「人はうわべを見るが、主 (ヤハウェ) は心を見る」(Ⅰサムエル16:7) と記されますが、この世界の指導者たちにとって「うわべ」を整えることは大変重要です。「人はうわべを見る」という冷徹な事実を軽視すると、人々の尊敬を得ることはできません。
ロシアのプーチン大統領は一時期、自分のたくましさや有能さを、映像を通して流すことに力を傾けていました。ただ、それは極めて近視眼的な見方とも言えましょう。長期的には、一人ひとりの「心を見られる」主 (ヤハウェ) を忘れた生き方は、どこかで破滅に向かいます。
今日の聖書箇所は、女性に焦点が当てられ、その結論で「麗しさは偽り、美しさは空しい」と描かれますが、社会的な評価を含めての外面に囚われるということでは男性にも同じ問題があります。
「主 (ヤハウェ) を恐れる生き方」とは何かということを、この箴言の最終章を通してともに覚えたいと思います。
1.「口を開きなさい……すべての消えゆく人々の訴えのために」
1節最初の「マサ」ということばですが、30章1節も同じことばから始まっていました。そこではこれを新改訳のように地名と理解するか、「託宣」という意味に理解するかが分かれていました。後者をとるならここは、「レムエル王のことば、彼の母が教えた託宣」と訳すこともできます。
2節は新改訳では「何を語ろうか」ということばが繰り返されています。しかし厳密には、「何か、わが子よ。何か、わが胎の子よ。何か、わが誓願の子よ」と記されています。聖書協会共同訳は、「何か」の部分を「ああ」と訳しています。大切なことを言語化できない葛藤が表現されているとも解釈できます。
3節は、「与えてはいけない。女たちにあなたの力を。あなたの歩みを、王を滅ぼす者たちなどに」と訳すことができます。母である女性が、王にとって女性がいかに危険な存在であるかを諭し、それが10節以降の「しっかりした妻」の詩につながると思われます。
4、5節は「これは王たちのためにならない、レムエルよ、王たちのためにならない、ぶどう酒を飲むことは、君主たちのためにならない、強い酒を求めることは。そうしないと、飲んで、定められたことを忘れ、すべての虐げられている者たちの訴え(さばき)を曲げてしまうからです」と訳すことができます。
ここでは「ぶどう酒を飲む」ということばが、「強い酒を求める」という表現によって言い換えられ、酩酊することの危険が続けて描かれています。
当時の保存手段の限られた社会で、「ぶどう酒」は極めて自然な飲み物でしたから、ここで飲酒自体が王のためにならないと言っているよりは、強い酒を飲むことで王としての責任ある働きに支障が起きてはならないことを指摘したことばと言えましょう。
さらに6、7節は、「与えなさい、強い酒は滅びようとしている者たちに、ぶどう酒はたましいの苦い者たちに。その人は飲んで自分の貧しさを忘れ、もう自分の惨めさを思い出すことがない」と訳すことができます。
これは、「滅びようとしている者たち」に対する皮肉を込めた表現です。それが「心の痛んでいる者」(新改訳)というより「たましいの苦い者たち」と言い換えられます。それは、夢も希望も失って、恨みに満たされた状態の人を指す表現です。
それは、飲酒が貧しい人たちのとっての慰めになるというような意味ではなく、自分の心を麻痺させて滅びに向かうことの危険を語った、警告のことばと言えましょう。
8、9節は、「口を開きなさい、口のきけない人のために。すべての消えゆく人々の訴えのために。口を開きなさい、正しいさばき(政治)のために。苦しむ人や貧しい人の訴えを(守りなさい)」と訳すことができます。
新改訳で「すべての不幸な人」と訳されていることばは、厳密には「消えゆく(過ぎ去る)人」と訳すべきかと思われます。彼らは「口がきけない」わけではなくても、その発言権がまったく無視されるような、社会で軽く扱われている人々です。
そして、5節で用いられた「訴え(さばき)」ということばが、8、9節で二度に渡って繰り返されます。これは「さばき」というよりも、法的な「訴え」を意味することばで、今も昔も、この人間社会では、苦しみ人や貧しい人の法的な訴えや権利が軽く見られるという現実があるからです。
2.「しっかりした妻(女性)」についてのアルファベット詩
10節からは女性の美徳について記されます。興味深いのは「しっかりした(有能な)妻(女性)」と記されたことばは、ルツ記3章11節で、ボアズがルツに「娘さん、もう恐れる必要はありません……この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っています」と述べたのと同じ表現です。
そのときルツは姑のナオミの指示に従って、買い戻しの権利のあるボアズの寝床にしのび込むという大胆な行動を取っていました。
そこでの「しっかりした女」と、ここでの「しっかりした妻」ということばはヘブル語でまったく同じです。ですから、未婚の女性であっても、夫を失った女性であっても、ここに描かれた生き方は、目標とすべきことです。
またここに描かれたことの多くは、男性が求めるべき人徳でもあります。なぜなら、ここに記されていることは箴言に記された「知恵」に導かれた生き方の要約とも言えるからです。
