昨日の投稿でエリザベス女王の召天と契約の虹のことを書きましたが、ちょっと分かりにくい面もあったかもしれません。
聖書に親しんでいる英国人は、次のように感じたのではないかと思います。「女王の死を悲しむように、雨が降っている。でも、神はそこに美しい虹を見せてくださった。それは神がこの世界を守っているという契約のしるしだ。神は英国と英連邦王国の王政を引き続き祝福してくださると約束してくださったかのようだ……」と。
私たちがあるものを見て、そこに神の祝福のしるしを見ることができることの中に聖霊様の働きがあると思われます。
二週間前に、今は無人となっている実家を見に行きました。母が家にいるときには、丁寧に庭に花を植えており、僕は帰る度にその庭の草取りをしていました。今回、見に行くと美しかった庭は雑草だらけでした。
ところが、雑草に挟まるように「ほおずき」が咲いていました
これは拙著「心が傷つきやすい人への福音」の表紙として採用された花です。
表紙をデザインしてくださった方は、次のようにその意味を書いてくださいました
ほおずき(漢字では「鬼灯」と書きますね)の葉脈と中の紅い実だけを残した「透かしほおずき」を、傷ついた人の心模様を象徴的に表わしているモチーフとして使ったデザイン案です。
タイトルを、そのほおずきに合わせてあえて低い位置に設定して、「うなだれ、我がうちに思い乱れる(詩編42・口語訳)」人の心を表わしてみました。
僕は草花にはあまり関心がなく、どうして「ほおずき」がイメージされたのかも心にピンとは来ていませんでした。でも、この表紙のデザインはとっても評判が良いとのことです。
実家の庭のほおずきは、母が植えたのか、自然に生えて来たのか……僕はまったく分かりません。でも荒れ果てた庭に、雑草に混じってほおずきだけが咲いていたということに、とっても深い感動を覚えています。
その意味として引用された詩篇42篇6節には次のようにい記されています
私の神よ 私のたましいは 私のうちでうなだれています……
わがたましいよ なぜおまえはうなだれているのか。
なぜ 私のうちで思い乱れているのか
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる
私の救い 私の神を
イエスがゲッセマネの園で、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言われた時、この詩篇のことばを思い起していたということは明らかです。「うちしおれる」のギリシャ語七十人訳は、イエスのことばとして記された「深い悲しみ」と同じことばだからです (拙著p64)。
この本が生まれたのは、コロナ下の中で、自分の心が深く傷つくような体験があったからです。ただ、それは決して決して、「私は……誰かに傷つけられた」というような意味ではありません。私たちの心はいろんなことで傷つきます。そこで私たちに求められているのは、自分が傷ついた原因を周りに捜し求めるとか、自分の心の弱さとして考えるかなどという 原因結果の考え方ではなく、ただただ、自分の正直な気持ちを神に注ぎ出すことです。
自分の苦しみの中でイエスに出会うことができるなら、必ずそこから復活のイエスと出会うことができます。ただ、それには時間が必要です。
イエスが自分と共に悲しんでいてくださると実感できるときに、そのイエスは私たちの罪のために十字架にかかり、そこからよみがえられたという現実もやがてわかるようになります。
僕は正直、自分でこの本を書きながら、結論がどうなるかは見えていませんでした。しかし終わりに来たとき、「心の傷つきやすさは、喜び、創造性、愛、信仰などの誕生の場でもあります」ということばが、本当に、自分自身の証しとして生まれてきました (p230)。
今回の本も、その一つの証しでもあります。心が傷つくことを通して、イエス様との交わりが深まるのを本当に実感しています。荒れ果てた庭に、ほおずきだけが ひっそりと咲いていた……そこに神の慰めと希望を体験させていただきました。そこに聖霊のみわざがあります。
今、この本にとっても良い反応が出ています。最初に出版社から預かった百冊が足りなくなりつつあります。また、様々な心の痛みを抱えた方から、感謝のことばもいただいています。
引き続き、この本が用いられるようにお祈りいただければ幸いです。