊かな資金力を用いて、現地に工場を建設します。
その際は、基本的に現地の人々を雇い、現地の人々が工場運営に携わることができるように、懇切丁寧に現地の人々に関わって行きます。工場が出来上がると、日本は原油の中東諸国への依存を引き下げて、資源供給を多角化できます。これは、日本の高い技術力や資金力と現地の資源と安い労働力を生かし合う働きです。
しかし、しばしば、工場建設の段階で、現地の人々が期待通りに動いてくれないということが起きます。プラントエンジニアリングの責任者は、現地に張り付いて、現地の人々が自分たちのための働きだという意識をもって責任を全うしてくれるように働く必要があります。
このような働きでの利益は、技術、資金力、資源、労働力の格差があり、それを調和させることから生まれます。それは権力機構を用いた命令によっては成し遂げられない働きです。
五億円を用いて五億円の利益を出した人は、そのような気の遠くなるような調整力を発揮した結果として利益を手にするのです。まさに汗水たらした労働の結集です。
そのようなチームワークを立ち上げるために多額の初期投資が行われ、それが二倍に増えるということは、あり得ることではないでしょうか。この働きは、工場が軌道に乗った時点で日本と現地の合弁会社の経営に引き渡され投資資金が回収されることになります。まさに五タラントが十タラントになる働きです。
このあたりのお金の流れに想像をめぐらさないと、これは単なる金儲けの話と見えるかもしれません。しかし、この投資された多額のお金が、人と人とを結びつけ、現地の必要に答えられているのでなければ収益は生まれません。実は、収益を生むというのは、あなたの仕事が、人々から必要とされ、評価されているということの最大の証しなのです。
そして、多くの私たちへの適用として、自分に創造主ご自身から預けられている「才能」としてのタラントを生かすということにつながりますが、それはほとんどの場合、人と人との協力関係から生まれる仕事を通して、実際の生活の糧を生み出すということにつながります。
五タラントを十タラントにした人も、二タラントを四タラントにした人も、それぞれが主人から「おまえはわずかな物に忠実(誠実、信仰的)だったから、多くの物を任せよう」(21、23節) と全く同じ賞賛を受けます。
これほどの多額なお金が、「わずかな物」と呼ばれ、さらに大きな責任を与えるための試験だったというのです。
私たちは自分に預けられた賜物を過小評価してはいないでしょうか。しかも、儲けた額は異なっても、「よくやった。良い忠実(信仰的)なしもべだ。⋯⋯主人の喜びをともに喜んでくれ」とまったく同じ評価が与えられます。
神が見ておられるのは、儲けた金額の多寡ではなく、預けられた賜物をどれだけ生かすことができたかという点です。
目立たない働きを忠実に行っているある人が、「『神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました』(エペソ1:3) と聞くとき、この神の公平な評価と喜びを思い浮かべます」と言っていましたが、その通りのことが記されています。
3.「悪い、怠け(委縮する、不活発な、後ろ向きな)者のしもべだ」
一方、「一タラント」しか預けられなかった人は、自分にとっての莫大なお金を失うことを恐れるあまり、「地面に穴を掘り、主人の金を隠した」と描かれます (18節)。
その理由を、「あなた様は、蒔かなかったところから刈り取り、散らさななかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。それで私は怖くなり」(24、25節) と言います。これは、この人が勝手に判断した主人の姿にしか過ぎません。
それに対し主人は、「悪い、怠け(委縮する、不活発な、後ろ向きな)者のしもべだ」と呼びました。これは先の「良い、忠実(誠実)なしもべ」と真逆の意味です。
ここでは、預かった約一億円の財産を減らすのを恐れて冒険できなかったことが非難されています。「怠け者」とは、危険ばかりを恐れて委縮する生き方を指しているというのは本当に興味深いことです。
確かにすべてにおいて心配性の人がいますが、ここでの「怠け者」とは、お金を預けてくれた主人の意向を知ろうとしなかったことを指しているとも言えます。
さらに主人は彼に向かい、「おまえは分かっていたというのか?私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めるということを。それなら、おまえは私の金を、銀行に預けておくべきだった」と言いました。
なお、銀行 (Bank) と訳すのは問題かもしれません。なぜなら多くの人が思い描く「銀行」とは1587年にイタリアのベニスで始まった業態で、そのようなものがイエスの時代にあるわけがないからです。これは、両替人や金貸し業者の「テーブル」から派生したことばで、英語の Bank とは、この「テーブル」または「ベンチ」に由来します。
ここに Bank の語源が出てくるのは本当に興味深いことです。律法 (申命記23:19、20) によれば、利息は同胞ではなく外国人からしか取れないはずですし、当時の貸し出し利息は、お金の場合は年利20%、物の場合は33.3%が相場だったとも言われます。
要するにこれは、両替商や高利貸しに金を預けることの勧めなのです。ですから、これは、「私をそんな人間だと思うのなら、それと同類の人に預けてでも、もうけるべきだった」という皮肉を込めた叱責と言えます。
そしてここでは、「そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに」(27節) と言ったと記されます。