10節~22節まで続く詩の各節の最初の文字はヘブル語のアルファベットの順番になっています。最初の妻(女)というヘブル語は、イシャーというアレフから始まる単語です。
11節の最初は「信頼し」で、そのヘブル語はバタハで、ベートから始まります。
12節最初の「なし続ける(実を結ぶ)」というヘブル語はガマルで、ギンメルというアルファベットから始まります。
13節の「捜し求める」のヘブル語はダラッシュで、ダレットというアルファベットです。
14節の始まりは「船のようになる」の「なる」で、そのヘブル語はハヤー、その初めはへーというアルファベットです。
そのように一つひとつの節を見て行くと、どのことばに注目を向けられているかが分かります。
15節の始まりは「また起きる」、16節は「よく調べる」、17節は「締め」、18節は「味わい」、19節は「手を」、20節は「手のひら」の「ひら」、21節は「恐れることはない」の「ない」、22節は「敷き物」、23節は「知られ」、24節は「亜麻布の衣服」、25節は「力」、26節は「口」、27節は「見守り」、28節は「立ち上がって」、29節は「多い」、30節は「偽り」、31節は「与え」となっています。
この詩の最初は、「しっかりした(有能な)妻(女)をだれが見つけることができるだろう。彼女の値打ちは真珠よりはるかに尊い」(10節) ということばから始まります。
「しっかりした」ということばは「有能な」とも訳せますが、男性の場合にも「勇敢な」とか「立派な」という意味で用いられることがあります (Ⅰ列王1:42、52)。新改訳の脚注では「たくましい」という訳を載せています。女性に向かって「あなたはたくましい!」ということばは、あまり誉め言葉にならない気がしますが、これを見ても、この詩が「妻」だけに限ったものではないことが分かります。
とにかく、ここではそのような有能で徳のある人物はあらゆる地上的な宝に勝ると言われているのです。
続けて、「夫の心は彼女を信頼し、彼は収益に欠けることがない。彼女はその一生の間、彼に悪ではなく良いことをなし続ける」(11、12節)と 記されます。
これも「妻の心は夫を信頼し」と読み替えても良い表現ですし、また未婚の方は信頼できる家族や友人を意識してその関係を考えると良いと思われます。
ただ、当時の妻には社会的な人格権が認められていなかったという前提があり、そのような中で、夫の社会的な成功は、妻が夫をどのように支えるかにかかっていると描くことに意味があります。
日本語で「内助の功」という表現がありますが、身近な人との信頼関係で心が安定している人は、他の人に対して虚勢を張る必要がなくなります。信頼関係が身近な人から社会に広がってゆく好循環が起きます。
3.「よく調べて畑を手に入れ、自分の稼ぎでぶどう畑を作り……」
13、14節の中心動詞は「捜し求める」です。まず彼女は、良質の「羊毛や亜麻を捜し求め(手に入れ)」、それを「喜んで自分の手で仕上げる」と描かれます。
さらに彼女は「商人の船かのようになる」ことで「遠いところから食料を運んで来る」と記されます。不思議にもここに描かれた妻は、夫の命令に受動的な従う代わりに、積極的に良質な材料を「捜し求め」、また貿易商人のような危険を冒してまで食料を手に入れる行動を取っています。
これは妻というより、すべての人に求められる「有能さ」と言えます。
15〜17節では、彼女の勤勉な姿が、「夜明け前に起きて、家の者に食事を整え、召使の女たちに用事を言いつける。よく調べて畑を手に入れ、自分の稼ぎでぶどう畑を作り、腰に力強く帯を締め、腕に力を入れる」と描かれます。
興味深いのは、自分の身近な人々を積極的に動かし、自分の判断力で畑を買うようなことまでして、自分の知恵と力で、働きの幅を広げる姿が描かれていることです。これは封建社会で言われてきた「妻は黙々と夫に従っていればよい」と勧められる価値観とは大きく異なります。
18〜20節は、「収入が善いことを味わう」の「味わう」という動詞から始まります。その豊かさが「そのともしびは夜になっても消えない」と描かれます。
さらにその働きの効率の良さが「手を」ということばから始まり「手を糸取り棒に伸ばし、手のひらで糸巻をつかむ」と記されます。
そして気前の良さが、引き続き「手のひら」ということばから始まって「手のひらを苦しむ者に開き、手を貧しい人に伸ばす」と描かれます。
興味深いのは19、20節では「手」と「手のひら」ということばが使い分けられ、それが仕事に向かうと同時に、苦しむ者や貧しい者に手のひらが開かれ、差し伸ばされるようすが描かれることです。
「収入の善いことを味わいながら」、効率よく手を使って働き、周囲に富が分かち合われる姿が感動的です。
21、22節は「恐れることはない」ということばから始まります。
そこではまず、「家の者のために雪を恐れることはない」と、寒さへの備えがなされていることが、「家の者はみな、紅(スカーレット)の衣服で身を包んでいる」と、その衣服の素材の良質さが強調されます。
さらにその備えのよさが、「敷き物」または「上掛け」を自分のために作り、「衣服」の上質さが、「亜麻布と紫の撚り糸でできている」と描かれます。