これは当時の金利感覚では一億二千万円近くに増えていたということかもしれません。ただ、ここで興味深いのは、この一タラントは、あくまでも主人から預けられた主人の財産であって、主人はそのお金が何らかの形で生かされることを求めているということです。
それにしても、両替商や高利貸しに、主人から預かったお金を貸すことにも、何らかの危険が伴います。ですから、ここでの主人の意向とは、危険を冒してでも、お金を生かすことを考えるようにという意味と理解できましょう。
このたとえでも、またルカ19章に描かれるミナのたとえでも、損をした人の例が記されていません。しかし、損をすることはもともと問題にもならないとも考えることができます。聖書に描かれた偉人、ノアにしても、アブラハムにしてもダビデにしても、失敗をしない人は誰もいません。
ダビデなどは、あの恐ろしい罪とその結果が赤裸々に描かれ、それがどんな罪も赦されるということの保障とされています。多くの日本人は、一度でも失敗してレールを踏み外すと、元に戻れないという恐怖の中に生きていますが、聖書の世界では失敗を恐れて冒険ができない人が「怠け者」と呼ばれていることを覚えるべきでしょう。
何人かの方々から、「投資信託やドル預金で大損をしてしまいました。欲張ったことのバチが当たったのでしょうか?」という趣旨の質問を受けたことがあります。
そのような人には、「それを言うなら、ゆうちょ銀行に預ける方がもっと悪いことだと思いますよ。元本保証と言ったって、インフレになったら実質価値が下がるだけです。日本の財政事情を見ると、それも本当は大変なリスクを犯していることかもしれません。しかも、そのほとんどは国の借金を補填する国債にまわっています。それは、神から与えられた創造力を無駄にすることになりはしませんか?」とお答えさせて頂きました。
実はお金を「地の中に隠す」ことは現代的には企業への融資を行えない「ゆうちょ銀行」に預金することと似ているのかもしれません。なぜなら、そのお金は、社会の一人ひとりの創造性を助ける働きには生かされないことが確実だからです。
イエスはここで何よりも、機会を生かさず、才能を埋もれさせてしまうことを非難しているのです。当時の律法学者、パリサイ人は、聖書を「戒めの規定」に変えてしまい、結果的に神を、失敗を赦すことのない「厳しい方」にしてしまっていました。この日本社会にこそ、パリサイ人のような人が多くいます。
ここではその後のことが、「そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ」(29節) と記されます。
不思議にも、一タラントを無駄にした人には、主人から「私の金」「私の物」を無駄にしたと責められる一方で、「十タラント持っている者」には、さらに「預けられる」のではなく「与えられる」と記されています。そして、十タラント持っている人はますます豊かにされています。
ただし、ここでの「持っている者」とは、「能力ある者は」という意味ではなく、「主人の喜び」を思い描きながら働く者と、主人を「厳しい方」だと恐れながら才能を埋もれさせる人との差を表しています。
「忠実なしもべ」と呼ぶ際の「忠実」とは誠実とか真実とも訳すことができることばです。それは「信仰」と同じ語源のことばです。つまり、父なる神への真の信仰を持っている者はますます豊かにされ、不信仰な者はますます貧しくされるという意味なのです。
それは私たちにとっては、イエスを神が遣わされたひとり子であるという信仰、神の愛を信じる信仰を持っている人はさらに豊かにされるという意味であると理解できましょう。
そればかりか、「一タラントを地の中に隠しておいた」人は、「この役に立たないしもべ」としてさばかれ、主人から「外の暗闇に追い出せ」と命じられます。これは神の民から締め出されることで、そこで「泣いて歯ぎしりする」(30節) というのです。
「泣いて歯ぎしりする」とは、この福音書に何度も登場する表現ですが、その最初は、「御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです」(8:12) と記されていました。これはイエスがローマ帝国の百人隊長の真実な信仰を称賛しながら、終わりの日に、自分がアブラハムの子孫だと誇っているユダヤ人に向けてそのように語ったということでした。
とにかくこのタラントの話は、預けられた高額な資金を、人と人との新たな協力関係を生み出す何らかの事業に投資して初めて、現実の利益を生み出すということが前提となっています。
多くの人々は、五タラントを十タラントに増やすというたとえは、自分の現実とはあまりにもかけ離れていると思えることでしょう。それはこのような事業を自分で始めるということが自分の想像を超えていると思われるからです。
しかし、イエスはこのたとえを特別な実業家に向けて語られたのではなく、漁師の仕事しか知らなかったような弟子たちに向けて語っておられます。それは弟子たちのこれからの働きが、そのように人と人との必要を結びつけ、互いに助け合うものであるとともに、そこには大きなリスクが伴うものであるからです。
私たちが社会に出て何らかの働きに着くということには皆同じような原則があります。それを自分で自覚はしていなくても、私たちはそのような人と人との関係に中に自分の身を置いて、裏切られるリスクも負いながら、自分の才能が何らかの協力関係の中で用いられることを期待して、積極的に自分自身を差し出してゆくという原則はすべての人に共通しています。
讃美歌291番1節の「しのびて春を待て」の「しのびて」とはドイツ語の原文では「ひるむことなく」と記されています。また2節の「なやみは強くとも」とは、「すべてが崩れたとしても」と記されています。
これはまさに失敗を恐れずに進む勇気の歌です。