彼女は貧しい人々に手を差し伸べながらも、自分の生活で豊かさを味わうことを否定してはいません。
23〜25節は、「知られる」ということばから始まります。そこではまず、「夫は町囲みの中で人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く」と、彼女の内助の功の成果が、夫の社会的な高い評価として描かれます。
一方で、彼女が夫の仕事の収入ばかりに頼ることがない姿が、「亜麻布の衣服を作って売り、また帯を作って商人に渡す」と描かれます。
そして同時に彼女の平安に満ちた生きざまが、「力と気品をまとい、ほほえみながら後の日を待つ」と描かれます。それは、彼女が自分の力により頼む代わりに、全能の神に信頼し、「主 (ヤハウェ) の日の現れ」を、余裕をもって待つことができる姿を描く表現です。
4.「主 (ヤハウェ) を恐れる女(妻)はほめたたえられる」
26節は「口を開く」ということばから、27節は「よく見守る」から始まります。そこでは「知恵をもって口を開き、その舌には恵みの教えがある。家の者の様子をよく見守り、怠惰のパンを食べない」と描かれます。
自分が感じたことや思っていることをそのまま口に出すことは危険です。ヤコブの手紙3章9、10節では、「私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです」と記されています。
「知恵をもって口を開く」ということと、「家の者の様子をよく見守る」ということは、車の両輪のように機能します。ときに自分を表現することに忙しい人は、自分の周りの人の気持ちに目を向けることができなくなる傾向が見られるからです。
28、29節は「立ち上がって」ということばから始まります。そこでは、「その子たちは立ち上がって彼女をたたえ、夫も彼女をほめたたえて言う。『しっかりした(力ある)働きをする女は多くはいるが、あなたはそのすべてにまさっている』と」と記されています。
ここでは、子どもも夫も彼女を称賛する姿が描かれます。そこで注目されるのは「しっかりした(力ある)」ということばで、これは10節の「しっかりした妻」と言われた表現と同じ原語です。
世の中に確かに多くの有能で気品のある女性が多くいるけれども、自分の妻はその中で「そのすべてにまさっている」と夫が称賛しているのです。これは、彼女の日頃の働きや生き方から自然に生まれた称賛のことばで、これこそ彼女がこの地で得ることができる最高の宝と言えます。
どれほど社会的な評価を得ている人でも、様々な欠点を抱えて生きています。そのような中で、日頃の言動を良く知っている人から、立ち上がって称賛されることはなんという大きな励ましでしょう。
これは多くの夫が妻に対して、また、妻が夫に対して、また身近な人に対して言うべきことばと言えましょう。世の中に尊敬すべき人々が数多くいますが、あなたの身近な人に賞賛すべきことを発見し、それを表現するなら、私たちの人間関係は大きく変わることでしょう。
称賛のことばを出し惜しみしてはなりません。
30節の始まりは「偽り」、31節の始まりは「与えよ」ということばになっています。
まず、「麗しさは偽り。美しさは空しい」と描かれますが、「麗しさ」とは「魅力、あでやかさ」とも訳し得ることばで、続く「美しさ」とともに、女性の外面的な美しさがいかに当てにならず、「空しい」かが描かれます。
それに対して内面的な真の美しさが、「主 (ヤハウェ) を恐れる女(妻)はほめたたえられる」と記されます。10節から続く詩で「主 (ヤハウェ) 」ということばが登場するのは初めてです。「主を恐れる生き方」は、外面的には評価しにくいものですが、それがすべて明らかにされるときがきます。
これは、伝道者の書の結論が、「これらすべて聴いてきたことの結論とは、『神を恐れよ。その命令を守れ』 これこそが人間にとってすべてである」と記されていることと同じです。
ただ、そこではそれが世の終わりのさばきに結び付けられていますが、この箴言の最後では、「彼女が稼いだ実を彼女に与え、そのわざを町囲みの中でほめたたえよ」と、彼女の働きに対する地上的な報いを「与えよ」と命じられています。
それこそが夫に課せられた責任であり、また妻に、また身近な人に課せられた責任です。またそれは地上の王の最高の働きとも言えます。この地での善い働きに対して正当な報いが与えられことは、人々を良い働きに導く最高の動機となるからです。
この詩の当時、女性の人格権は認められていませんでした。しかし、ここではしっかりとお金を稼ぎ、同時に、貧しい人に手を差し伸べ、力と気品をまといながら、主 (ヤハウェ) を恐れる生き方のすばらしさが描かれています。
100年前の日本での尊敬される女性像に比べて何と革新的で進歩的な記述でしょう。
ただ、「この詩は、既婚女性に向けて記されているので、自分には関係ない……」などと思ってはなりません。これはすべての「主 (ヤハウェ) を恐れる」人々に向けられた「知恵」のことばです。
そのような生き方を可能にするために、神はご自身の御子と聖霊を私たちにお送りくださいました。私たちはイエスの生き方に倣うように召されていますが、それを可能にしてくださるのが創造主なる聖霊様です。